三重の城郭めぐり №5-②「松坂城跡」 石垣巡り②

2022-01-12 11:39:21 | 三重の城郭めぐり
今回は、松坂城 表門跡」を正面に見て右側へ進みます。
  

  
その途中に「松阪市立歴史民俗資料館」があり、
そこで「城郭めぐりスタンプ」を自分で押印、「ご城印」(@200)を頂きました。

 城内案内図(再掲)
では、ここから「多聞跡」の石垣へ進みます。
 「表門跡」から右へ
江戸時代のものとは様子が違う「石垣」に出会います。
 長い「多聞跡」石垣
蒲生氏郷時代の石積みで、いわゆる「野面積み」
前回見てきた「算木積み」とは、やはり違います。
野性味あふれるというか、研ぎ澄まされてはいない、
けど、この台形を造る技術は素晴らしいなぁ、
石垣の隅っこがスゴい!
 
本丸「きたい丸」下の石垣です、ここから右に行く階段が見えます、
外から「石垣」を見れればいいなぁ、ということでその階段を下ります。

ここら辺の「石垣」は、
「蒲生氏郷」(ガモウウジサト)が城主であった頃の「野面積みの石垣」だと思われます。
ここで今頃ですが「松坂城跡」の歴史を少々…
 (再掲)
国史跡 松坂城跡
   指定 平成23年2月7日
   面積 47,337.30㎡
 松坂城は、蒲生氏郷(ガモウウジサト)が天正16年 (1588) この四五百森(ヨイホノモリ)に
築城した平山城である。
 蒲生氏郷が陸奥黒川 (現在の福島県会津若松市) へ移封後、
天正19年(1591) に服部一忠(ハットリカズタダ)、
文禄4年 (1595) に古田重勝(フルタシゲカツ)と城主が変わり、
元和5年(1619) に徳川頼宣(ヨリノブ)が和歌山藩主となると同時に
和歌山藩領となり、以降、明治になるまで勢州領 (松坂・田丸・白子等)
18万石を統轄
する城代が置かれてきた。
 城は北を大手南を搦手(カラメテ)とし、本丸・二ノ丸・三ノ丸・隠居丸・きたい丸からなり、
本丸・二ノ丸等には高い石垣を築き、外郭に土塁や堀をめぐらせていた。
 三層の天守と金ノ間・月見・太鼓等の櫓(ヤグラ)がそびえ立っていたが、
正保元年(1644) の台風で天守は倒壊したと伝えられている。
また、二ノ丸には寛政6年(1794) に着工された御殿 (別名 徳川陣屋) があった。
 明治14年(1881) 松阪公園となり、現在に至っている。
   平成24年3月9日 松阪市教育委員会』

では下に降りますが、その先は「松阪公園グラウンド」。
  
城跡下に観客席もあります、
ここで野球の試合している少年たちよ、
城跡の石垣を見ながらなんてなかなかないよ
広くて素晴らしいグラウンドですね。

グラウンド沿いに進んで、見上げたら石垣の隅っこが見える
 いいねぇ

松阪公園プール」「殿町中学校」を経て、「本居宣長ノ宮」に出ます。
 「本居庵
見覚えのある大きな鳥居が見えて、ここでお城周りをグルっと一周した感じ、
「自然生のお好み焼き」で昼食、からだ元気になった気分です(笑)。

まだまだ見落としている所はあるかもしれないし、
グラウンドの外から「石垣」を見たいとも思います。
ここは一度ではムリで、できることならもっと歩きたい、と。

でもまだこれだけではないのです(笑)、
次回は城内に入り「櫓跡」や「多聞跡」など、ぶらり散策いたします。

では、まだまだ
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