数日前から「一緒に横に座っててや…」と言われておりました。
たまたまワタシしか時間の空いている者がいなかった、それだけの理由です💦
FM三重の です。
聴き逃し配信もあるようですが、そんなんは別にいいので、
楽しく「伊賀上野語り部の会」のPRができたので良かったかなと。
生放送後の様子です(笑)
無事に終わりました。
放送終了後、レポーターさんがblogをアップしてくれるそうですので、
またご覧ください。→「山中ちさのリポートblog」
では、緊張出来事の急遽の報告でした💦
たまたまワタシしか時間の空いている者がいなかった、それだけの理由です💦
FM三重の です。
聴き逃し配信もあるようですが、そんなんは別にいいので、
楽しく「伊賀上野語り部の会」のPRができたので良かったかなと。
生放送後の様子です(笑)
無事に終わりました。
放送終了後、レポーターさんがblogをアップしてくれるそうですので、
またご覧ください。→「山中ちさのリポートblog」
では、緊張出来事の急遽の報告でした💦
前回「その2」の続きですが、
「鳴鹿坂」の続きを少し…
「鳴鹿坂」、竹藪沿いに下ると湧き水の排水路に出ますが、
実際に水が流れているところを見たことがなかったのでその確認に、再び。
ココ平野樋之口と平野見能の丁度境の水路です。
北側の上野台地からの湧き水と東から流れてくる水が合流するところ。
やがてこの水は木津川へ行くのでしょう。
もう一度鳴鹿坂を上って見上げると
上野台地はかなり高いと見えました…
さて、実際に「江戸時代の古地図」を頼りに歩いてみて、
興味深かったのですが、現在の道と古地図の道がなかなか結び付かず苦労しました💦
ざっとおさらいをすれば
「上野五坂の一つである鳴鹿坂」から下屋敷の道を通り、
「旧さまざま園」※(=旧藤堂新七郎家)前通過(現在、管理はあまりされていないようでちょっと荒れた感じ)
※花見に招かれた芭蕉さんが「さまざまの 事思ひ出す 桜かな」の句を詠んだところ。
表門
その屋敷の横の細い路地道を東へ行くと「末光神社」、「侍屋敷」があります。
江戸時代末期から明治頃に建てられた建物。
藤堂新七郎下屋敷の一部か家臣の長屋であったそうです。
通るときは静かに通りましょう、お稲荷さんへのお参りも忘れずに。
料理旅館「三田清」の前の道をそのまま東へ行くと「道標」。
(撮影は北側から、奥に「芭蕉生家」が見えます)
この道標には
≪左 東海道せき道
右 なら者(は)せ山上道≫
南側に≪文政6年季 癸未夏五初吉≫
1823年、季は雨季(梅雨時期)のこと。みずのとひつじ 夏5月初旬吉日、でしょうか。
参考古地図⤵
古地図(秘蔵の国:上野城下町図より)
帰ってから何日も古地図とgoogle地図とを見比べていたのですが、
万が一間違っていたらごめんなさい、自分なりにメモッた古地図(福井健二氏著「上野城と城下町」より)。
さて?
いよいよ今回の二つ目の上野城下町の遺跡です。
聞くところによると平成24年(2012)度の国道25号拡張工事の際に発掘調査が行われたとのこと。
北から坂を上る部分を広くしてもらえたところですね。
当時の『上野城下町農人町遺跡』現地説明会資料一部です。
概略
≪上野盆地のほぼ中央の台地上に位置する遺跡。
天正13年(1585)に筒井定次が領主となり、伊賀上野に城を築く。
その後、藤堂高虎が伊賀上野城を大改修して城下町を整備。現在に至る。
江戸時代後期から幕末期の遺構や溝が確認され、当時の土器や銭貨(寛永通宝)が出土。
古墳時代の円筒埴輪も少数出土。
ここ農人町でも古い絵地図からココは侍屋敷(※箕浦藤兵衛など)であったことがわかっている。≫
≪古墳が2基見つかり(※資料作成後3基目が発見されたそうです)、
上野城下町がつくられる以前のこの台地には古墳がたくさん築かれていた
可能性があることがわかり大きな成果であった。
北側の柘植川・服部川、南側の久米川、西側の木津川に囲まれたこの台地は、
城郭とその城下町だけではなく、古来より盆地を見渡せる好条件の地であったことは明らか。
遠い昔の景色やそれを見つめた太古の人々の思いに触れるチャンスになれば≫とのこと。
今回の現地研修の大方の目的は達したのですが、
実はまだ前編みたいなもので、この後「城下町の東側」をあちこち歩きました。
また追々に書ければいいなぁと思っているところ…
ではまたいずれ。
追記:「三重県埋蔵文化センター/過去の発掘情報」。
「鳴鹿坂」の続きを少し…
「鳴鹿坂」、竹藪沿いに下ると湧き水の排水路に出ますが、
実際に水が流れているところを見たことがなかったのでその確認に、再び。
ココ平野樋之口と平野見能の丁度境の水路です。
北側の上野台地からの湧き水と東から流れてくる水が合流するところ。
やがてこの水は木津川へ行くのでしょう。
もう一度鳴鹿坂を上って見上げると
上野台地はかなり高いと見えました…
さて、実際に「江戸時代の古地図」を頼りに歩いてみて、
興味深かったのですが、現在の道と古地図の道がなかなか結び付かず苦労しました💦
ざっとおさらいをすれば
「上野五坂の一つである鳴鹿坂」から下屋敷の道を通り、
「旧さまざま園」※(=旧藤堂新七郎家)前通過(現在、管理はあまりされていないようでちょっと荒れた感じ)
※花見に招かれた芭蕉さんが「さまざまの 事思ひ出す 桜かな」の句を詠んだところ。
表門
その屋敷の横の細い路地道を東へ行くと「末光神社」、「侍屋敷」があります。
江戸時代末期から明治頃に建てられた建物。
藤堂新七郎下屋敷の一部か家臣の長屋であったそうです。
通るときは静かに通りましょう、お稲荷さんへのお参りも忘れずに。
料理旅館「三田清」の前の道をそのまま東へ行くと「道標」。
(撮影は北側から、奥に「芭蕉生家」が見えます)
この道標には
≪左 東海道せき道
右 なら者(は)せ山上道≫
南側に≪文政6年季 癸未夏五初吉≫
1823年、季は雨季(梅雨時期)のこと。みずのとひつじ 夏5月初旬吉日、でしょうか。
参考古地図⤵
古地図(秘蔵の国:上野城下町図より)
帰ってから何日も古地図とgoogle地図とを見比べていたのですが、
万が一間違っていたらごめんなさい、自分なりにメモッた古地図(福井健二氏著「上野城と城下町」より)。
さて?
いよいよ今回の二つ目の上野城下町の遺跡です。
聞くところによると平成24年(2012)度の国道25号拡張工事の際に発掘調査が行われたとのこと。
北から坂を上る部分を広くしてもらえたところですね。
当時の『上野城下町農人町遺跡』現地説明会資料一部です。
概略
≪上野盆地のほぼ中央の台地上に位置する遺跡。
天正13年(1585)に筒井定次が領主となり、伊賀上野に城を築く。
その後、藤堂高虎が伊賀上野城を大改修して城下町を整備。現在に至る。
江戸時代後期から幕末期の遺構や溝が確認され、当時の土器や銭貨(寛永通宝)が出土。
古墳時代の円筒埴輪も少数出土。
ここ農人町でも古い絵地図からココは侍屋敷(※箕浦藤兵衛など)であったことがわかっている。≫
≪古墳が2基見つかり(※資料作成後3基目が発見されたそうです)、
上野城下町がつくられる以前のこの台地には古墳がたくさん築かれていた
可能性があることがわかり大きな成果であった。
北側の柘植川・服部川、南側の久米川、西側の木津川に囲まれたこの台地は、
城郭とその城下町だけではなく、古来より盆地を見渡せる好条件の地であったことは明らか。
遠い昔の景色やそれを見つめた太古の人々の思いに触れるチャンスになれば≫とのこと。
今回の現地研修の大方の目的は達したのですが、
実はまだ前編みたいなもので、この後「城下町の東側」をあちこち歩きました。
また追々に書ければいいなぁと思っているところ…
ではまたいずれ。
追記:「三重県埋蔵文化センター/過去の発掘情報」。
昭和10年~30年初頭までは存在していた「(赤い)白鳳橋」。
夢の中でこの橋は渡ることにして…
次なる目的は『伊予之丸(イヨノマル)古墳跡』。
写真再掲、旧桃青中学校北西側傾斜地辺りですが、
明治40年ごろ、伊賀上野駅に通ずる道路改修の際、古墳の副葬品が多数見つかり、
古墳群の存在はその頃から知られていたようですが、
時の流れに少し置いてけぼりだったのかもしれません。
戦後本格的に「上野市街地の台地で円墳3基確認」され、
その存在が明らかになり検証の結果、
「5世紀後半から6世紀半ば」の古墳群が形成されていたとのことです。
詳しいことは ↓ こちらで紹介されています。
※①『伊予之丸古墳』(秘蔵の国ミュージアム伊賀より)
所在地画面をクリックして、左の「使い方」を読んでいただくと使い方がわかります。
「重ね地図」で現代と古地図を比べることができます。
おおよその場所の見当がつくので地図を見る楽しさが芽生える気がします。
※②「白銅四禽鏡(ハクドウシキンキョウ)」「円筒埴輪(鹿線刻)」など。
※③「ミュージアム青山讃頌舎特別展」より『伊予之丸古墳/鹿ヘラ描き埴輪」』も掲載。
鹿ヘラ描き埴輪
参考QR:三重のはにわ大集合(伊予之丸古墳出土の「蓋形(キヌガサガタ)埴輪」掲載)
次に、だんじり会館北側の細い道を東へ進むと「桃青の丘幼稚園」への進入路に出ます。
その三叉路辺りから「(伊予之丸があった)丘」北東部を見る、ここでお話を聞いていました。
ここは「上野台地」の北東側の端っこみたいなところです。
説明を聞いたところは、その境目で某歯科医院のあるところ、
そこから実は階段があります、かなり段数は多いです。
その階段を下りた先には『鳴鹿坂(鳴ケ坂とも)』(ナルカザカ)と呼ばれるところ。
白鳳通りのある北側から見たところですが、「台地の縁」の様子です。
ここでは、上野台地からの湧き水というか地下水が音をたてて流れています。
ただ「水の流れ」を見ることはできないので「音」が頼りです。
「音」を録るには「動画」がいいのですが、話し声が入っちゃったので
また改めて録りにいこうと思っています。
この坂道には「うえのし」時代のマンホールがあり、
崖部分に流水計のようなものがあり、片側は竹藪。
水の流れる音がしっかり聞こえるわけです。
「伊賀上野の城下町」に入るには『上野五坂』があります。
①車坂
②赤坂
③鳴鹿坂(鳴ケ坂)
④小六坂(小田)
⑤搭西坂(幸坂町) です。
この五坂のうちの「鳴鹿坂」は知る人ぞ知る坂ですので機会があればぜひ。
この坂は、人と自転車までは通れます。
近辺の方々にとって白鳳通りのお店に行くには近道なので意外とよく利用されています。
ワタシもお散歩時に通ったりすることもあります。
さぁ、南へ向かって少々急坂を上ると
金網防護柵側は江戸時代に「外堀」のあったところで「下屋敷の道」となっています。
今日は、この外堀跡まで、次回には「農人町遺跡」へ。
ではまた
伊賀上野城下町の歴史を辿り、歩いて知る裏話というか、
「へぇ知らなかったなぁ」という話を教えてもらいに勉強会…
今回(9/23)は上野台地(城下町のあるところ)の北東側の台地の縁(ヘリ)に沿うかんじで歩きます。
その出発点は『旧桃青中学校』。
この中学校そのものも上野公園がある台地の延長線上にありますが、
その台地は『伊予之丸』(イヨノマル)と言われ、上野城の『二之丸』でした。
その東と西の台地間には谷筋のような細い道がありました。
(現在は自動車も行き交う歩道付き2車線になり通行量も多い道です)
中学校の敷地の最西端の「ヘリ」まで行くと…そこは竹とササ藪💦
歴史的なことを紐解く前に、このササ藪の向こうには~~
『白鳳橋』という橋が一時期架かっていたようです。
おそらく団塊の世代前後の方には微かな記憶があるらしく、
もっと前の世代の方はこの橋を実際に渡っているのでは?と思います。
そしてその橋は、昭和30年初頭までは存在していたとのことです。
(残念ながらワタシには記憶がないので、あしからず)
この谷に架かっていた?
ではその橋のあった痕跡を確かめに行きましょう~
桃青中の銀杏並木の坂を下りて、
南北から車が来ないことを確かめ、上野公園側に渡り、急坂の階段を上ります。
真ん中辺りで公園側の橋の取り付け部が残っています。
車道横の歩道から南側を見ると銀杏並木も見えますね…
この画面の右から左に橋が渡っていたのかと想像して見てました。
では、実際にどんな橋だったのか、どんな風に架かっていたのか、
資料(当時の絵葉書)が残っているので見てみましょう~~
(玄蕃町に住む知人からデータを提供していただけました。)
伊賀上野全国博覧会 白鳳橋より第二会場を望む
伊賀文化産業城/上野公園/白鳳橋
(※伊賀市/デジタルミュージアム 秘蔵の国 伊賀より)
以下「解説文」転記
≪昭和10年(1935)10月12日から30日間にわたり、
伊賀文化産業城の完成を記念した「伊賀文化産業城落成記念博覧会」が開催された。
博覧会は上野公園を中心会場として、一層を産業館、二層を文化歴史館、
三層を展望楼とした伊賀文化産業城をはじめ、さまざまな展示館が設けられた。
第2会場となったのは上野城の伊予之丸跡で、上野公園の第1会場とは白鳳橋で繋がっていた。
この第2会場には上野館・国産振興館が設けられ、
伊賀焼、伊賀傘、籐細工・竹細工、箪笥、履物類、醤油等の地場産物が出品された。
また、菊人形、海女実演、サーカスなどの興行施設も人気を博した。≫
昭和10年当時の博覧会会場図(同「絵図」写真)
橋の架かっていた下の道は、
・明治38年(1905)に県の資金で東大手門~蛇池~伊賀上野駅ルート案が出るも、
・西町~馬苦労町(現・西大手の台地辺り)~伊賀上野駅ルート案の両案が膠着。
そこで、
・明治41年(1908)に、県が強行突破で「蛇池-伊賀上野駅ルート」への道を造った。
その後、
・昭和8年(1933)12月23日の皇太子誕生(現・上皇)を記念し、
・昭和9年(1934)上野町の公園に桜建木を1戸1木で募ったところ、多く集まり
公園だけでなく桜並木として植樹された。
それが現在もなお「桜並木」として親しまれている、ということです。
かなり、老木が多くなってきましたがこの道の愛称は未だに「桜並木」。
管理も大変かと思いますが、いつまでも桜並木であってほしいです。
そして、この『白鳳橋』は上野から伊賀上野駅方面への道を拡張する際に解体されたようです。
おそらく昭和35年頃のことではないかと思われますが、
「伊予之丸古墳」があったのではないかと発掘調査がされたようです、
そのお話はまた次に・・・
ではまた
2023/10/1追記
moni5187様からコメントにいただいた空中写真のご紹介です。
「国土地理院の空中写真で探すと、(確認画面がでたら同意するを押して、もう一度クリックです)
1946/05/23(昭21) 上野 USA-M143-A-6-159 に白鳳橋全体と橋脚もバッチリ写っていて、
1963/10/12(昭38) 上野 MKK636X-C10-16 は白鳳橋とアクセス道が消えているようです。」
こうして過去の空中写真もしっかり見ることができる、ということに感動しています。
確かに「白鳳橋」は存在していた!ということと、
立派な木造建築の「伊賀文化産業城」(nippon.comより)を川崎克氏が私費を投じて建ててくださったこと、
城下町に住む人間として誇りであるし、感謝してもしきれぬ方であったと…
2023/10/1 23:35 再追記
moni5187様から「吉田初三郎式鳥瞰図1942年(昭和17年当時)『上野市』」です。
これを見せていただくと、「白鳳橋は赤かった」。(家人の記憶も「赤」とのこと)
そして「俳聖殿」が建っています。
川崎克氏、再び私費を投じて建立してくださった聖堂です。
お断り「伊代」=「伊予」の間違いでした、すみません。
「へぇ知らなかったなぁ」という話を教えてもらいに勉強会…
今回(9/23)は上野台地(城下町のあるところ)の北東側の台地の縁(ヘリ)に沿うかんじで歩きます。
その出発点は『旧桃青中学校』。
この中学校そのものも上野公園がある台地の延長線上にありますが、
その台地は『伊予之丸』(イヨノマル)と言われ、上野城の『二之丸』でした。
その東と西の台地間には谷筋のような細い道がありました。
(現在は自動車も行き交う歩道付き2車線になり通行量も多い道です)
中学校の敷地の最西端の「ヘリ」まで行くと…そこは竹とササ藪💦
歴史的なことを紐解く前に、このササ藪の向こうには~~
『白鳳橋』という橋が一時期架かっていたようです。
おそらく団塊の世代前後の方には微かな記憶があるらしく、
もっと前の世代の方はこの橋を実際に渡っているのでは?と思います。
そしてその橋は、昭和30年初頭までは存在していたとのことです。
(残念ながらワタシには記憶がないので、あしからず)
この谷に架かっていた?
ではその橋のあった痕跡を確かめに行きましょう~
桃青中の銀杏並木の坂を下りて、
南北から車が来ないことを確かめ、上野公園側に渡り、急坂の階段を上ります。
真ん中辺りで公園側の橋の取り付け部が残っています。
車道横の歩道から南側を見ると銀杏並木も見えますね…
この画面の右から左に橋が渡っていたのかと想像して見てました。
では、実際にどんな橋だったのか、どんな風に架かっていたのか、
資料(当時の絵葉書)が残っているので見てみましょう~~
(玄蕃町に住む知人からデータを提供していただけました。)
伊賀上野全国博覧会 白鳳橋より第二会場を望む
伊賀文化産業城/上野公園/白鳳橋
(※伊賀市/デジタルミュージアム 秘蔵の国 伊賀より)
以下「解説文」転記
≪昭和10年(1935)10月12日から30日間にわたり、
伊賀文化産業城の完成を記念した「伊賀文化産業城落成記念博覧会」が開催された。
博覧会は上野公園を中心会場として、一層を産業館、二層を文化歴史館、
三層を展望楼とした伊賀文化産業城をはじめ、さまざまな展示館が設けられた。
第2会場となったのは上野城の伊予之丸跡で、上野公園の第1会場とは白鳳橋で繋がっていた。
この第2会場には上野館・国産振興館が設けられ、
伊賀焼、伊賀傘、籐細工・竹細工、箪笥、履物類、醤油等の地場産物が出品された。
また、菊人形、海女実演、サーカスなどの興行施設も人気を博した。≫
昭和10年当時の博覧会会場図(同「絵図」写真)
橋の架かっていた下の道は、
・明治38年(1905)に県の資金で東大手門~蛇池~伊賀上野駅ルート案が出るも、
・西町~馬苦労町(現・西大手の台地辺り)~伊賀上野駅ルート案の両案が膠着。
そこで、
・明治41年(1908)に、県が強行突破で「蛇池-伊賀上野駅ルート」への道を造った。
その後、
・昭和8年(1933)12月23日の皇太子誕生(現・上皇)を記念し、
・昭和9年(1934)上野町の公園に桜建木を1戸1木で募ったところ、多く集まり
公園だけでなく桜並木として植樹された。
それが現在もなお「桜並木」として親しまれている、ということです。
かなり、老木が多くなってきましたがこの道の愛称は未だに「桜並木」。
管理も大変かと思いますが、いつまでも桜並木であってほしいです。
そして、この『白鳳橋』は上野から伊賀上野駅方面への道を拡張する際に解体されたようです。
おそらく昭和35年頃のことではないかと思われますが、
「伊予之丸古墳」があったのではないかと発掘調査がされたようです、
そのお話はまた次に・・・
ではまた
2023/10/1追記
moni5187様からコメントにいただいた空中写真のご紹介です。
「国土地理院の空中写真で探すと、(確認画面がでたら同意するを押して、もう一度クリックです)
1946/05/23(昭21) 上野 USA-M143-A-6-159 に白鳳橋全体と橋脚もバッチリ写っていて、
1963/10/12(昭38) 上野 MKK636X-C10-16 は白鳳橋とアクセス道が消えているようです。」
こうして過去の空中写真もしっかり見ることができる、ということに感動しています。
確かに「白鳳橋」は存在していた!ということと、
立派な木造建築の「伊賀文化産業城」(nippon.comより)を川崎克氏が私費を投じて建ててくださったこと、
城下町に住む人間として誇りであるし、感謝してもしきれぬ方であったと…
2023/10/1 23:35 再追記
moni5187様から「吉田初三郎式鳥瞰図1942年(昭和17年当時)『上野市』」です。
これを見せていただくと、「白鳳橋は赤かった」。(家人の記憶も「赤」とのこと)
そして「俳聖殿」が建っています。
川崎克氏、再び私費を投じて建立してくださった聖堂です。
お断り「伊代」=「伊予」の間違いでした、すみません。
おそらく手書きの地図しかなかった頃の話、
さて、どこまできちんと「国境」を決めていたのでしょう?
今でこそ、マップを見れば境界線はよくわかりますが…
そんな論争のあった頃、やっぱり「川がミソ」だったのね、
そんなお話を少し紐解くための現場検証に行きました。
ことの発端は「幕府が『元禄10年(1697)に『藩域図』を出しなさい」と。
「この川とあの川をお互いに『国境』と主張していた、伊賀国(現・島ヶ原)と山城国(現・南山城村大河原)。」
「出された『藩域図』の国境が大幅に違うため、えっ?そんなに違うのかと驚いた江戸幕府」。
「まずは『住民同士で話し合え』」、
というのは簡単ですがそんなもん双方譲りませんって!
なぜならココら辺り、両村の住民、田畑、山林が混在状態。
でも対して問題視もせず、仲良く暮らしていたわけです。
そこでお役人が調整しようとしてもムリ無理…
双方譲らないまま、元禄11年(1698)に幕府の評定所で採決と相成りました。
「検地の現地調査の結果、双方の主張する国境※はどちらも認められず、
検使により妥協点となる場所が国境として提示※されたとな。
元禄12年(1699)裁許絵図が作成され、新たなる「国境」が双方納得の上、
それぞれ木製の「杭」を背中合わせで設置したとか。
現在の『二本杭』になります。
※双方の主張する国境とは…
・大河原の主張→「かう谷川限」
・島ヶ原の主張→「あさこ川限」
※参考妥協絵図
※参考現在地図
言葉で書いてもなかなか場所の特定はできなかったので、
それを実際に訪れてみるということは、
「一つ引き出しが増えるな」と思ったので見てきました。
なるほど、これはお互い離れている場所を主張していたんだなと、納得の「国境問題」。
お互い少しでも土地は多い方がいい、しかし二重の境があっても困る(幕府が?)ので、
きちんと整理しましょう、ということだったんですね、
そのおかげで「現在の府県境」があるわけです。
前段が長くなりましたが、
まずは長田川(木津川支流)にある「淀川遡航終点の地」石碑から
参考「大和街道/木津川の通運」
「昔、長田川から淀川まで『木津川の水運あった?」(過去ログより)
※三重県HP/三重の歴史より「長田川絵図」
長田川重要な役割担う
長田川絵図
※「長田川通船の図」
国道163号線(バイパス道)を東へ進み、
島ヶ原の「かう谷川」、現在の「小山川」の流れるところ、
ここは「岩谷山麓」で「行者堂」のあるところです。
国道から降ります、「行者堂記」があって
「小山川」の橋を渡ると「行者堂」。
「行者堂」説明は ↓ 「ぶんと通信/2021/8月号」。
過去に撮った写真から「小谷川」から「木津川」本流へ
この川は「山城国大河原村」が主張する『国境』=かう谷川(当時は神谷川とよばれていた)。
では「あさこ川」って、どこ?
163号線バイパス(京都いずみチャーミングロードと呼ばれる道かな?)を東へ、
南山城道の駅通過、約3キロほど走って
googleより
実際の景色は ↓
ほんとに小さな川ですが、ここを北へ行けば『三国峠』、
伊賀・滋賀・京都の三つの国の境ですね。
小さな川ですが、「ここはおらが村だぞ」って、しっかり主張していたわけですね。
旧大和街道では、約4.5㎞ほど離れているのですが、
おおよそその中間点が正式な国境になったわけで「一件落着」という江戸時代のお話でした。
あとは、島ヶ原地区を主に回って
「関所跡」
上のリンクは「過去ログ」ですが幾度となく訪問していますが、
きちんと説明を受けたということ、仲間で行くということは、より深く知れたかな…と思っています。
島ヶ原大橋辺りで木津川、ここは
「鍵屋の辻の仇討ち」のお話と関連しているのですが、それはまたいずれ…
夕刻の川の風景とてもきれいだったし、遠くに「三国峠」(過去ログ)。
最後に「西念寺の(渋あり)カヤノキ」(三重県天然記念物)を見て、
樹齢500年、幹回り6m、樹高20m、三重県下最大とか…
「正月堂」へ
※詳細はこちら「伊賀へいらっしゃい」
以上訪問日は7/23午後、午前中は「甌穴まつり」でした💦
我ながら、よく頑張った日(笑)。
夕立三日と言いますが、今(8/3)も遠雷が聞こえてきました、
さてどうする?雨くるかな。
ではまた
さて、どこまできちんと「国境」を決めていたのでしょう?
今でこそ、マップを見れば境界線はよくわかりますが…
そんな論争のあった頃、やっぱり「川がミソ」だったのね、
そんなお話を少し紐解くための現場検証に行きました。
ことの発端は「幕府が『元禄10年(1697)に『藩域図』を出しなさい」と。
「この川とあの川をお互いに『国境』と主張していた、伊賀国(現・島ヶ原)と山城国(現・南山城村大河原)。」
「出された『藩域図』の国境が大幅に違うため、えっ?そんなに違うのかと驚いた江戸幕府」。
「まずは『住民同士で話し合え』」、
というのは簡単ですがそんなもん双方譲りませんって!
なぜならココら辺り、両村の住民、田畑、山林が混在状態。
でも対して問題視もせず、仲良く暮らしていたわけです。
そこでお役人が調整しようとしてもムリ無理…
双方譲らないまま、元禄11年(1698)に幕府の評定所で採決と相成りました。
「検地の現地調査の結果、双方の主張する国境※はどちらも認められず、
検使により妥協点となる場所が国境として提示※されたとな。
元禄12年(1699)裁許絵図が作成され、新たなる「国境」が双方納得の上、
それぞれ木製の「杭」を背中合わせで設置したとか。
現在の『二本杭』になります。
※双方の主張する国境とは…
・大河原の主張→「かう谷川限」
・島ヶ原の主張→「あさこ川限」
※参考妥協絵図
※参考現在地図
言葉で書いてもなかなか場所の特定はできなかったので、
それを実際に訪れてみるということは、
「一つ引き出しが増えるな」と思ったので見てきました。
なるほど、これはお互い離れている場所を主張していたんだなと、納得の「国境問題」。
お互い少しでも土地は多い方がいい、しかし二重の境があっても困る(幕府が?)ので、
きちんと整理しましょう、ということだったんですね、
そのおかげで「現在の府県境」があるわけです。
前段が長くなりましたが、
まずは長田川(木津川支流)にある「淀川遡航終点の地」石碑から
参考「大和街道/木津川の通運」
「昔、長田川から淀川まで『木津川の水運あった?」(過去ログより)
※三重県HP/三重の歴史より「長田川絵図」
長田川重要な役割担う
長田川絵図
※「長田川通船の図」
国道163号線(バイパス道)を東へ進み、
島ヶ原の「かう谷川」、現在の「小山川」の流れるところ、
ここは「岩谷山麓」で「行者堂」のあるところです。
国道から降ります、「行者堂記」があって
「小山川」の橋を渡ると「行者堂」。
「行者堂」説明は ↓ 「ぶんと通信/2021/8月号」。
過去に撮った写真から「小谷川」から「木津川」本流へ
この川は「山城国大河原村」が主張する『国境』=かう谷川(当時は神谷川とよばれていた)。
では「あさこ川」って、どこ?
163号線バイパス(京都いずみチャーミングロードと呼ばれる道かな?)を東へ、
南山城道の駅通過、約3キロほど走って
googleより
実際の景色は ↓
ほんとに小さな川ですが、ここを北へ行けば『三国峠』、
伊賀・滋賀・京都の三つの国の境ですね。
小さな川ですが、「ここはおらが村だぞ」って、しっかり主張していたわけですね。
旧大和街道では、約4.5㎞ほど離れているのですが、
おおよそその中間点が正式な国境になったわけで「一件落着」という江戸時代のお話でした。
あとは、島ヶ原地区を主に回って
「関所跡」
上のリンクは「過去ログ」ですが幾度となく訪問していますが、
きちんと説明を受けたということ、仲間で行くということは、より深く知れたかな…と思っています。
島ヶ原大橋辺りで木津川、ここは
「鍵屋の辻の仇討ち」のお話と関連しているのですが、それはまたいずれ…
夕刻の川の風景とてもきれいだったし、遠くに「三国峠」(過去ログ)。
最後に「西念寺の(渋あり)カヤノキ」(三重県天然記念物)を見て、
樹齢500年、幹回り6m、樹高20m、三重県下最大とか…
「正月堂」へ
※詳細はこちら「伊賀へいらっしゃい」
以上訪問日は7/23午後、午前中は「甌穴まつり」でした💦
我ながら、よく頑張った日(笑)。
夕立三日と言いますが、今(8/3)も遠雷が聞こえてきました、
さてどうする?雨くるかな。
ではまた
(未完成のまま投稿してました、すみません、恥ずかしい…💦)
小さな「道案内版」があります、見落とさないように。
先に行った「大山田広瀬のササユリ」と同様、
楚々とした…という言葉がぴったりで、紫の色合いは微妙に違うけど、
大人になるにつれ「紫」っていいなぁと…。
「花菖蒲の原種」ということですが、
ここも人間が守らないと生きてはいけない花になってしまったのか…
そういう風に追い込んだのは人間かもしれない、と思いつつ、
白鳳高校の生徒たちに世話をかけつつ、今年も咲いてくれたねと感謝しています。
ここも今月二度目の訪問、
少しずつ畑の中を移動して咲いている感覚になりますが、
順に咲いては枯れ、枯れては次が咲くって感じですね。
咲き具合の下見に行ったのが6/7(水)。
見頃を探るというわけではなく、
ここも道順の確認のために覗きに行ったのです。
その2日分の「ノハナショウブ」たち。
そぼ降る雨の中、紫色がより艶っぽく感じられます。
田んぼの土手には「ノアザミ」と「ジシバリ」かな?
タンポポ似の黄色い花とピンクのノアザミのコラボレーションが可愛いと、
皆さん撮影に余念がなかったです(笑)。
※参考:「ノハナショウブ」
この日、他にも見学場所はあって整理が追い付かないので、
また追々になりそうです。
次は、恒例「弥勒寺の紫陽花」。
ではまた
2023/6/16、追記
中日新聞2023/6/16付記事より
小さな「道案内版」があります、見落とさないように。
先に行った「大山田広瀬のササユリ」と同様、
楚々とした…という言葉がぴったりで、紫の色合いは微妙に違うけど、
大人になるにつれ「紫」っていいなぁと…。
「花菖蒲の原種」ということですが、
ここも人間が守らないと生きてはいけない花になってしまったのか…
そういう風に追い込んだのは人間かもしれない、と思いつつ、
白鳳高校の生徒たちに世話をかけつつ、今年も咲いてくれたねと感謝しています。
ここも今月二度目の訪問、
少しずつ畑の中を移動して咲いている感覚になりますが、
順に咲いては枯れ、枯れては次が咲くって感じですね。
咲き具合の下見に行ったのが6/7(水)。
見頃を探るというわけではなく、
ここも道順の確認のために覗きに行ったのです。
その2日分の「ノハナショウブ」たち。
そぼ降る雨の中、紫色がより艶っぽく感じられます。
田んぼの土手には「ノアザミ」と「ジシバリ」かな?
タンポポ似の黄色い花とピンクのノアザミのコラボレーションが可愛いと、
皆さん撮影に余念がなかったです(笑)。
※参考:「ノハナショウブ」
この日、他にも見学場所はあって整理が追い付かないので、
また追々になりそうです。
次は、恒例「弥勒寺の紫陽花」。
ではまた
2023/6/16、追記
中日新聞2023/6/16付記事より
咲き具合の下見に行ったのが6/7(水)。
見頃を探るというわけではなく、語り部仲間たちの自主研修のため。
『伊賀市の花ササユリ』ってどこに咲いてるの?
同じような時期に開花する三重県の天然記念物の『(西之沢)ノハナショウブ群落地』ってどこ?
それらを案内するためにオーソドックスな道探しの下見のような…
2020年6月に初訪問しており、その時も2回挑戦しました。
それだけよそ者(地域外の者)が行くにはややこしい 場所なのです。
なので案内者にとって「下見は重要事項!」だったのです。
あくまでもメインは「伊賀市の花」を見よう!ということです。
撮影:2023/6/7
そんなわけで、本日(6/11)11名の会員で雨中の花見でした。
傘を差しながらの見学と足元に注意しつつ、ということもあったので
自身では当日の写真は撮らず。
管理は布引自治恊、広瀬も布引地区になるそうで、
人間の乱獲と鹿の大好物であることから激減してしまったササユリ。
看板にも書かれているのですが「地域のササユリ会の皆さんが
長い間丹精込めて手入れをしつづけてきたもの。
花が咲くのに7年と大変月日がかかる」そうです。
根気よく手入れをしてもらったお陰のササユリなのです。
では、6/7訪問時の「広瀬ササユリの里」の様子をどうぞ~~
山裾までの道は狭小、お車で来られるなら「軽自動車」オススメ。
大切なササユリは「獣害対策用の柵(檻?)の中」です、
手造り丸太の階段あり。
遊歩道も丈夫なものが造られています、
木造りの道を通りながら柵の中を覗くと、あっちにこっちに咲いています。
一面に満開!というのではありません、
楚々と淡いピンク色の花を見ていると「守ってあげないとな…」と思えてきます。
多くの蕾や花を咲かせている株は少ないです、ここまで多いのは珍しい…
ぐるっと一回り見学できるようになっています、
この柵外から顔を出してる蕾、気になってました…
もちろん、生き物の逞しさも感じたのだけれど
本日訪問して最初にこのコが花開いてるのかどうか心配だったのですが、
良かったです、丁度一番きれいに咲いてたので安心しました
知人が撮ってくれた写真で報告します。
恥ずかしそうにうつむいていたので仲間がちょっと支えてくれた写真です(笑)。
こんなことができたのも柵外で成長したおかげさま。
こちらの花はスズランのようにも見えますが、google lensでは
「アマドコロ」と。
当日、植物に詳しい方がおられたので聞いたところやっぱり「アマドコロ」だよ、と確認とれました!
本日のおさらい~~
【ササユリ】(笹百合、学名:Lilium japonicum)は、ユリ科ユリ属の球根植物。
日本原産の日本を代表するユリである。地域によっては、ヤマユリと呼ぶこともある。
本州中部地方以西から四国・九州に分布する。従って関東では見られない。
ユリの花は、6枚の花びら(花弁)が印象的ですが、植物学的には、3枚が花びらで、3枚が萼(がく)です。
6本のオシベの先端にある花粉の表面には、油の成分が含まれています。
ちなみに、葉が笹の葉っぱに似ているからササユリとよばれ、
花が咲いていなかったら区別がつきにくいかも…
次回は「西之沢ノハナショウブ群落」へ。
ではまた
2023/6/14追記
中日新聞より
2023/6/26の備忘録、
2021年11月に奈良「大神神社」に伺った時、
「笹百合園」があることを思い出しました…
その時期が来たら行きたいと思いつつ、まだ実現に至っていないのですが、
将来のためにここに記録を残しておこうと…
見頃を探るというわけではなく、語り部仲間たちの自主研修のため。
『伊賀市の花ササユリ』ってどこに咲いてるの?
同じような時期に開花する三重県の天然記念物の『(西之沢)ノハナショウブ群落地』ってどこ?
それらを案内するためにオーソドックスな道探しの下見のような…
2020年6月に初訪問しており、その時も2回挑戦しました。
それだけよそ者(地域外の者)が行くにはややこしい 場所なのです。
なので案内者にとって「下見は重要事項!」だったのです。
あくまでもメインは「伊賀市の花」を見よう!ということです。
撮影:2023/6/7
そんなわけで、本日(6/11)11名の会員で雨中の花見でした。
傘を差しながらの見学と足元に注意しつつ、ということもあったので
自身では当日の写真は撮らず。
管理は布引自治恊、広瀬も布引地区になるそうで、
人間の乱獲と鹿の大好物であることから激減してしまったササユリ。
看板にも書かれているのですが「地域のササユリ会の皆さんが
長い間丹精込めて手入れをしつづけてきたもの。
花が咲くのに7年と大変月日がかかる」そうです。
根気よく手入れをしてもらったお陰のササユリなのです。
では、6/7訪問時の「広瀬ササユリの里」の様子をどうぞ~~
山裾までの道は狭小、お車で来られるなら「軽自動車」オススメ。
大切なササユリは「獣害対策用の柵(檻?)の中」です、
手造り丸太の階段あり。
遊歩道も丈夫なものが造られています、
木造りの道を通りながら柵の中を覗くと、あっちにこっちに咲いています。
一面に満開!というのではありません、
楚々と淡いピンク色の花を見ていると「守ってあげないとな…」と思えてきます。
多くの蕾や花を咲かせている株は少ないです、ここまで多いのは珍しい…
ぐるっと一回り見学できるようになっています、
この柵外から顔を出してる蕾、気になってました…
もちろん、生き物の逞しさも感じたのだけれど
本日訪問して最初にこのコが花開いてるのかどうか心配だったのですが、
良かったです、丁度一番きれいに咲いてたので安心しました
知人が撮ってくれた写真で報告します。
恥ずかしそうにうつむいていたので仲間がちょっと支えてくれた写真です(笑)。
こんなことができたのも柵外で成長したおかげさま。
こちらの花はスズランのようにも見えますが、google lensでは
「アマドコロ」と。
当日、植物に詳しい方がおられたので聞いたところやっぱり「アマドコロ」だよ、と確認とれました!
本日のおさらい~~
【ササユリ】(笹百合、学名:Lilium japonicum)は、ユリ科ユリ属の球根植物。
日本原産の日本を代表するユリである。地域によっては、ヤマユリと呼ぶこともある。
本州中部地方以西から四国・九州に分布する。従って関東では見られない。
ユリの花は、6枚の花びら(花弁)が印象的ですが、植物学的には、3枚が花びらで、3枚が萼(がく)です。
6本のオシベの先端にある花粉の表面には、油の成分が含まれています。
ちなみに、葉が笹の葉っぱに似ているからササユリとよばれ、
花が咲いていなかったら区別がつきにくいかも…
次回は「西之沢ノハナショウブ群落」へ。
ではまた
2023/6/14追記
中日新聞より
2023/6/26の備忘録、
2021年11月に奈良「大神神社」に伺った時、
「笹百合園」があることを思い出しました…
その時期が来たら行きたいと思いつつ、まだ実現に至っていないのですが、
将来のためにここに記録を残しておこうと…
2020年の夏頃の思い出なのですが…
伊賀上野城下町の和菓子屋「桔梗屋織居」さんに『まいづる』というお菓子があります。
何気にホームページを見ていて「伊賀にも鶴がいた」時期があるとか。
そして、愛宕神社近くを流れていた溝川(ミゾカワ)※近くの河原にも「鶴がいた」とか聞いたことがあるので、
遠い昔、今ほど温暖化で温かくない頃、伊賀でもふつうに鶴が来ていたのかもしれない…
(現在では暗渠になっていて細い川の流れは見えません…)
いつの時代か定かではありませんが【鶴塚】があって、
めでたい鳥として鶴を祀っていたのかなぁ…と。
もし、存在がわかるのであれば見てみたい(参ってみたい)と探したことがあります。
桔梗屋さんの先代の奥様にもお聞きしたことがあって、
確か四十九の国道近く、とまでは聞いていたのですが、
結局一人では探し出すことができなかったのです。(それが2020年夏)
そんな話も忘れかかっていたのですが、
たまたま「車塚」や「淅井戸」へ行ったこともあって、
もしご存じなら連れて行ってほしいとお願いしたら、
なんと「一緒に行きましょう、あの場所は一人では絶対に行けません!」と
太鼓判まで押されちゃって、それなら仲間の後をついて行こう!となった 5/28 の夕刻のこと。
随分と日が長くなったので17時ごろとはいえまだ明るいので助かりました。
では、その【鶴塚】とは…
教えられるままついて行って、やっとお目にかかれました。
丁度端っこは国道422号線が走っているところの丘の上、かな。
『高松神社跡』碑
広場のようになっていますが、何かの焚き上げのあとも真新しく残っていました。
google mapより
詳しくは、☟
「伊賀へいらっしゃいblog」から『久米川流域 九品寺』のページをご参考に。
≪鶴は吉祥と長寿の象徴で、「神秘の鳥」「幸運のシンボル」とされている貴鳥とされ、
そのため死亡した鶴の遺骸を近くに葬って塚としたもののようです。
徐福伝説の鶴塚(徐福が亡くなる時鶴になりたいと言った)が各地にあり
伊賀にも徐福が忍者の技術を伝えた説がありますが、この塚には徐福伝説は伝わっていないようです。
このあたりに八幡神社に合祀された高松社があり、日吉社は旧四十九院に在ったようです。≫
当blog過去ログより「忍者回廊巡り『四十九院』ほか」
3年越しで「鶴塚」に会うことができました、もう忘れません!
連れて行ってもらって感謝のミニ旅、完。
ではまた
伊賀上野城下町の和菓子屋「桔梗屋織居」さんに『まいづる』というお菓子があります。
何気にホームページを見ていて「伊賀にも鶴がいた」時期があるとか。
そして、愛宕神社近くを流れていた溝川(ミゾカワ)※近くの河原にも「鶴がいた」とか聞いたことがあるので、
遠い昔、今ほど温暖化で温かくない頃、伊賀でもふつうに鶴が来ていたのかもしれない…
(現在では暗渠になっていて細い川の流れは見えません…)
いつの時代か定かではありませんが【鶴塚】があって、
めでたい鳥として鶴を祀っていたのかなぁ…と。
もし、存在がわかるのであれば見てみたい(参ってみたい)と探したことがあります。
桔梗屋さんの先代の奥様にもお聞きしたことがあって、
確か四十九の国道近く、とまでは聞いていたのですが、
結局一人では探し出すことができなかったのです。(それが2020年夏)
そんな話も忘れかかっていたのですが、
たまたま「車塚」や「淅井戸」へ行ったこともあって、
もしご存じなら連れて行ってほしいとお願いしたら、
なんと「一緒に行きましょう、あの場所は一人では絶対に行けません!」と
太鼓判まで押されちゃって、それなら仲間の後をついて行こう!となった 5/28 の夕刻のこと。
随分と日が長くなったので17時ごろとはいえまだ明るいので助かりました。
では、その【鶴塚】とは…
教えられるままついて行って、やっとお目にかかれました。
丁度端っこは国道422号線が走っているところの丘の上、かな。
『高松神社跡』碑
広場のようになっていますが、何かの焚き上げのあとも真新しく残っていました。
google mapより
詳しくは、☟
「伊賀へいらっしゃいblog」から『久米川流域 九品寺』のページをご参考に。
≪鶴は吉祥と長寿の象徴で、「神秘の鳥」「幸運のシンボル」とされている貴鳥とされ、
そのため死亡した鶴の遺骸を近くに葬って塚としたもののようです。
徐福伝説の鶴塚(徐福が亡くなる時鶴になりたいと言った)が各地にあり
伊賀にも徐福が忍者の技術を伝えた説がありますが、この塚には徐福伝説は伝わっていないようです。
このあたりに八幡神社に合祀された高松社があり、日吉社は旧四十九院に在ったようです。≫
当blog過去ログより「忍者回廊巡り『四十九院』ほか」
3年越しで「鶴塚」に会うことができました、もう忘れません!
連れて行ってもらって感謝のミニ旅、完。
ではまた
5/28に「車塚古墳」訪問を果たし、実は歴史ロマンはまだまだ続く…
ということで、荒木山を下り、車で服部川沿いに東へ行くこと約10分。
平成の大合併までは「大山田村炊(カシキ)」。
一言で「炊」と言ってもどこだろう?と思ってたワタシ。
「由来がわかる場所があるので行ってみましょう」と案内され、
どこやどこや?と仲間の🚙に便乗してたのです。
そもそも「米をかす」という言葉、主婦はよく使いますが、
「かす」とふつうにパソコンで入力しても「炊」という字は出てこなくて、
「たく」と入れると「炊く」と出てきます。
まさか、この漢字「炊」を「カシキ」と読むとは……
大山田に知人もいるので、今でこそ読めますが、昔のワタシならきっと読めなかった💦
そんな、不思議発見のミニ旅続篇です。
大山田地区の入り口「千戸(センド)」、あの大きな常夜灯※のある交差点を曲がります。
※千戸入り口の常夜灯
案内された場所につくとこの景色、
さっきまで苦心惨憺登っていた「車塚」が見えるではありませんか。
車を止め、山裾の道に沿って少し歩くと…
「遊歩道マップ」の中に「清水」という言葉、伊賀ではショウズと読まれることが多いですね。
その先に水溜りなんだけど「カキツバタ」が楚々と咲く、
そして、すぐに見つかった『淅井戸』説明板。
さぁ、「淅」の字、何と読みましょう?
じっくり読んでみるとこんな感じの説明です・・・
≪淅井戸
炊村の地名発祥の井泉
「三国地誌」(宝暦十三年伊賀司城職 藤堂元甫編纂)の村里の頃に
「炊 按栗田屋舖ト云處二 井泉アリ俗二淅(コメカシ) 井戸ト是上古
大神宮へ献スル所の 御供米ヲ炊ク故二名クト 云」とあり。
近世この井泉は「清水(しょうず)」と呼ばれて地区の名水でした。
しかし昭和四十六年よりの 田の基盤整備にともない整備除外地となり
落葉に埋もれて忘れられていましたが、
今回平成七年よりの炊村景観整備事業の遊歩道計画 により丼泉を渫える(※サラエル)とともに
小公園として周辺を整備するにあたり炊村の地名発祥の井泉として顕彰して
後世に語り伝えるためにここに由来を刻む。
平成十年三月吉日 炊村景観整備計画策定委員会
炊村景観整備事業実行委員会 ≫
なるほど、ここにも歴史ロマンを見た次第です。
この池は「清水」とよばれる地区の「名水池」なんですね。
確かに、湧き水があって絶えず水をたたえているわけで、
「カキツバタ」が咲き、よく見れば「泡の塊」のようなものが枝先にぶら下がり……
興味津々近づくと、なんと
『モリアオガエルの卵』ではありませんか
ただただ、じっと見守ってくださいね
※参考:モリアオガエルの卵ってこんなんです。
もう少し周りを見渡してみると、
「祠にお地蔵さん」、「四阿」と書いて「あずまや」。
そして、面白い巻き方をしている「蔦系」の木等々。
遠くの景色、夕刻なので少し暗い…
西方面
東方面
※①『寺音寺古墳』(伊賀でも大規模クラスの前方後円墳)
※②読売新聞社編「街道いまむかし/寺音寺古墳」(平成元年編集による)
※③同じく「炊村」
自分へのメモとして、
読みにくい漢字が出てきたので、少し調べると…
淅(コメカシ)
音読み:セキ
訓読み:よなげる※・かしよね
※米を水に入れて,ゆすってとぐ。
*細かい物をざるなどに入れ,水中でゆすって必要なものをより分ける。
*より分けて,悪い物を捨てる。淘汰する。
等の意味があり、まさに「米ヲカス」、ということでした。
ではまた
ということで、荒木山を下り、車で服部川沿いに東へ行くこと約10分。
平成の大合併までは「大山田村炊(カシキ)」。
一言で「炊」と言ってもどこだろう?と思ってたワタシ。
「由来がわかる場所があるので行ってみましょう」と案内され、
どこやどこや?と仲間の🚙に便乗してたのです。
そもそも「米をかす」という言葉、主婦はよく使いますが、
「かす」とふつうにパソコンで入力しても「炊」という字は出てこなくて、
「たく」と入れると「炊く」と出てきます。
まさか、この漢字「炊」を「カシキ」と読むとは……
大山田に知人もいるので、今でこそ読めますが、昔のワタシならきっと読めなかった💦
そんな、不思議発見のミニ旅続篇です。
大山田地区の入り口「千戸(センド)」、あの大きな常夜灯※のある交差点を曲がります。
※千戸入り口の常夜灯
案内された場所につくとこの景色、
さっきまで苦心惨憺登っていた「車塚」が見えるではありませんか。
車を止め、山裾の道に沿って少し歩くと…
「遊歩道マップ」の中に「清水」という言葉、伊賀ではショウズと読まれることが多いですね。
その先に水溜りなんだけど「カキツバタ」が楚々と咲く、
そして、すぐに見つかった『淅井戸』説明板。
さぁ、「淅」の字、何と読みましょう?
じっくり読んでみるとこんな感じの説明です・・・
≪淅井戸
炊村の地名発祥の井泉
「三国地誌」(宝暦十三年伊賀司城職 藤堂元甫編纂)の村里の頃に
「炊 按栗田屋舖ト云處二 井泉アリ俗二淅(コメカシ) 井戸ト是上古
大神宮へ献スル所の 御供米ヲ炊ク故二名クト 云」とあり。
近世この井泉は「清水(しょうず)」と呼ばれて地区の名水でした。
しかし昭和四十六年よりの 田の基盤整備にともない整備除外地となり
落葉に埋もれて忘れられていましたが、
今回平成七年よりの炊村景観整備事業の遊歩道計画 により丼泉を渫える(※サラエル)とともに
小公園として周辺を整備するにあたり炊村の地名発祥の井泉として顕彰して
後世に語り伝えるためにここに由来を刻む。
平成十年三月吉日 炊村景観整備計画策定委員会
炊村景観整備事業実行委員会 ≫
なるほど、ここにも歴史ロマンを見た次第です。
この池は「清水」とよばれる地区の「名水池」なんですね。
確かに、湧き水があって絶えず水をたたえているわけで、
「カキツバタ」が咲き、よく見れば「泡の塊」のようなものが枝先にぶら下がり……
興味津々近づくと、なんと
『モリアオガエルの卵』ではありませんか
ただただ、じっと見守ってくださいね
※参考:モリアオガエルの卵ってこんなんです。
もう少し周りを見渡してみると、
「祠にお地蔵さん」、「四阿」と書いて「あずまや」。
そして、面白い巻き方をしている「蔦系」の木等々。
遠くの景色、夕刻なので少し暗い…
西方面
東方面
※①『寺音寺古墳』(伊賀でも大規模クラスの前方後円墳)
※②読売新聞社編「街道いまむかし/寺音寺古墳」(平成元年編集による)
※③同じく「炊村」
自分へのメモとして、
読みにくい漢字が出てきたので、少し調べると…
淅(コメカシ)
音読み:セキ
訓読み:よなげる※・かしよね
※米を水に入れて,ゆすってとぐ。
*細かい物をざるなどに入れ,水中でゆすって必要なものをより分ける。
*より分けて,悪い物を捨てる。淘汰する。
等の意味があり、まさに「米ヲカス」、ということでした。
ではまた