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今だから話そう~障害者のきょうだいとして生きて~

自閉症で重度知的障害者の妹として経験した事、感じた事、そして今だから話せる亡き両親への思いを書いてゆきます。

親亡き後のことを考えよう

2008-03-14 03:03:36 | 親亡き後の生き方
オヤナキアト

これは私だけが考えることではないでしょう。
障害者の親きょうだいの誰もが一度は考えてしまう大きな問題です。
私の両親も自分たちが亡くなったら兄の将来はどうなってしまうのか常々気にかけていました。
結局、両親の亡き後は、妹である私が兄のことを支えるようになりました。
これは当然のことだと思います。

あるお役所では「あなたが支えらなくなったらいつでもお兄さんの支援を放棄してもいいですよ。国がお兄さんのことをみてくれます。」なんて言ってましたけど、障害者自立支援法が成立した現在では、国が障害者を支えてくれるということは期待できなくなっているような気がしてなりません。
とはいっても、身よりのない障害者は何らかの形で支援されるのが現実だと思いますが・・・。

最近、障害児・者をもつお母さんたちとお話する機会がありました。
そこでの話題は「親なき後」のことでした。


皆さんは「成年後見制度」をご存じだと思いますが、勘違いされている方が多いみたいです。
残念ながら、成年後見人は被成年後見人が死亡するとお役御免なのです。

つまり「被成年後見人」である障害者が死亡すると同時に、被成年後見人のすべての財産(=遺産)を
管理する権利は成年後見人にあるのではなく、血縁者であるということです。
きょうだい児が成年後見人になっていた場合には問題ないのですが、もしも非血縁者が成年後見人になっていた場合は、被成年後見人の死後は葬儀費用も通帳から出金することもできません。
成年後見人を立てたら何もかも安心というわけではないのです。

もしも血縁者に被成年後見人の遺産を相続させたくない場合が、最初から被成年後見人名義の財産は多く残さないことだと思います。

第一、被成年後見人は遺言もできませんし、親きょうだいが障害をもつ家族の代理で遺言はのこせないのです。
もっとも良いと思われる方法は、障害者の親きょうだいが自分自身の名義で財産を持ち、障害をもつ家族の財産を管理することです。
家族を軽蔑したり縁を絶ってきたような親族がいる場合、彼らに遺産が相続できないように、被成年後見人の親きょうだいが遺言をのこすことだと思います。その方法はさまざまだと思われます。
もし遺言をのこすことが難しいようであれば、相続するには問題があるという親族の存在を裁判所に示し、相続させないように手をうつことです。

どちらにせよ、親きょうだいが何らかの対策を考えておくほうがベターだと思います。

どうしてこのようなことを書くのかといえば、多くの障害者の親きょうだいの方が親戚から冷遇されてきたという話を聞いたからです。
実際、親戚で障害者の支援に関わってくれる方は極めて少数だと思います。
人間は日々老いてゆきます。
誰もが死に向かって生きているのが真実です。

ですから、障害をもつ家族のために親きょうだいは何ができるかを考えてみることは必要だと思います。

生きなおしたい症候群?

2007-10-02 02:49:31 | 親亡き後の生き方

別に自分が不幸だとは思わないのですが・・・
何かの犠牲になったとは思わないのですが・・・
なぜか今頃になって、自分のための人生をしっかりと構築したいと思うようになりました。

それはおそらく、子供のころから障害をもつ兄を養育の大変さを目の当たりにしていたため、自分の本心を抑える癖がついてしまったからなのかもしれません。
今でもたまに、自分の本心を具体的に表現できず、抽象的な物言いしかできないことがあります。
それはまさに、聞き手に自分の言葉の裏に存在する本心を読み取ってほしいと願うような言い方です。(きっと欧米では「あなたは何が言いたいのかわからない!!」と激怒されることでしょう。)
それは自分が相手に何かをしてほしいとお願いする時に起きやすいのです。
そのたびに思うのです。

<なんで、兄のように正直に自分の欲求を表現できないの?>

<兄がうらやましい!>

いったい私は自分の本心をどこまで抑制してしまうのか?
自分でもいやになります。

人生も半ばにさしかかり、ふと、自分の歩いてきた道は自分のためでなく、家族のためにあったということに驚かされます。
私は子供のころから、兄のため、そして両親の手助けのために自分が生まれてきたのではないかと思うことがたびたびありました。
もしかしたら私は兄を支援するためだけに生まれたのではないかと思うこともありました。

ただ幸いにも、子供のころから習い事はいろいろさせてもらえましたし、両親もそのことにはお金は惜しみませんでした。
おそらく周囲からみれば贅沢な子供に映っていたことでしょう。
でも、家庭内では甘えは許されなかったのです。
おもちゃもほとんど買ってもらえませんでした。
当時、流行の少女漫画なども知りませんでした。
だから、少女雑誌の話題はさっぱりわかりませんでした。
必然的に私のおもちゃはオルガンやピアノになってゆきました。(おかげで上手になりましたが・・・。)
そろばんの暗算で遊ぶようになりました。
学校の絵画や工作の時間に自己表現することに喜びを感じました。
それらが私の「マイ・ブーム」だったのです。
家に漫画本はなくてもテレビはありましたから、私は円谷プロの特撮ヒーローものに夢中になってゆきました。ちょっとユニークな少女時代を過ごしました。
おかげでクラシック音楽ばかり知っていて、当時の流行歌もほとんど知りませんでした。

こんなちょっと変わった子供だった私が、大人になってからは、身内が入院を何度も経験しました。
それは病気だけでなく、高齢ということもあります。
結局、私の母、夫の母、夫の父、夫の伯母(世話をする人が私たち夫婦しかいなかったので)、私の父の順番で亡くなってゆきました。
私は二十歳ごろに祖母の死に立ち会って死というもののあっけなさを感じていましたが、誰の死にたちあっても、やはり死はあっけなくやってくるのだということを実感しました。
夫の伯母を除いてはすべて臨終に立ち会いましたので、5人の臨終に立ち会ったことになります。
私はなんと人の死と縁が深いのかと自分でも驚きます。

こうして大人になっても兄の支援と身内の介護に追われてきたの私ですので、人生のほとんどを誰かのために過ごしてきたような印象が強いのです。
何年も自分を我慢して生きてきたような気がします。
もっと子供時代に甘えるすべを覚えていたら、それなりに楽な生き方もできてでしょう。
でも、「障害者のきょうだい”だから我慢しなさい」というフレーズが、私の子供時代につきまとったおかげで、我慢するのが当たり前になってしまったような気がします。

そして、とうとう最近になって、もう我慢してはいけないと思うようになったのです。
「自分のしたいことを抑えてはいけない。」

それはまさに大胆な行動として現れました。
やはり抑制した分、小出しでは我慢できないのでしょう。
自宅のほかに別宅で二重生活をすることにしたのです。
もともと一人暮らしをしていた私は、自分の家を持っています。
そして、そこでも生活するシステムを築いていったのです。
夫も文句を言わないで自由にさせてくれる人なので、すんなり実行できています。
結婚後は夫のすすめで行きたかった大学にも通って卒業できたのですが、また落ち着いたら、別の学校にも通いたいと思っています。
こんな風に思えるのも、人生のある時期に集中的に介護と葬儀を何度も経験して、今は兄以外に介護する身内がいなくなったからということもあります。

かつて、進路選択時に兄のことで自分の進みたい道を親戚の介入によって放棄させられた経験がありますので、このまま人生を終わってしまうのかと思うと、それもせつなくて・・・・。(もちろん兄には全く罪はありませんし、兄のために私の人生を犠牲にする必要もありません。)
ただ、私の周囲の血縁者(特に母方の親戚)が兄の障害をことさら問題視し、「あなたは障害者の妹だから普通の幸せは望んではいけない」といったことを平気で口にする人ばかりでした。
そのような人たちは兄を差別し、兄の存在も消していったのです。(つまり母方の親戚宅では私は一人っ子扱いだったのです。)


今、私は「生きなおし」をしたいと切に願っています。
兄の面倒をみることは当然のことだと思っていますし、特に負担ではありません。
ただ、「自分が何のために生まれてきたのか?」という幼いころからの疑問が解決したくなったのでしょう。

今は夫との生活もあり、二重生活ですが、これもまたなかなかいいものです。
ひとりになる時間を得ることは貴重です。
私の場合、誰かと一緒にいると自分の欲求を我慢する傾向があります。
だから、まさに今は息抜き状態です。


ここ数カ月、夫に家事ができるように指導してきた甲斐があるのか、夫も自分で掃除・洗濯・食事をこなせるようになっています。

しばらくは私の好きなようにさせていただきたいのです。


もしかして「生きなおしたい症候群」?!




数年前、緊急手術のため、病院に救急車で運ばれた私は、夫によれば成功率が50%の手術を受けました。
なんでも、難しい手術なので場合によっては死亡することもあるからと、医師から言われていたそうで。。。。(何にも知らない私はびっくり!!)
それで、拾った命です。
第二の人生を経験した私です。
自分の人生をもう一度見つめなおしたいと思うのdす。
一人になることでもう一度自分が生まれてきた意味を考え直したいと思うのです。









 


親にはなれないけれど・・・

2006-09-18 05:54:06 | 親亡き後の生き方

昨日、兄の施設の面会日でした。
私はいつものようにお菓子と缶コーヒーを持っていきました。
お菓子はドーナツです。
私の体調が悪くて、午前中に行けなかったので、結局、施設に着いたのがすっかり日もくれていました。
施設では夕食の支度をしていました。

面会日には決まって、兄は外で待っています。
昨日もそうでした。
可哀想に、朝からずっと外で待っていたようです。
さすがに夕方にはいませんでしたが、お昼頃までずっと待っていたそうです。

それから、周囲の人に「イモウト、イモウト」と聞いてまわっていたらしいです。
話ができるほかの利用者さんから、「ずっと待ってたよ。僕にも聞いてくるねん。」って言われてしまいました。

台風が迫っていて、あいにく天気も悪くて、どんより雲のなかを兄は不安な気持ちで私を待っていたのでしょうね。

でも、兄が待っていたのは、私ではなくて私が運んでくるお菓子なんです。

兄は私のカバンとお菓子の入った袋を奪い取るやいなや、外へ出る準備をしました。

そうです。お散歩と称して外でお菓子を食べているんです。(※もちろん内緒で)

施設内では他の利用者さんへの影響もありますので、こっそりお菓子をあげることにしているんです。

兄は私ではなく、お菓子を待っているんだと思うんです。


私を頼りにする理由・・・それはお菓子を食べたいから・・・。


でも、仕方がありません。

兄の楽しみは食べることだけなのですから・・・。
生前、母も同じようにお菓子をあげていましたから、兄はそれが当たり前だと思っているのでしょうね。

こんな子どものような兄を放ってはおけません。

でも、私は母と同様のことをしても、親にはなれません。

せめて兄の成年後見人になって、兄を守ってあげることぐらいしかできません。



実は、両親が倒れてから、親戚は、手のひらを返したように長男である兄の存在を無視し続けています。




今でも忘れられません。

父の葬儀の時に、差別意識の強い親戚たちに向かって、私はあえて兄のことに触れました。
私は親戚たちに「兄のことも忘れないでほしい」と言いますと、親戚たちは非常に不快だといった顔をしました。
「なんであんな子の話を聞かされないといけないのか!」といった冷たい目・・・。

親戚たちの心の中には兄は存在しないのです。
さっさと消えてほしい存在なのです。

私が若かったせいもあるでしょう。
親のようにはいきません。
親戚たちは兄との縁も切れたくらいに思っているのでしょう。


別に兄のことを看てほしいのではありません。
ただ、両親が兄を残して亡くなっていった後悔の念を考えますと、兄の存在だけは認めほしかったのですが、それはなりませんでした。

私は兄の親にはなれないけれど、支えてあげることはできるでしょう。

もし私が兄より先に死んでしまったら?

・・・・考えないことにしましょう。

ケ・セラ・セラ!


少しずつ・・・少しずつ・・・

2006-09-17 03:22:15 | 親亡き後の生き方

はじめて臨終に立ち会ったのは父方の祖母の時でした。
祖母は入院三日目で亡くなり、それまでは伯母が祖母の介護をしていました。
そのとき、泣いていた母が、四年後に亡くなってしまいました。末期の大腸ガンでした。
私と父が母の最期を看取ったのですが、母の存在の大きさに私は何日も泣き暮らしていました。もう悲しくてたまらなかったです。

障害を持つ兄の世話は母が中心でしたので、兄のこれからを考えるとどうしようかと悩んだことも一因です。
なぜなら、兄は母にべったりだったからです。

当時、すでに兄は施設に入所しており、将来の生活の場を一応確保することはできていました。実質上、特に心配はありませんでした。
ただ私が一番気になったのは、
「母が亡くなったという事実を兄が理解できるのか?」
それだけでした。

母が入院してからは、兄の面会には私や父が行っていましたが、兄は母が来ることを望んでいました。ですから「ママ、ママ」と言う兄を納得させるのが大変でした。

果たして私が母に代わって「兄に関われるのか?」ということも何よりも心配だったのです。兄は何かあると興奮して施設内で暴れて、ものを壊したり、他の利用者さんを叩いたりしていましたから・・・。
正直、不安でした。

そのような状態でしたから、私がいくら子どもの頃から兄育て(?)をしてきたと言っても、母の足元にも及ばない存在で、自信もありませんでした。

そんな経験から、私は父が入院してからは、兄を父に会わせることにしました。
母に比べれば父は兄との関わりは少なかったのですが、父が死に向かってゆくようすを、少しずつ兄に実感させたかったのです。
母の死が兄にとってはあまりに突然だったので、兄は混乱していたようでした。
ですから、もうそんな思いはさせたくありませんでした。
そのおかげか、兄は母が亡くなったときよりはすんなりと父の死を受け入れているように見えました。

両親を亡くした現在では、兄は私が面会に来るのを待つようになりました。
少しずつ、少しずつ、兄も理解してくれたのでしょう。

結局、こんなことしかできないのですね。

私は私なりに少しずつ少しずつ兄にしてやれることはしてやろうと思います。


兄の保護者としての私

2006-09-07 23:00:51 | 親亡き後の生き方

母が亡くなったのは、私が27歳の時でした。
当時、兄は30歳。すでに施設に入所していました。

私の場合、小学生の頃からの母と分担して兄の日常の世話をしていましたから、実質上、子供の頃から兄の保護者みたいなところもありました。

実際は、母が入院した頃から、兄の面会や書類の手続きはすべて私がしていました。
私の場合、高校生の時に家の経済も兄の支え方も母親から伝授されていましたので、母が倒れてからも兄のことはすべてすんなりとやっていけました。

父が兄の手続きや面会に本格的に参加するようになったのは、私が結婚してからでしょう。

その後数年で、父も体調を崩して、私が再び兄を支えるようになりました。
その時には夫も加わって兄を支えるようになったのです。


私は生まれた時から兄を支える運命にあったのだと思うことがよくあります。

母は、私が物心ついた頃から、「私が亡くなったらお兄ちゃんを支えてあげてね。あなたはきょうだいだからね。お兄ちゃんは可哀想な子だからね。」と、いつも話していました。

私にとって、これはかなりのプレッシャーになりました。
兄がいることで自分の人生には兄という「足かせ」が存在するのだと思うようになりました。

子供心に確かに悩みました。

しかし、これは私にとって逃げられる運命ではないのです。
この運命を否定しては私自身を否定することにもなりかねません。

ですから、私は積極的に兄をささえてやろうと思うようになりました。
「私がいなければ兄は安心して生きてゆけないだろう」
そう思わされるような人生経験を重ねてゆきました。


最近、「きょうだいは別だから」といって、健常児と障害児を別に育てるご家庭があるようですが、それはいかがなものでしょうか?

確かに健常者にとって障害者のきょうだいは少なからず人生の妨害になります。

しかし、彼らが何をしたのでしょうか?

彼らも本当は健常者のように自分の人生を自由に選択したいし、さまざまな事に挑戦したいはずです。
しかし、障害によって、身体機能や自己表現に支障が出ているために、好むと好まざると狭められた人生を歩んでいるだけなのです。

健常者が障害をもつきょうだいと関わらなくてもいいとは思いません。

どうして家庭内で世間や学校と同じように線引きされなければならないのでしょう?

たしかに障害者のきょうだいを支える側はしんどいです。
でも、関わりを絶つというのは問題だと思うのです。
親亡き後は、きょうだいが支えてあげるべきだと思うのです。
親が、健常者のきょうだいに負担をかけたくないという理由で両者を分けることは、極端に言えば、迷惑をかける家族は捨ててもよいという理論に発展しかねません。

私は、障害者のように自己選択を狭められた家族の可能性を広げてあげることも家族の役割だと思います。
また、それによって自分自身の可能性を広げてゆけると思うからなのです。