今だから話そう~障害者のきょうだいとして生きて~

自閉症で重度知的障害者の妹として経験した事、感じた事、そして今だから話せる亡き両親への思いを書いてゆきます。

そこまでしなくても・・・・(汗)

2007-05-27 02:13:55 | 不思議なお兄ちゃん

施設に面会に行くたびに、兄を連れてちょこっと散歩します。

母親が生きていた頃は、母親が同じことをしていたのですが、散歩がてらお菓子をあげたり、ジュースを飲ませたりします。

施設内には、親きょうだいのいない利用者のほか、障害のために食事管理をしなければならない利用者もいます。
ですから、施設内で兄にお菓子を食べさせたりするのは基本的に禁止されています。
でも兄の場合、それを我慢させられるとあとで他の利用者を叩いたり、興奮して大暴れする可能性もあるいので、職員さんも見てみぬふりをしてくださっているようです。

面会時には、飴玉やチョコレートを口に放り込んであげる保護者もいます。
堂々と外出して外出先でおいしいものを食べさせてあげる保護者もいます。

私が兄任を連れて施設の外に出るのは、兄の行動は非常に目立ちやすく、それがもとで他の利用者とトラブル可能性もありますから、危険回避のために散歩しています。


ただ、兄の困った点は、地べたに落ちたものでも食べてしまうのです。

例えば、あんパンをあげたら、中のあんをl指でこそいで先に食べます。

次にパンを地べたおいて(地面はお皿じゃないよぉ~!)、それでも平気でパンを食べています。

とにかく信じられない!!

インドのガンジス川も洗顔、入浴、トイレのすべての役目をしているそうですから、本質的に人間というものは細菌には強くできているのかもしれません。
兄は健康診断でも極めて結果は良好で、中年でありながら20代のように元気です。

イスよりも地べたに座り込むのが好きだし、子供の頃は牛肉が嫌いでした。
また兄は、仏壇に向かってしっかり手を合わせますし、理解しているのかは不明ですが、一応信心深い行動をします。
(・・・でも、それtって仏壇にお菓子が供えてある時だな?)

時々、「うちのお兄ちゃんの前世はインド人かも?」って思います。

それにしても・・・
やっぱり兄の興味は食べ物以外になさそうです。。。。

お願いだから、地べたに置いたものは食べないで~~!!









ディズニーのテンプレート

2007-05-25 23:49:14 | 気まぐれ日記

このブログはタイトルからすると、

「落ち着いたデザインのテンプレートが似合うかな?」

なんて思っている私ですが、

ディズニーが好きなので、

今日はディズニーのテンプレートに変更してみました。

どうしても内容が重くなりがちなので、

たまには楽しい記事も書いてみたいと思います。


神戸・連続児童殺傷事件に想う

2007-05-25 00:37:42 | ニュース

神戸で恐ろしい事件が起きたのを覚えているでしょうか?

朝、登校してきたら学校の校門の上に少年の切断された頭が載せられていたという

まれに見る残酷な事件でした。

人間がまるで無生物のように簡単に殺されてしまうその犯行手口に驚かずにはおれ

ませんでした。

今回、殺された土師淳(はせじゅん)君のお父さんが手記を発表されたようです。



ここで気になったのは、土師淳君のお兄さんのことでした。

弟があのような無残な姿で殺され、しかも、自分が通っている学校の校門の上に置

かれていたのです。

弟を殺されたショック、当時の周囲の後期の目、取材に熱心なマスコミ関係者の反

応、そして息子を殺されたショックで生きる気力を失ってしまった両親・・・・。

そんなとき、彼はどうしてゆけばよかったのでしょうか?

いいえ、どうしようもありません・・・。

ひたすら、その状況を耐えるしかないのです。

 

私が障害者のきょうだいだから感じるのかもしれませんが、淳君のお兄さんは、ご両

親よりも周囲の痛みを感じさせられる環境にあったと想像してしまいます。

きっと彼なりに辛いこともたくさんあったことでしょう。

ましてや思春期の感じやすい時期によくこうして生きてこられたと思います。

彼は登校拒否になったといいますが、当然のことでしょう。

現実には、ご両親は殺された淳君のことで頭がいっぱいだったと思います。

両親の関心を自分の方を向けたいと思っても、殺された弟の方が「絶対的な弱者」

であるため、きっと彼はものすごく我慢してきたのだと思います。

「淳ばかりじゃなく、僕の方にも向いてよ」

そんな思いを抱えながら苦しい思春期を乗り越えてこられたのではないしょうか。



最近、顔は登場しなくともテレビで自分の思いを語られていました。

そこまでできるようになってよかったと思います。

彼も、もう23歳。

これからも続く人生をしっかり歩んでほしい!!

でも、ご両親のために殺された弟さんの分まで頑張らないでほしいと思います。

彼が彼自身のために生きて欲しい。

彼の心の傷は一生癒えないでしょう。

でも、人との出逢いで変わることもあると思います。

彼の心が癒される日が来ることをお祈りします。

 

皆さんはどのように思われましたか?


私が障害者のきょうだいだからこんなことを感じてしまったのでしょうか?

 

 

 

 

 

'''脳裏の姿11歳のまま 児童連続殺傷から10年'''
 
 ■「本当に更生したか」

 神戸・児童連続殺傷事件で最愛のわが子、淳君=当時(11)=を失った父親の医師、土師守さん(51)は、少年法の壁や取材攻勢に苦しみながら、家族で支え合って10年間を生きてきた。刑事裁判への犯罪被害者の参加が実現間近となるなど成果もあったが、加害男性(24)=当時14歳=から贖罪(しょくざい)を十分感じることはできない。悲しみが癒えることはない。(広瀬一雄)

 ≪悲しみと自責≫

 守さんは今春、テレビ局の取材で、事件現場となった神戸市須磨区の通称「タンク山」を眼前に望んだ。事件後山に近づくのは初めてだったが、途中から足が前に進まなくなった。「やはり、いい思い出はないですよ」。訥々(とつとつ)と絞り出すように心の内を話す。

 事件後4年たって、自宅を引っ越した。「愛着があったが、どうしても離れたかった」。いま、淳君の兄である長男(23)は就職活動中で忙しく、守さん自身も病院内の責任ある地位に就いて多忙になった。

 「家では事件のことは本当に話しません。全く普通の毎日です。でも悲しみや怒りの『強さ』が減ったわけでは決してありません」

 守さんの脳裏に浮かぶ淳君は今も11歳のまま。「成長した姿を思い浮かべるご遺族もいらっしゃいますが、私には11歳の姿しか浮かばない」。深い悲しみに加え、「守ってあげられなかった…」という自責の念にもさいなまれ続ける。

 「おじいちゃんのとこ、いってくるわ」。平成9年5月24日の午後、守さんも妻(49)も家を出る淳君の声を聞いたが、姿までは見ていなかった。「それが最後だったんです。妻は今でも後悔しています」。当時中学生だった長男も、不登校や進学問題に悩む時期を送った。

 それでも家族で支え合いながら生きて、「昔の自分は空回りしていたかも…」と、やっと思えるようになった。だがそれは加害男性側の謝罪や、司法制度を預かる国がもたらしたものではない。

 ≪すれ違い≫

 「少年院を退院してしまうと(加害男性が)私たちにどう謝罪するか、そもそもどういう情報を伝えるかすら、全く向こう側の『善意』で決まる。それはおかしい」
 加害者の贖罪を『善意』と表現せざるを得ない悔しさ。今、加害男性の「情報は圧倒的に少ない」(守さん)という。

 「本当に更生しているんですか?」。加害男性の少年院退院が近づくにつれ、守さんや代理人の井関勇司弁護士らは、法務省関係者や関東更生保護委員会のメンバーらに何度も問いかけた。当初、「更生していると思います」と答えていた関係者の口は重くなり、ついに「矯正教育は最高段階に達した」という大人の視点からの答えになった。そして加害男性は16年末に異例の長期収容を終え、少年院を本退院した。

 「『罪を自覚させ、遺族に謝罪させる』という観点は『更生』の中心ではなかった」と守さんはいう。

 退院後、法務省OBらからなる民間サポートチームが加害男性を支えていくとされている。守さんのもとには16年8月、初めて加害男性から手紙が届いた。今月12日にも手紙が届き、守さんは「今回の文章から受ける印象は変わったような気がする」と感想を漏らしたが、「謝罪」を受け入れる気にはなれない。

 守さんは事件直後、「なぜ、淳がねらわれたのか」との疑問を抱き、自ら関係者を訪ね歩いた。その結果「加害男性に素直についてくる子供がこの地区に『淳』以外に存在したとは思えない。いつかは犠牲となっていた」という悲しい結論に至った。
 加害男性が真相を語る可能性は高くない。ならば「更生させた」とする国と、守さんら遺族の10年間はすれ違いだったことになる。

 ≪続く闘い≫

 それでも守さんの思いが、高い少年法の壁の一部を突き崩したことも確かだ。加害男性の両親の供述調書が「民事訴訟を起こすため」として弁護士に開示された。更生状況も伝えられ、精神鑑定書も開示(後日)された。いずれも当時としては極めて異例だった。

 守さんが幹事を務める「全国犯罪被害者の会(あすの会)」の活動も結実の一歩手前。犯罪被害者遺族が、刑事裁判に参加できる刑事訴訟法の改正案が国会に上程中だ。

 毎月、関西の被害者遺族が集まる集会には長男も参加するようになった。「こちらから誘ったことはないんですが」。守さんの姿勢に反発していたが、思いが通じたのだろうか。守さんもうれしそうだ。

 守さんは10年間、毎週末には月照寺(兵庫県明石市)にある淳君の墓に参り、月命日にも供養を続けてきた。淳君の命日にあたる24日も「特別なことはしません。寂しくないように、いつもお参りしていますから」と話す。

 墓参りの際にも、事件や加害男性のことは報告しない。淳君との大切な時間をけがされたくないからだ。月照寺には間瀬元道住職(69)=当時、現東堂=が、淳君の写真をもとにつくったという小さな地蔵も安置され、だれもがそのかわいい姿を慈しむ。

 「ほかの犯罪被害者の方がつらい思いをしないようにしたい。一般の刑事裁判へ犯罪被害者が参加できれば、いずれは壁の高い少年審判にも被害者遺族が参加できる」

 守さんは今後、より積極的に活動していくことも考えている。

<産経新聞>
参考HP:[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/crime/53183/]


「しゃべれどもしゃべれども」の試写会で

2007-05-22 19:02:27 | 映画・演劇・ドラマ

「しゃべれどもしゃべれども」公式HPhttp://www.shaberedomo.com/


先日(5月11日)、「しゃべれどもしゃべれども」の試写会に行ってきました~。

心あたたまる、ちょっとほろ苦い映画で、なにかほのぼのしたものを感じさせる作品です。

師匠からまだ認めてもらえない古風な落語家の男気であるとか、ちょっとこましゃくれた大阪弁の男の子、口下手な野球解説者、そして無愛想で笑顔が苦手な女性・・・・。

そんな個性的な人物たちが、下町の人情溢れる浅草で繰り広げられる世界。

何か忘れてかけていた日本人としての素晴らしさを感じさせてくれます。

人との関わりの下手な者たちが、どこかいびつではあるけれど、思いやりを持ちながら、不器用に関わっていく姿は非常に興味深いと思います。

特におすすめは大阪弁の男の子役の森永悠希くん!!

試写会の後で国分太一さんと森永悠希くんが映画と同じ着物姿で登場してくれました~~♪

国分太一さんは画面ではちょっとソフトな雰囲気ですが、なかなか男っぽい方に見えました。

当日は有料の試写会でした。
「本日は試写会ということで無料で・・・」という国分さんの発言に大阪人はすぐに反応しました。
手を左右に振りながら「ちゃうちゃう、有料やで~」
といわんばかりに多くの観客は反応してました。
その観客の反応に国分さんははじめて有料だということに気づいたようです。

そして、森永悠希くんの番が・・・・。
彼は映画撮影の時よりも5センチ背が伸びたそうで袴は少し短かったです。(笑)
でも、とっても可愛くて弁もたつ利発な少年で、台詞はすべて覚えていて、国分さんが忘れた台詞を横で小声で教えてくれたというからすごい!!
しかも桂枝雀の「まんじゅうこわい」のビデオをおばあちゃんからみせてもらっていてオーディションでは「まんじゅうこわい」を最初から最後までやってしまったというからなかなかスゴイ少年です。

もうすぐ上映されますが、もう一度観に行きたいと思います。
国分さんの情熱的な演技もすばらしいですが、私はやっぱり森永悠希くんの演技が楽しみですね!








 


障害者の兄とともに ~子供時代の思い出~

2007-05-22 02:29:15 | 徒然日記

私の母は31歳で兄を出産しました。
兄が初めての子供でした。
生まれて間もない頃の兄はとても可愛く、近所でも評判の赤ちゃんでした。
そんな兄を抱っこして歩くたびに、母は周囲の賞賛を受けてきっと自慢の子供だったに違いありません。
親戚もきれいな赤ちゃんだとたいそう喜んでいました。
まさに兄は光の中でこの世に誕生しました。

そんな兄が生死の危機に直面したのは、兄が生まれて半年目だったといいます。
何か悪いものを食べたのかもしれません。
母は、「ヒ●タ」のシュークリームの中に入っているカスタードクリームを父が兄に舐めさせたことで、兄が下痢をして脱水症状を起こし高熱を出したのだと思っていたようでした。
父は父で兄は偶発的に病気になってしまったと信じていたようです。
どちらも兄がこんな酷い目に遭うなんて信じたくなかったのだと思います。
もしかしたら父の舐めさせたクリームが原因なのかと、私も幼い頃は母の言葉を信じていましたが、これも兄の宿命だったのではないかと今は思っています。

兄が入院して1週間がたちました。
高熱のために兄はずっと昏睡状態が続いていたのです。
まさに生命の危機に直面していました。
医師からはいつ亡くなっても不思議ではないといわれ、たとえ助かっても高熱のために脳に障害が残るといわれました。

そして、その医師の言葉はピタリと的中しました。
兄は生命は助かりましたが、脳細胞が壊れてしまったのでしょう。
兄は重度の知的障害を持つことになりました。
言語障害のためにバナナは「バババ」としか話せません。

そんな兄は子供の頃から多動で5分もじっとしていればいいほうで、常に動き回っていました。
癲癇も持っていますので、医師から安定剤などの薬を処方されいます。
多動で疲れ果ててしまったからなのか、薬の影響なのかわかりませんが、薬を飲んで1時間くらいすると兄はぐったりと眠りこんでいました。
そんな兄を毎日見ていて、きっと兄は薬がないと生きてゆけないだと思っていました。
なぜなら兄はいつも決まった時間帯に服薬していたからなのです。
薬の管理は母がきちんとしていました。
だから時間がずれることはめったにありませんでした。

 


これは今でも忘れられない思い出です。

ある日、母は用事があって、帰宅が服薬の時間には間に合わないので、私に兄に薬を飲ませるように頼んで出かけたことがあります。
私は兄と一緒の留守番を快く引き受けました。
母も安心して出かけていったと思います。
母がいなくても、兄はいつものように外で飛び出したり、何か食べるものを探しまわっています。
家の中にいても走り回ったり、奇妙な動きで体操かダンスのようなことを繰り返しています。
たまに気が向けがテレビのコマーシャルを夢中でみています。
たとえきょうだいであっても、兄の言動は理解しにくいことは多かったです。

夕食の時間が来ましたから、兄に夕食を食べさせるために一緒に夕食をとりました。
夕食後もいつものように普通に生活をしていました。

「ご飯さえ食べさせておけば大丈夫!」
そんな安心感があったからでしょうか。
私は兄に薬を飲ませることをすっかり忘れてていました。

今まで元気よくぴょんぴょんはねまわっていた兄が突然倒れたのです!!
そして兄は口から泡を吹いて全身を震わせていました。
これは兄が癲癇を持っていたからだと後から知りましたが、当時の私はそんなことは知りませんでした。

兄は倒れてあたふたしている私に救いの神が舞い降りたのか、ほどなく母が帰宅してくれました。
急いで帰宅したばかりの母に兄のことを伝えると、母は顔色を変えて兄のところへ走ってゆきました。
母は兄を抱え、兄の名を叫びながら、必死で意識を回復さそうとしていました。
看護婦だった母は、幸いにも処置の仕方を心得ていて、てきぱきと対応し、兄に薬を飲ませて兄の意識をもどしました。

薬が抜けてただけであんなに簡単に倒れてしまうなんて・・・。

あの時はじめて、私は兄はなんてもろい存在なのかということを知りました。
そして、薬の重要性を知ることとなりました。
ただ、母は「お薬は体に蓄積してよくないから本当はお薬は飲ませたくないけれど、お薬を飲まなかったら、お兄ちゃんは興奮がおさまらないし、こんな風に倒れてしまうの」と言っていたのと覚えています。
また、障害者の多くは長生きしにくいと聞いたことがあります。
その理由の一つは長年にわたって薬を服用しているからだといいます。

ちょっとしたことなのに、実は大変なことを招いていることってあるのですね。
子供の私にはわからないことが沢山ありました。
兄の存在も兄の障害も兄の扱われ方も・・・。

大人になっても、それこそ両親が亡くなって本格的に兄の親代わりをしている現在であっても、母親以上に兄を理解することは難しいです。
どんなに頑張っても私は「障害者のきょうだい」なのです。

ただ支えあげることしかできないのです。
もしかしたら、それは子供時代から変わっていないのかもしれません。


 


施設入所者家族の滞納問題

2007-05-21 20:52:19 | 障害者自立支援法

障害者自立支援法が施行されて早や2ヶ月が過ぎようとしていますが、障害者やその家族のあり方が少しずつ明らかになってきました。


まず障害者自立支援法の判定が比較的高めになるのは「在宅支援」であるということです。

これは障害者が自宅で生活し、家族やヘルパー等に支援してもらう場合です。

障害の程度であるとか地域の状況であるとか、さまざまな事情で判定もバラバラになるようですが、家族が支援に直接関わっていることが多く、障害の程度をリアルに説明しやすく事情をわかってもらいやすいということが考えられます。

次に判定が高めになるのは、「通所支援」の場合であるといいます。

これは利用者家族が熱心な傾向があり、障害者自立支援法の矛盾を積極的に抗議してゆく傾向があることが関係しているのかもしれません。

そして、判定が低めに出てしまうのが、「知的障害者施設利用者」であるといいます。

これは利用者家族が互いに交流をはかる機会が極めて少なく、「施設⇔利用者家族」ばかりで、「利用者家族同士」の団結が生まれにくいためです。

施設に入所している場合、利用者はさまざまな地域から来ています。

そのため、面会日には家族は利用者に会いにくるのに熱心で、他の利用者家族との交流は希薄になりやすいのです。

利用者の家族間の交流は大切ですから、施設側が中心となって利用者家族をまとめようと努力しているのが現実です。

 

そうそう、兄の施設もさまざまなことがわかってきました。

施設利用者は自立支援法で決められた費用のほかに、「会費」というのがあります。

利用者家族の会のための「会費」のほかに、施設の改築・修繕・新設のための「積立金」があります。
(ただし親きょうだいが死亡した場合、会費や積立金は免除されています。)

施設に支払うべき費用は医療費やお小遣いを差し引いても、障害年金の金額内におさまるようになっています。


でも、最近は施設への支払いが滞る利用者が出現し始めています。

私の兄は長年施設にに入所していますが、このような滞納問題が起きたのはここ数年だといいます。

兄と同様に長年入所している利用者の家族は支払いに関してはきちんとしてきました。

現在は障害年金から施設費用を支払うようになりましたが、ほとんどの家庭では障害年金は障害を持つわが子の将来のためになるべくつかわないように努力してきたからです。

障害者負担が増えた理由は、以前なら施設はその費用は国や自治体の援助を受けていたからです。

しかしその援助も半分になり、施設運営は厳しくなってしまったのです。


さらに、福祉制度は措置費に移行され、次に障害者自立支援法が施行されるなど、制度の変化に伴い、施設利用者にさまざま金銭的な負担がのしかかるようになりました。

理論上では、費用等はすべて障害年金の範囲で賄えるということになっています。

でも実際は異なります。ちょっと近所に外出支援をお願いするにしてもお金がかかります。

まあそれは仕方がないことかもしれません。


そのような費用負担が増えたことで、一部の利用者家族は施設費用等を滞納するようになりました。

私はこの滞納という事態を知ったときには正直驚きました。

「会費」や「積立金」だけではなく、施設に支払うべき費用までも支払わないまま、障害者をもつわが子を施設に入所させているのです。

結局、費用を滞納する理由は、その家族が障害年金を当てにして生活してきたという証拠なのです。

ですから障害年金をから先に自分たちの生活費を引き出してしまえば、残高が少なくなり引き落とし不可能となります。これが続いているというのです。

たしか施設入所時の契約書には「6ヶ月以上滞納した場合には退所する」と書かれてあるそうですが、私も含めてほとんどの利用者家族がそのことは知りませんでした。

ほとんどの利用者家族は支払うのは当然だと考えていますから、滞納するということは想像もできなかったというの最大の理由なのですが。。。


この滞納問題を多くの利用者家族は知りませんでした。

しかし、年々会計の収支を見ますと「未収金」(=滞納金)が増えている現実を、先日の総会(利用者家族の会議)で知ることとなりました。

とはいっても、施設利用者の家族は意識が低いのか、総会の出席者は全体の半数以下でした。

 

年々増加する未収金について、施設だけでなく利用者家族も深刻に受け止める時期になりました。

会費や積立金だけではなく、施設費用も支払わない利用者家族の存在を知った出席者の多くは驚いていました。


さまざまな事情があると思いますが、滞納はいけないと思います。

私は兄の施設はハイレベルは支援をできるところだと感じています。

その理由は、私の兄も含めて、他の施設ではうまく支援できなかった人が、兄のお世話になっている施設に移ってくると、数ヶ月で社会性を身につけて成長していきます。

私はそんな事例をいくつも知っています。

そういった点で着実に成長できる場所で、支援レベルは高いと思います。

だからこそ、施設運営に支障が出るような滞納は深刻な問題なのです。


それでなくとも職員さんは薄給と過酷な労働体系で大変な思いをされているのに、利用者家族としては費用の滞納などもってのほかだと思うのです。

今も施設入所を待っている障害者が何人もいます。

中には生きるか死ぬかまで追い詰められている障害者の家族もいるでしょう。

そんな厳しい現実があるというのに、障害年金で生活したり、費用を滞納したりする家族の存在は施設運営に影響を与えています。

滞納する利用者も現在はごくわずかで、多くの利用者家族は金銭的支援をすることで利用者の預金を減らさないように努力していますから、しばらくはなんとかなるでしょう。

でも、障害者をとりまく現実は年々厳しくなっていきます。

今のところ、施設側は福祉事務所に間に入ってもらって、障害年金が振り込まれる通帳を施設が預かっ

て、滞納分を少しずつ返金してもらうということで、利用者を退所させないで済むように努力しています。

多分、施設側は利用者の立場を第一で出した結論だと思われます。

費用を支払わないから即刻対処しろというのは施設も非人道的でできなという福祉の立場も関わっていると思われますが・・・。

 

私は以前はこんなことを考えていました。
「両親が他界し、きょうだいの代になると、経済的に支援をできる人とできない人に分かれて、親じゃないから関わらなくてもよいと思っているきょうだいは施設に面会にも訪れなくなる。
だから、親きょうだいとの縁を失った利用者は自分の預金と障害年金を頼りに、施設で細々と生活することになり、我慢を強いられる。」

でも、現実にはそうでもないということですね。

親きょうだいがいることで、さらに経済的に追い詰められる利用者も存在するのです。

利用者の家族同士で団結しあう努力が必要だと思いますが、兄の施設は特に無関心な家族が多いので、これからどうなっていくのか心配です。

 

他の施設でも同様の滞納問題はありますか?

また、利用者家族同士で関わり方はどうですか?

 

気になっています。。。。。


兄は何のために生きているのか?

2007-05-16 02:23:28 | 徒然日記

私が生まれた頃、兄は2歳でした。
たとえ健常児であっても2歳といえば手のかかる時期です。
兄の場合、普通の子供よりもはるかに多動で少しも目を離すことができなかったといいます。

実はそんな兄もこの世にいなかったのかもしれないのです。

兄は生まれ半年頃に40度を超える高熱と下痢により入院しました。
病院で医師から両親に告げられた言葉は・・・

「高熱のために脳細胞が破壊されてたとえ助かってもお子さんに障害が残るかもしれませんが・・・。」

つまり障害児になってしまうが、どんなことをしても生命を救うべきかということを医師は尋ねているのです。

両親はたとえ障害が残ってもいいから、この子の命を助けてほしいと懇願したそうです。

そして兄は1週間近く生死をさまよった後、危機を脱出しました。

ある占い師から一度死にかけた人はその後の人生は強運だと聞いたことがありますが、兄の場合、とにかく体が丈夫です。
中年だというのに、生活習慣病やらメタボリック症候群とは無縁の健康体です。

兄は自閉症で重度の知的障害がありますが、すごく勘が良くて、周囲の人の心理を読むのが得意です。
言語障害があり、単語しか発せません。
文字の読み書きもできません。
たし算もできません。

でも、勘の良い兄をだますことは難しいとよく聞きます。
学校時代(小・中・高)は先生からも、施設入所後は職員さんからも、兄にはその場しのぎの嘘など言えないそうです。
兄は記憶力がよくて「明日(もしくは明後日)●●してあげるから、待っていなさい」というと、兄はきちんと覚えていて、その日まで待っていて、もしもその約束を守らなければ大暴れするそうです。

また、兄はたいていのことは自分でできます。
食事も服の着替えもトイレも入浴も自分一人でできます。
完璧ではない部分も多いのですが、一応形にはなっています。
ですから、その点では手がかからないかもしれません。

ただ、障害者自立支援法の区分判定においては、この点で兄は非常に不利なんですね~。
特記事項や医師の診断書等で事情をわかってもらわないと困るのですが、兄は目を離すと何をするのかわからないところがあります。
周囲の利用者から何かを言われたりされたり、虫の居所が悪かったりしたら、大暴れして、突拍子もない行動をするのです。
器物破損も何度かやってきました。
施設に入所して間もない頃、玄関ドアの大きなガラスを蹴って破壊して、施設からガラス代10万円請求されたこともあります。(当時は損害保険というのはなかったので・・・。)

というわけで、こんな兄はいつも問題児でした。
これは存在を認めてくれている証拠でもあります。

でも、母方の親戚は問題にもしてくれません。
兄が何かをするのが問題ではなくて、兄がいることが問題なのです。

母が兄を産んだ頃は、きれいな赤ちゃんだった兄は親戚から喜ばれました。
近所でも評判の可愛い赤ちゃんだったのです。
ところが障害児とわかるやいなや、状況は一変したのです。
母方の親戚からは存在を消されてしまったのです。

実は母方の祖母は非常に家柄にこだわる人で、自分の血筋の者に障害者が生まれるなんて何かの間違いだと言い張りました。
そして、100歳を超えて亡くなるまで兄の存在を認めてくれませんでした。
そんな祖母の考えかたは母のきょうだいにも伝わっていました。
おかげで私は、母方の親戚の家にいるときには「一人っ子」ということになっていました。

現在は母方の祖母も亡くなり、母の姉妹であるおばたちが残っているだけですが、そのおばたちはいまでも「あの時死んでくれたらよかったのにね~」としゃあしゃあと話します。
まるで兄は生まれてくるべき人間ではなかったといわんばかりです。
不思議なことに、そのおばたちは元医療関係者(しかも有能で賞もいただきました)で死に直面する患者や家族を思い遣る立場で社会に貢献してきた人たちなのです。

他人にはあんなに優しいのに、障害をもつ甥にはなんと冷たいのか・・・・。

結局、障害者の親戚って、こんなものなのかもしれません。
なかには、理解ある方もいらっしゃるでしょう。
しかし、私の身近な障害者のお母さんたちに伺った話では、親戚ほど残酷なものはないといいます。



でも、兄はこの世に生まれてきました。

両親の願いが届いたのか、無事に生還し、今では生命力に溢れています。

すでに両親は他界してしまいましたが、兄は私たち家族にさまざまな問題を提示し、私たち家族に人生というものを深く考えさせてくれました。

いわば兄のおかげで人の命の大切さとか心の問題について深く考える機会を与えてもらえたのです。

そんな家族の中で育った私は、幼い頃から、人間の美しいところも醜いところもいっぱいいっぱい見てきました。
どこかで人間が恐ろしくあり、人間とはいいものだと思い、人間の生きる意義について幼い頃から考えてきました。



ところで、障害者家族はどこか宗教的な思想をもちやすいのか、人の道であるとか、悟りに近い考え方とする傾向があるのかもしれません。

私たち家族も、悲しみに遭遇するたび、人の道というものを考えさせられてきました。
それは兄がいたからできた経験でしょう。

もし兄が障害児でなければ、私はきっと冷たい人間になっていたことでしょう。

兄は悲しみと同時に喜びも与えてくれる存在なのです。

親戚にとって兄は“闇の存在”であっても、私たち家族にとって“光のような存在”です。

兄は生まれてきたことでさまざまな課題を提起し、そのことで関わった人たちを成長させてくれたのではないでしょうか。

私も兄を関わることで人生の幅が広がったと思います。



兄が生まれてまもなく障害児になったことには非常に意味があるのです。


兄は昨日も今日も明日も、誰かに何かを教えてくれているのです。




ある障害児のお母さんの言葉

2007-05-14 03:19:21 | 障害者の親

私はあるきっかけがあって、障害児をもつお母さんのお話を伺う機会がありました。

そこで感じたことは、障害者のお母さんは、誰もが一度はこの子を連れて死にたいと感じたということです。

お母さん方はそんなに追い詰められているのです。

多くのお母さんが、自分の親きょうだいにも配偶者の親きょうだいにもわが子の障害を受け入れてもらえず、中には実家同士が障害児が生まれたのは相手の家が悪いのだと責任のなすりつけあいをして離婚しかけたという方もおられました。

それでいろいろ調べていくうちに、わかったことがありました。

障害児と健常児では障害児が可愛いと断言するお母さんの場合、わが子の障害が重度で、支援のすべてを自分で抱え込んでいるのです。

そして、健常児の方が可愛い、もしくは両方とも同じくらい可愛いというお母さんの場合、健常児が障害児の生活支援にしっかりと関わっているのです。

また、障害児を産んでよかったこと・悪かったことにおいては、障害児の方が可哀想と回答したお母さんは、障害児で産まれたことをマイナスに感じているのに対して、健常児の方が可哀想と回答したお母さんは、障害児で産まれたことを良かったと感じているのです。


その中で私が最も感動したのは、あるお母さんの言葉でした。

●障害児の母親になってよかったこと:

「障害児のお母さんの人生を歩めたことです。
それで、私には人の何倍もの人生を与えてもらいました。感謝しなくてはいけません。」

●障害児の母親になって悪かったこと:

「ありません。私は本当にあの子を産んでよかったと思っています。」

 

そのお母さんはこうもおっしゃいました。

「確かにあの子を産んで死にたいような苦しみもありました。一緒に死のうと思いました。

でも、あの子がいたからこそ、私はあの子に育ててもらったのです。

もしあの子がいなかったら、私ももっともっと頼りない母親になっていたと思います。

私にとってあの子が生まれてくれたおかげで、私は人間として成長できる機会を与えられました。

たとえ最初は辛くても、長年障害者の母親として生きてきたら、そのことのありがたさを感じることができますね。」(笑)


これは多分悟りの言葉だと思います。

でも、こうして笑ってお話できるって、きっと過酷な人生との葛藤を乗り越えられたからではないでしょうか。