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巴人春秋(三の一・二・三)

2005-05-05 09:31:11 | 巴人関係
〔 夏 〕                                     
                                            
(一) 巴人の京都移住と江戸再帰                          
                                            
 七〇 古郷(ふるさと)をふたつ担ふて袷哉--前書き「京より下る時」
                                            
 巴人は何時頃京都に行ったのであろうか。どのような理由でその京都に移住したのであろうか。これらのことに関してのヒントは、『夜半亭発句帖』の雁宕の「序」にある。そこで、雁宕は「百里物故して獨(ひとり)あぢきなくや有けむ、異郷の客となりて難波に遊び洛に停(どゞ)まりて」との記述を残している。巴人の無二の親友の高野百里(ひゃくり)は、享保十二年(一七二七)五月十二日に他界した。とすれば、巴人の京都移住は、百里の亡くなった享保十二年以降ということになる。しかし、どうも、そのようには単純には行かないようなのである。
 その百里の亡くなる一年前の享保十一年五月三十日に江戸俳諧随一の勢力を誇示してい大立者の水間沾徳(せんとく)が亡くなった。この時の百箇日追善が江戸と上方との両方で興行され、その時の冊子が今に残されている。江戸のものは沾洲ら編の『白字録(はくじろく)』であり、上方のものは仙鶴編の『水精宮(すいしょうぐう)』である。そして、巴人の名はこの後者の上方の『水精宮』の中にあり、ここで、敬雨(後の祇空)・仙鶴・巴人の三吟歌仙も興行されているのである。ということは、どうも、百里の亡くなる一年前の、沾徳が亡くなった享保十一年には、既に、巴人は京都に滞在していたことが推測されるのである。 
 とにもかくにも、巴人は、この享保十一年の頃には江戸より大阪を経て、そして、京都に滞在していた。そして、江戸で親しくしていた、江戸俳壇の二大巨星の、沾徳と百里が相次いで亡くなり、それで、淡々ら親しい上方俳壇の大立者のいる京都に居を構える方が、巴人にとって好都合であったのかも知れない。そして、この上方俳壇の一角の京都俳壇で、巴人は着実にその地位を築いていくのである。そして、この時代が巴人の絶頂期であったのかも知れない。巴人の下には、望月宋屋・高井几圭の両巨頭の他に長島嬰利ら錚々たる俳人達が参集してきたのである。しかし、そういう中にあっても、巴人の心は何時も江戸の方に向いていたのかも知れない。例えば、「舟に問えば古郷がよし花の春」というのは、巴人の当時の望郷の想いの句と理解できようし、また、「我(わが)としの寄(よる)をも知らず花の春」の句も、巴人の当時の偽らざる心境を吐露した句でもあろう。
 そして、享保十八年(一七三三)、巴人、五十三歳の時、一つの大きな転換期となる。それは、その年の四月に、巴人が慕って止まなかった稲津祇空(ぎくう)が享年七十一歳で箱根で他界するのであった。そして、その年の十二月、巴人の句業の頂点を究めた『一夜松(いちやまつ)』を撰集し、それを北野天松宮に奉納するのである。このことは、巴人の京都在住の総決算的な意味合いも込められていたと解せられるのである。その翌年にかけてそれまでの号の巴人を宗阿に改号して、その次の年、元文元年(一七三六)の雁宕の上京の際の江戸への帰国の誘因に応えて、その翌年の元文二年(一七三七)の春、京都を出立し、その十年に及ぶ京都在住に別れを告げるのである。この掲出句は、その京都を出立する時のものである。この句の背後には、芭蕉の「秋十とせ却而(かえって)江戸を指す故郷」(『野ざらし紀行』)が響いていることは、これまた明白のことといって差し支えないであろう。
                                             
(二) 巴人と祇空                                                                                
八七 ほととぎす聞(きき)に出しが今に留守--前書き「祇空三回忌に」
                                              
稲津祇空(一六六三~一七三三)は巴人よりも十三歳年上の当時の大俳人という趣である。初号は青流、別号に石霜庵(せきそうあん)、有無庵(うむあん)などがある。大阪の生まれで、俗化する享保俳壇の中で、宗祇(そうぎ)・芭蕉を敬慕し、正徳四年(一七一四)に宗祇の墓前でする剃髪して祇空と改号した。この正徳四年には巴人は江戸にいて、時に、三十九歳であった。その翌年の、正徳五年(一七一五)には、その改号の際の祇空編の『みかえり松』に巴人の句も入集しており、同じ其角門ということで、祇空は巴人の最も敬愛する大先輩という関係にもあったのであろう。     この祇空は、享保三年(一七一八)に京都紫野に移住して敬雨(けいう)の号を称していた。そして、巴人の兄貴分のような淡々も京都にいて、江戸での巴人は、当時の江戸座の、水間沾徳(せんとく)・貴志沾洲(せんしゆう)の勢力圏に身を置きながら、ともすると洒落・難解的な比喩俳諧よりも祇空らの平明清新な法師風の俳諧にひかれていたのであろう。巴人は、この祇空の後を追うように江戸を後にして、享保十二年(一七二七)の頃には大阪を遊歴して京都に移住してしまうのである。 しかし、祇空は、その敬愛する連歌を完成させた宗祇のように、あるいは、同じく宗祇を慕い、そして、俳諧を完成させた芭蕉のように、その生涯は漂泊の連続であった。即ち、享保十六年(一七三一)の頃、関東の箱根湯本に石霜庵を結び、この二年後に享年七十一年の生涯を閉じるのである。この祇空の、その後の俳諧の歴史に記した業績は量り知れないものがあり、それは、芭蕉に匹敵するような幅の広いものであった。その後世に残した足跡を図示すると次のとおりとなる。       〔祇空の足跡〕(省略)                                                                                                  
さて、この祇空の三回忌に際しての巴人の掲出句は、「ほととぎす聞(きき)に出しが今に留守」の句形なのか、それとも、「ほととぎす聞(きき)に出しか今に留守」の句形なのか、このことについては、これまでの注釈書(日本俳書大系本・古典俳文学大系本)は前者の濁点をつけての読みであったが、濁点を付けずの疑問形の読みと解釈の方が優れているのかも知れない。いずれにしろ、巴人を知るためには祇空は避けて通れないキィーポイント的な俳人の一人ということになろう。
                                             
(三) 巴人と宋屋                                                                               
一一五 むちむちと京に十とせを五月闇                           
 
望月宋屋(一六八八~一七六六)は京都の人。初め其角門の原松に師事したが、後に、巴人門に属して、巴人の江戸再帰後、京都の巴人門を統帥した巴人門の一方の雄である。祇空が巴人を知るためのキィーポイント的な先輩的な俳人であるとしたならば、宋屋はその後輩的なキィーポイントとなる俳人の一人ということになろう。                               巴人没後の、その一周忌(一七四三)に追善集『西の奥』、三回忌に『手向(たむけ)の墨』、七回忌に『結び水』、十三回忌に『明(あけ)の蓮』、十七回忌に『戴恩謝(たいおんしや)』を編むというように、実質的な巴人門の後継者という感じの俳人であった。そして、この巴人の十三回忌の追悼俳諧集として関東の結城の雁宕らによって編まれたものが『夜半亭発句帖』であり、そして、宋屋も、「十年余三拝の日や明(あけ)の蓮」という追悼吟を、この『夜半亭発句帖』に寄せているのであった。この宋屋が京都に移住してきた巴人の門に参加したのは、享保十二年(一七二七)の頃でそれ以来、余り知人の少ない京都にあってその右腕となり巴人を助けたのであろう。
 当時の巴人は、この掲出句でも推測できるように、「何となく気の晴れないままに、五月闇のように前途が見えないままに、あっという間に十年もの間異郷の京都で過ごしてしまった」ということなのであろう。ここでは、この「むちむちと」(日本俳書大系本・古典俳文学大系本)の表記は、「むぢむぢ」とのように濁点を付して読みかつ解釈すべきと理解されるのである。「むぢむぢ」と濁点を付すると、「もじもじ(揉み手をする)」とか「もそもそと(行動するさま)」のような近世の浄瑠璃本などに見られる用語のようなのである。このようにこの上五を解すると当時の巴人の姿が浮き彫りになってくるようだし、そういう巴人の右腕となっている宋屋などの様子もうかがえてくるのである。こういう、華やかな京都俳壇の中でのがさつな田舎者の巴人の十年もの生活に別れを告げて、江戸に再帰するときの様子を、宋屋はその『西の奥』で次のように記しているのである。      「兎角にみやこを辞して東武に趣(おもむく)日、門葉二三子予(宋屋)と伴ひ淡海(近江)まで見送る。義仲寺なる芭蕉翁の碑前におのおの発句手向(たむ)けるも、おもへば生別なりし歟(か)、粟津とはこゝろうし。帰京を松本などゝ戯れ、持(もつ)扇に古郷をふたつ荷ふて袷かなと書捨(かきすて)、頓而(とんじ)逢坂の関に袂をわかる。」(このようにして京都を離れ江戸に赴く日、門人二三人と私(宋屋)とで近江まで(巴人)を送る。(その近江)の義仲寺の芭蕉翁の碑前でそれぞれが発句などを手向けてましたが、思い起こせば(それが)生きている師との最後別れでもありましたことよ、粟津では「もう会えないとは誠に心残りだ」とか、松本では「帰京をするのを待つもと」などと戯れ、持っている扇に、「古郷をふたつ荷ふて袷かな」と書きもして、しばらくして、逢坂の関でお別れヲいたしました。) 
 これらの宋屋の今に残されている文章を読んでいると、実に、京都在住時代の巴人と宋屋との関係が偲ばれ、そして、それ以上に、巴人の江戸への再帰の姿が眼前に現れてくるのであった。                   

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