思い出
2008-08-09 | 追善
法事を勤めた後には特に次の予定が差し迫ってない場合には10分程度の法話をさせていただくことににしています。
本日追善供養を勤めた伊場田家においても故人のご生前を偲び、法話をさせていただきました。
在宅で何らかの疾病等があり人生の終焉を迎えるためには家族のお世話は勿論ですが医療・福祉の専門的なサービスが十分に提供されて初めて可能となります。
故人とかかわる中でそれまでは十分に機能していなかった24時間体制での看介護が実現出来ました。
生死という人生の一大事が家族構成の変化等からだんだんと「いえ」から医療機関へと変わっている現実があります。
今日の高齢社会の進捗は医療の進歩と食生活の変化をはじめ様々な要因があり、これは日本の誇るべきものであります。
しかし一方では「生死」が私達の日常生活から遠ざかっていることも否めません。
私達は「生死」の場面を通じて「いのちの尊さ」を深く感じます。
更に一点は「縁」についての関係性を現象的にしか理解できなくなっている現状があります。
私達は「生きる」という言葉をよく使いますが、感覚器官(五感)では感じることが出来ない「縁」によって「生かされている」ことを常日頃から感じて生活する習慣があれば一見自分とは縁のないように感じている他者を傷つけたり、死に至らしめたりすることはないはずです。
「生かされているわたし」・・・・・大事にしたい言葉です。
伊場田家の皆様の身体堅固、諸縁吉祥を念じます。合掌