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今だから話そう~障害者のきょうだいとして生きて~

自閉症で重度知的障害者の妹として経験した事、感じた事、そして今だから話せる亡き両親への思いを書いてゆきます。

健常児の人生に障害児は邪魔?

2007-10-10 11:20:34 | 障害者の親

ある障害児のお母さんの言葉。

「あの子には家庭があるから障害をもつきょうだいの世話はさせたくないの。」

「だからその分、あの子(健常児)には財産は遺したくないの。障害をもつ子に遺したいの。」


私は正直いって、この言葉に戸惑っています。


どうして障害をもつきょうだいの世話をしてはいけないのでしょう??

障害者ってそんなにお荷物なの??

 

たとえ、そんなふうに思われても、行政は何かあると必然的に血縁者に連絡してくると思いますけど・・・・。

第三者を成年後見人をたてたところで、弁護士に財産管理を任せたところで、最後の最後には健常者であるきょうだい児が見るのが常でしょう。


身よりもなくて孤独なまま亡くなってゆかれる方も多い世の中なのに、せっかくきょうだい児がいるのに、どうして障害をもつきょうだいと関わってはいけないのでしょう??

私は、そのきょうだい児さんの人生がちょっと損するように思います。

そのお母さんが障害児ときょうだい児の両方のことを考えてそのように人生設計をされても、思惑通りには運びにくいと思います。

きょうだい児には十分にお金をかけて育てたから、残りの財産は長男である障害児に遺したいというお気持ちはわかります。

でも、きょうだい児が障害児の世話から離れる必要があるのでしょうか?

健常児同士のきょうだいであっても、迷惑をかけてばかりの人もいます。

健常児には障害児の世話をさせないというのも腑に落ちません。

確かに、きょうだい児にはそれなりの負担はあります。

でも、その負担から逃げる必要はないと思います。

自分に与えられた人生を全うすることで、生まれてきた意義を感じるのです。

たとえば、私にとって兄が障害児になったことも、何か意義があるのだと思います。

どうしても障害児のお母さんはきょうだい児のことで、健常児に迷惑をかけたくないと思って、さまざま思いをめぐらすでしょうが、そんな必要はないと思います。

多くのきょうだい児は幼いころから障害をもつきょうだいの世話をする覚悟ができていると思います。

それをいやだというのは人として問題を感じます。

自宅で世話ができない場合、両親が死亡したり世話ができなくなった場合、施設入所という方法もあるはずです。

ただ問題は、施設入所が困難になりつつあるようです。

それは障害者自立支援法で施設解体が進みつつあることも関係しているようですが。。。

とはいえ、お母さんが「障害児の世話をしなくてもいい」ときょうだい児に言い聞かせる必要はないと思います。

その分、障害児の将来を見据えた対策を打つなり、きょうだい児が障害児をフォローできるようにきょうだい児名義で財産を遺すなり何か方法があると思います。


 


障害者の親亡き後の年金制度

2007-09-12 03:10:09 | 障害者の親

先日、兄には国民年金(障害年金)のほかに、任意でかけていた年金がおりることがわかりました。
実は市役所の障害福祉関係の職員さんが、管理者が他界しているのに年金をもらっていない世帯を調べて1軒1軒電話をかけてくれていて、私のところにも何度もお電話をいただいたそうです。
それで、その手続きに行って来ました。

その制度は「障害者扶養共済制度」というもので、任意でかける年金です。
障害者の保護者が重度障害になったり、死亡した場合に、障害者に対して掛金に応じて年金(1口で月額2万円、2口で月額4万円)が支払われるそうです。
ただし、保護者が死亡に伴い、早急に手続きをすれば年金はすべてもらえますが、手続きが遅れると、過去3年を経過した分は支払われなくなります。

うちの場合、両親から年金のことは聞いていたのですが、年金の掛金を満額支払ったあとは道府県からその連絡が全くされないため、そのような制度が存在することも知りませんでした。おかげで、月額2万円の年金が5~6ヶ月分はいただけないということもわかりました。
もっと道府県のほうからアプローチがあれば、このような事態はさけられたと思います。

この制度はこのようなものです。


★  ★  ★  ★   ★  ★

 障害者扶養共済制度

★  ★  ★  ★   ★  ★


A.制度の概要

障害のある方を扶養している保護者が、自らの生存中に毎月一定の掛金を納めることにより、保護者の万一(死亡・重度障害)のことがあったとき、障害のある方に終身一定額の年金を支給する制度です。

(1)この制度は、障害のある方を扶養している保護者の方々の連帯と相互扶助の精神をもとづき、障害のある方の生活の安定と福祉の増進に資するとともに、障害のある方の将来に対し、保護者がいだく不安の軽減を図る目的で生まれました。
(2)この制度は、任意加入の制度です。
(3)道府県・指定都市が条例にもとづいて実施している制度であり、確実な保障が受けられます。
(4)加入者が他の道府県・指定都市に転出されても、転出先(東京とは除きます。)での申し込み手続きにより加入が継続されます。
(5)障害のある方1人につき、2口まで加入できます。
(6)掛金は、所得税及び地方税とも全額所得控除され、年金・弔慰金には所得税がかかりません。



B.加入できる保護者の要件

障害のある方(次の「障害のある方の範囲」を参照ください。)を現に扶養している保護者(父母、配偶者、兄弟姉妹、祖父母、その他の親族など)であって、次のすべての要件を満たしている方です。

(1)その道府県・指定都市内に住所があること。
(2)年齢が65歳未満であること。
(3)特別の疾病又は障害がなく、生命保険契約の対象となる健康状態であること。
(4)障害のある方1人に対して、加入できる保護者は1人であること。


C.障害のある方の範囲

次のいずれかに該当する障害のある方で、将来独立自活することが困難であると認められる方です。(年齢は問いません。)

(1)知的障害
(2)身体障害
  <身体障害手帳を所持し、その障害が1級から3級までに該当する障害>
(3)精神又は身体に永続的な障害のある方で、(1)又は(2)と同程度の障害と認められるもの。たとえば、精神病、脳性麻痺、進行性筋萎縮症、自閉症、血友病などです。


D.加入の手続き

1)新規(初めて加入するとき)
 保護者がお住まいの地域にある福祉事務所、市区町村役場の窓口に、
 次の書類を添えてお申込ください。
  (1)加入等申込書
  (2)住民票の写し(保護者及び障害のある方それぞれ必要です。)
  (3)申込者(被保険者)告知書(保護者の健康状態を告知する書類です。)
  (4)心身障害者の障害の種類及び程度を証明する書類
    (身体障害者手帳・療育手帳及び年金証書等)
  (5)年金管理者指定届書(障害のある方が年金を管理するのが困難なとき。)

注※  加入承認日は毎月1日とし、加入申し込みから1~2ヶ月程度要します。

2)転出(既に加入している方が、他の道府県・指定都市へ転出するとき。)
  既に加入している方が、住所の移転により、継続して転出先の道府県・指定都市
  で加入する場合は、常軌の(1)、(2)及び(5)の書類を今まで加入していた道府
  県・指定都市名及び加入番号が必要です。

3)口数追加(既に1口加入している方が、新たに2口目の加入をするとき。)
  上記の(1)と(3)の書類が必要です。(加入口数の限度は、障害のある方1人
  につき2口です。)


E.留意事項

◆加入者年金管理者及び家族等の方へ◆

こんなときには速やかにご連絡を!

心身障害者扶養共済制度の加入後、下記のような事実が生じた場合は、速やかに加入者がお住まいの地域にある福祉事務所、市区町村役場の窓口にご連絡ください。特に掛金が免除となっている加入者は、毎月の掛金を納めなくてもよいため、心身障害者扶養共済制度加入していることをご家族等の方が失念していたり、又は加入している事実を知らなかったり等の理由により、年金の請求手続きがおこなわれていないケースが多く見受けられますので、十分ご留意ください。

(1)加入者が死亡又は重度障害となったとき。
(2)障害のある方が加入者より先に死亡したとき。
(3)加入者が本制度から脱退するとき。
(4)加入者が他の道府県・指定都市に転出し、同制度から脱退するとき。
  なお、引き続き転出先の同制度に加入を継続するときは、転出元の道府県・
  指定都市の制度からは脱退となりますが、実施主体が毛駆動府県・指定都市
  単位となっていますので、転出先の道府県・指定都市において同制度の加入
  手続きが必要です。(加入期間は通算されます。)
(5)加入者、障害のある方、年金管理者の住所や名前が変わったとき。
(6)その他上記以外の変更等で不明な点があるとき。

こちらのHPも参考にしてみてください。http://www2.wam.go.jp/wam/gyoumu/fuyou/index.html

東京都は廃止されたそうです。
http://www.fukushihoken.metro.tokyo.jp/jiritsu/singikai/070119haishi-top.html



私の場合、両親が生存中に掛金をすべて支払い終わっていたため、道府県からの連絡が全くなくて、年金がもらえること知らなかったのです。
掛金を支払いの振込用紙はきちんときていたのに、いざ支払い終わると連絡されないのでは、わかるはずもありません。
うちの場合、父親が保護者になっていましたので、母が他界した時点では年金支給の対象ではありませんでした。
偶然にも父親がすべての掛金を支払い終わってから脳梗塞で倒れたため、私には全く連絡がなかったというわけです。

もしかしたらうちのような事態になっているご家庭もあるかもしれませんので、ご両親のいずれかが他界されたり、寝たきり状態にあるような方は、一度この制度に加入しているのか調べてみてください。

 


障害を持つわが子を自分たちと同じ墓に入れてやりたい

2007-06-27 00:51:58 | 障害者の親

「私たち(両親)が亡くなった後は、あなたがお兄ちゃんを●●家の墓に入れてあげてね。」
これは母の生前の口癖でした。
父は父で生前同じようなことを口にしていました。
まさに、両親は自分たちの死後も兄と一緒にいることを切望しているのです。

実はこれを実現するためにはいろいろと大変なんです。
きょうだいである私が元気なうちに兄が亡くなってしまえば、お葬式もできますし、両親の眠る墓に兄のお骨をおさめることも問題なくできます。
でも、もしも私が認知症に陥ったり、寝たきりになったり、はたまた兄より先に亡くなったりしてしまえば、兄のお葬式も納骨もなかなか難しい問題となると思われます。

まさに私の命と健康は兄のためにあるようなところがあります。
私自身、親戚から兄をのけ者にされて、父が倒れて多大な嫌がらせを受けて、病に倒れて死に掛けたことがあります。
(親戚は両親が健在のうちはよかったのですが、父が倒れてまもなくお墓等の問題で親戚がいろいろと嫌がらせをしてきたのです。どうも兄を一族と同じお墓に入れたくなかったようです。)

そんなわけで、はたして「兄よリ長生きできるかどうか?」ということにはやや自信がありません。
自分自身が死に掛けた経験のおかげで「人間って簡単に死んでしまうんだ」、「生と死は同じ確率で存在しているんだ」と、私は半分悟りのような心境にあります。

そんな経験をしたからこそ、もしも自分が亡くなっても大丈夫なようにさまざまな手続きをする必要があるということも知りました。

これは他にお子さんがいらっしゃらない場合も同じですが、障害者の親きょうだいが亡くなってしまえば、障害者のためにお葬式をあげることも、お墓への納骨も、きちんと手配しておかなければ、実現することは難しいのです。
もしも何も手をうっていなければ、施設入所の障害者の場合、その人が亡くなっても施設も成年後見人も亡くなられた障害者の預貯金には手をつけることはできません。

成年後見人も障害者(被成年後見人)が生きている間は後見人として活躍できますが、障害者が亡くなってしまえば、お役目も終了してしまい、障害者の預貯金を動かすことはできません。

つまり、施設も成年後年人も亡くなった利用者の預貯金から出金することができず、亡くなった利用者のためにお葬式も満足にあげてあげられないのです。

施設は亡くなった利用者の親族を必死で探します。
「探す」という表現をするのは、ほぼ間違いなく多くの親戚は、障害をもつ甥や姪やいとこに対して交流を持とうとしません。
そのために、親戚が施設に足を運ぶことは非常に稀なことなのです。
ですから、施設側も血縁者を探すことで大変です。

それで、のこされた預貯金等はどうなるのか?
それは、今まで障害者と何の関わりももたなかった親族に相続されます。


そう、施設は亡くなった利用者の預貯金を親族に分配するために親族探しをするのです。

それが現実です。

もしも運よくお葬式を施設側に出してもらえたとしても、両親の眠るお墓に一緒にいれてやろうとしたところ、「宗派が異なる」という理由で親族が納骨を拒否して無縁仏になったという例もあります。

障害者の家族は自分たちの死後のことでなく、障害者の死後のことも考えなくてはいけません。

大変です。


時計草の想い出

2007-06-10 06:02:36 | 障害者の親

今日は母の17回忌にあたる命日です。
毎日、両親の眠る仏壇に手を合わせながらも、日常の出来事に紛れて過去の悲しみを忘れていくことが多いです。

そんな母が愛した花が時計草でした。
ふと母の眠る墓地に向かう途中のお宅の塀に溢れんばかりの時計草が咲いていました。
こんなたくさんの時計草は見たことはありません。
「母にも見せてあげたかったなあ。」
それで、撮ったのかこの写真です。

時計草を見ていると次々と母の入院したときのことを思い出します。

 

*   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *   *


今でも忘れられません。

母が亡くなる3年前の初詣の時に、母は言いました。
「もしかしたら、私、ガンかもしれない。」
当時、すでに母は再生不良性貧血の治療を受けていました。
でも、母は知人の医院で看護師としても働いていました。
勤めはじめた時期には対して病気もなかったのですが、いつのまにかそのような病気になっていたのです。
かつて大病院の外科病棟で婦長まで勤めた母でしたが、その職業意識が災いしたのでしょう。
医院に隠れてこっそり通っている病院で2週間の検査入院を言われていたのに、自分をもとめる患者さんのことや、医院のことを考えると、自分のための入院ができなかったようです。
本当に母はよくもわるくも患者さん思いの看護師でした。
患者さんの多くは老人で、独居老人も多く、福祉の相談員もしていた母は、その患者さんの自宅を訪問したり、話し相手になったり・・・と個人的にも親しくしていた人がたくさんいました。
そんな母ですから、お年寄りの悲しい顔を見るのがいやだったのでしょうね。
また、私も父と仲が悪くて母を介している状態でしたので、自分がいなくなったらどうなるのか心配だったのでしょうね。。。

そんなわけで、母は検査入院もせずに、頑張り続けてきました。

毎日、原付バイクに乗ってはあちこち精力的に動き回っていました。
家事も仕事も福祉ことも親の会の役員も次々とこなしていく母の姿に、「お宅のお母さんは、びっくりするくらいよう働きはるね」とよく言われたものです。
ですから、ガンで亡くなった時には、本当にびっくりされました。
見かけがとても元気そうな人でしたから、母の死には生前の母を知る人には衝撃的でした。

 

母の体調を考えて、仕事をやめて欲しいと何度も懇願しました。
父も仕事をやめろといいました。
それでも、母は仕事を辞められる環境ではありませんでした。
おそらく検査入院というのは、再生不良性貧血の件だったみたいですが、それがきっかけとなってガンになったようです。
実際、入院してからも医院のドクターがまた復帰してほしいと言いにお見舞いに来ましたし、医院に母を退職させてほしいと私から何度もお願いしましたけど、母が復帰できないとはっきりするまで受諾されなかったのです。
もしかしたら、医院のこの態度もいけなかったと思います。

 

腹痛。腹膜が破れた。それで入院してそして手術。。。
母は、もうあきらめたかのように、つぶやきました。
「いつも、悪いねえ~。お兄ちゃんが待っていると思うから面会に行ってあげてね。缶コーヒーが好きだから、お兄ちゃんに飲ませてあげてね。」
そんなことを話す母、実は“食事制限”を受けてほとんど食べていないんです。

そして、1ヶ月の入院に末、退院してきました。
今でも後悔している私のひと言があります。
「もう一度入院したらもう帰ってこられないよ」
本当になんとなく出た言葉でした。

しかし、それは現実のものとなってしまいました。
自宅での静養が1ヶ月。
そして、腹痛で再入院。

病院では腸閉塞の傾向があるので、再び母は“食事制限”状態に・・・・。
私は母のために、果物をしぼって飲ませたり、ジュースを飲ませたりしました。
固形物はだめで、流動食と点滴で栄養補給が続きました。

しだいに母の腸閉塞は悪化してゆきました、そして“絶食状態”の変わりました。
2ヶ月後のバレンタインデーの日に、腸のバイパス手術のために、手術を受けました。
医師は、開腹してすぐに閉じたそうです。

そう、すでに母の体内でガンは進行していたのです。
「末期の大腸ガン」
そう医師から告げられました。
ガンは大腸から胃や肺へと転移していたそうです。

それでも母は頑張りました。
母は自分でもガンだと気づいていたようですが、私も父も話せませんでした。
いつも、「もしガンだったら隠さないで話してね」と言っていた母に真実を告げられない私が悲しかったです。

まあ、母自身、姉が二人も同じ年齢の時に、ガンで亡くなりましたので、自分もそうかもしれないと思って覚悟していたのだと思いますが・・・。

母がガンと判明してから、私は母の好きだった花の写真を撮っては母に見せていました。
母はガンの痛みで苦しみながらもいつも笑顔で周囲の人を楽しませ続けました。
入院中もあちこちで友達がいました。
常に明るく生きる人でしたから、友達も多かったです。


5月になると、母のお気に入りの時計草が花を咲かせました。
植木鉢に2~3個しか咲いていないのですが、母はそれでも時計草を大切にしていました。
その前年、「おいで~時計草がきれいに咲いたよ。本当に時計にような形をしているね。来年も咲いてくれたらうれしいね~」と話して母でしたので、ぜひとも時計草だけは枯らさないように頑張ってきました。

幸い、今年も時計草は咲いてくれました。
私はそれを何枚も写真に撮り、母に見せてあげました。
それを見た母は、「きれいなあ~。今年も咲いたね。」
と、うれしそうな顔をしました。

しかし、すでに母の声は弱っていました。
笑顔からあの輝くようなエネルギーは消えていました。
私はもうだめだと思いました。
母もきっと覚悟を決めていたのでしょう。
「何がほしいものがある?」というと、「桃がほしい」といいます。
それで桃のジュースや桃の実を絞ったりしていました。
母は「おいしい」と幸せそうな顔をします。
その顔を見たくて私はもっと飲ませてあげます。
すると母の体が受け付けなくて、嘔吐します。
胃液が流れ、苦しみます。
そんなことが何度かあって、母に何もできない自分が悲しくなりました。

6月1日。この日は綺麗好きな母のために、行き着けの美容院の美容師さんに病院に出張してもらい、洗髪とカットをお願いしました。

入院で髪も伸びて気持ち悪いと母がよく言ってましたので、私が美容師さんに特別にお願いしたのです。
カットを済ませた母は、爽快だったのでしょう。
久しぶりに母の顔に生気が戻ったように見えました。
「ああ、すっきりした。気持ちよかった」
母はすごく満足してくれて本当にほっとしました。

何か喜びがあると、次には悲しみが待っているのでしょうか?
6月2日に母に会ったときには母は、ほとんど話せなくなっていました。
目もうつろで、ほぼ寝たきり状態になっていました。
そう、その日から何も話せなくなったです。
顔を上下左右にわずかに動かすことでしか、意志表示ができなくなりました。
そして、6月3日には危篤状態に陥ってしまいました。
父と私は何度か病院で夜を明かしました。

6月9日の晩、父が自分が付き添っているから今日は帰れといいます。
でも、私は母のそばにいたくて今日は一緒にいるといいました。
まさに“虫の知らせ”でした。翌朝、母は私と父に看取られて亡くなりました。
母が亡くなるまで、何度も何度も泣きましたけど、母が亡くなってみるともう流れる涙はありませんでした。
とにかく、母の生前私に託していたこと(葬儀関係)を実行するという使命感しかありませんでした。

葬儀の時、涙が止まりませんでした。
一回忌にも、三回忌にも・・・・・。
母を思うたびに、「もっと母に親孝行してあげたかった」と後悔の念にとらわれます。


それでも、母の眠る墓地には毎年サクラの花びらが舞い散ります。
いつかどこかで、母の大好きだった時計草も咲いています。

「私は大丈夫! お兄ちゃんを見守ってあげてくださいね。」

 


ある障害児のお母さんの言葉

2007-05-14 03:19:21 | 障害者の親

私はあるきっかけがあって、障害児をもつお母さんのお話を伺う機会がありました。

そこで感じたことは、障害者のお母さんは、誰もが一度はこの子を連れて死にたいと感じたということです。

お母さん方はそんなに追い詰められているのです。

多くのお母さんが、自分の親きょうだいにも配偶者の親きょうだいにもわが子の障害を受け入れてもらえず、中には実家同士が障害児が生まれたのは相手の家が悪いのだと責任のなすりつけあいをして離婚しかけたという方もおられました。

それでいろいろ調べていくうちに、わかったことがありました。

障害児と健常児では障害児が可愛いと断言するお母さんの場合、わが子の障害が重度で、支援のすべてを自分で抱え込んでいるのです。

そして、健常児の方が可愛い、もしくは両方とも同じくらい可愛いというお母さんの場合、健常児が障害児の生活支援にしっかりと関わっているのです。

また、障害児を産んでよかったこと・悪かったことにおいては、障害児の方が可哀想と回答したお母さんは、障害児で産まれたことをマイナスに感じているのに対して、健常児の方が可哀想と回答したお母さんは、障害児で産まれたことを良かったと感じているのです。


その中で私が最も感動したのは、あるお母さんの言葉でした。

●障害児の母親になってよかったこと:

「障害児のお母さんの人生を歩めたことです。
それで、私には人の何倍もの人生を与えてもらいました。感謝しなくてはいけません。」

●障害児の母親になって悪かったこと:

「ありません。私は本当にあの子を産んでよかったと思っています。」

 

そのお母さんはこうもおっしゃいました。

「確かにあの子を産んで死にたいような苦しみもありました。一緒に死のうと思いました。

でも、あの子がいたからこそ、私はあの子に育ててもらったのです。

もしあの子がいなかったら、私ももっともっと頼りない母親になっていたと思います。

私にとってあの子が生まれてくれたおかげで、私は人間として成長できる機会を与えられました。

たとえ最初は辛くても、長年障害者の母親として生きてきたら、そのことのありがたさを感じることができますね。」(笑)


これは多分悟りの言葉だと思います。

でも、こうして笑ってお話できるって、きっと過酷な人生との葛藤を乗り越えられたからではないでしょうか。


障害児の父の姿に想う

2006-09-28 20:06:51 | 障害者の親

私の父は、仕事や付き合いを優先して、あまり家庭的な人ではありませんでした。
また、障害児の兄が興奮して暴れるたびに、兄を叩きました。
そんな姿がいやで、私は父のことが大嫌いでした。

ですから、思春期には父とはいつも緊張関係にありました。
一発触発状態と言ったほうがいいかもしれません。
そんな親子でしたから、私が結婚後も、夫の目の前で父と喧嘩になることも珍しくありませんでした。
父は夫のことを息子ができたみたいに、一緒に話すのを喜んでいましたし、夫は夫で父が私の悪口を言うのを面白がっていたようなのですが、本当に仲が悪かったんです。


でも、こんな父を尊敬することがあります。
それは、父は障害児の父親であることを公言していて、恥とは思っていなかったことです。
当時、障害児といえば、「シンショウ」とか「ヨウゴ」と呼ばれて、現在ほど障害者に対して世間が理解を示してくれるような時代ではありませんでした。
障害児を抱えてそのことを悔やんで母子心中したという話も珍しくなかった時代です。
そんな時代に、父は兄のことを堂々と話していました。
父は何度かヘッドハンティングで転職しましたが、そのときにも障害児の息子がいることを公言し、転勤がないことを条件にしていたといいます。
どうも兄と離れるのがさびしかったらしいのですが・・・。

こんな父は、どのような境遇の人に対しても平等でした。
相手は大金持ちであろうが貧乏人であろうが、国籍が違おうが戸籍がどうであろうが、全く気にする人ではなかったのです。
たしか、子供の頃、人権教育で「国籍や戸籍などで人を差別してはいけない」と習ったと思いますが、そんなことは我が家では当たり前になっていたのです。

ただ、母の実家が名士の家柄で、母の親きょうだいがそれを自慢するので、母に「お前の親きょうだいはおかしい」と言っていました。
(そのおかげで、障害児の兄はいないことにされてしまったのですが・・・。)

父は黙っていましたが、家族を愛していたのだと思います。
父はとっても不器用でしたが、本当に意味での優しさを隠していたのでしょう。


こんな父は数年前に亡くなりました。

父には言えなかった言葉がひとつあります。


ありがとう、お父さん・・・・


 

親きょうだいのことを書いています。
http://blogs.yahoo.co.jp/sayakayamase


生と死の間で ~障害児を生み育てるということ~

2006-08-22 16:42:07 | 障害者の親

兄は幼い頃から多動で、じっとしていることが我慢できませんでした。
常に家の中を走りまわり、手を振り回しながらまるでドラマーのように、自分の体を叩きまわっていました。
時折、「ウイーッー」と奇声をあげながらぴょんぴょん跳ね回ります。

そんな兄は非常に手のかかる子供でした。

家の中でそうしているうちは何も問題はないのですが、一瞬目を離した隙に外へ飛び出しては近隣住人に迷惑をかけるのです。

たとえば、家の玄関前に小さな側溝があるのですが、兄はそこに土を入れて特製のダムをつくり、排水をせき止めるのが好きでした。
そして、その特製のダムにブドウの実を食べたあとに残ったヘタを逆さに突き刺して木のようにするのが大のお気に入りでした。

そのような遊びはうちの家だけなら問題ないのですが、近所にあちこちで兄は特製ダムをつくりました。
おかげで、排水溢れて道が水浸しになったとあちこちから苦情が出ていました。
そのたびに母はシャベルと塵取りを持ってはそれを取り除きに行きました。
最初は謝罪の日々でしたが、近所の人もだんだん慣れてきたのか、「またやってるよ」と軽く注意する程度で収まるようになりました。

それだけでは、兄の多動はおさまりません。
兄は毎日往復4kmの決まったコースを走るという生活習慣がありました。
それもトレーニングではなく、衝動のまま、いわゆる儀式的に決まったコースを走っているという感じでした。

しかし、油断はなりません。

時々、見知らぬお宅へ勝手に上がりこんで、そのお宅にあった食べものを拝借したり、冷蔵庫のジュースを勝手に飲んだりしますので、警戒は必要でした。

ですから、妹の私が兄の行動を常に監視しなければなりませんでした。
そのようなわけで私も子供の頃から母のように兄のことを見守ってきました。
そうしないと母が倒れてしまうと子供ながらに感じたからです。

母自身、兄のことでさまざまなストレスを感じていたと思います。

父は昔かたぎの人で子育ては母にまかせっきりだし、母の親きょうだいは兄を無視して「亡き者扱い」しますし、父のきょうだいは母のせいで兄のような障害児になったと思っていますし、母は誰にも相談できず、一人思い悩んでいました。
もちろん専門家にも相談に行きました。しかし、親戚に偏見を持たれて苦しんでいることはどうにもならなかったのです。あくまでもわが子の発達に関してした答えをもらうことしかできなかったのです。



母は時々私にポツリと愚痴をこぼしました。


「もう死にたい! この子と一緒に死んでしまいたい!」


「でもなあ、あんたをのこしたら可愛そうやし・・・。あんたにもあんたの人生があるから、しっかり生きてゆかなあかんね。」

そして私の顔を見て母が言いました。

「ようし!頑張るぞ!」
「いいか?よう覚えておきや。世の中にはもっと苦しい目をしている人がいっぱいいるからね。うちなんてしれているから・・・。」

「だから、あんたはお兄ちゃんの分まで頑張って生きなあかんよ。」

母は、いつも兄と一緒に死んでしまいたいと思っていたようです。
しかし、兄の下に妹の私がいることで、「この子のために生きよう」と、考えてくれたようです。

母は兄に必死に向き合いながらも、いつも遠くから私のことを思い続けてくれていたのだと思います。

もしも私がいなかったら、本当に母は死んでいたかもしれません。


最後に母が生きてゆくすべを見い出したのは「親の会」との出会いでした。

母は「親の会」で役員をし、自分と同様に苦しんでいるお母さんたちに声をかけて少しでもお母さんたちや障害児の家庭を守ろうとしました。

当時、一家心中や障害児の母親の自殺は珍しいことではなく、世間には表面化されていませんでした。
現実には「親の会」には何度となく心中に関する情報が届いていたようです。
母自身もそのような危機的状況に陥っている家庭に足を運んでは、自殺をしないように説得していたと言います。自殺の予告電話で夜中に飛び出していったこともあります。


このように、障害児を生み育てるということは命がけだと思います。

現在、障害児を一生懸命に育てられているお母さんたちは本当にすごいと思います。

さまざまな偏見にも負けず、頑張っておられる姿は感動します。


これは私自身は障害者の家族として生きてきたからだと思いますが、障害児と判断されたからといって人間として扱わないという社会が存在していることは、障害者の親きょうだいには一番つらいです。

私は、兄は障害者であったからこそ、少しだけ多くの勉強をすることができたと思います。
もしも、兄がいなければ、私は人を見下すような人間になっていたかもしれません。
そんなことを考えれば、第1子が障害児になってしまったというのに、母は勇気をもって第2子である私を生んでくれたことに感謝しなければなりませんね。

お母さんありがとう!

 


療育手帳の意味

2006-08-21 03:12:06 | 障害者の親

療育手帳を目の前に。


これはまひろさんの「とうきちと私」というブログの記事ですが、私の両親もこのような気持ちだったのではないかと思います。
当時、私はあまりに幼すぎて、何もわかりません。
私が成人してからも、療育手帳は交通費が割り引かれるなどの特典が付いた便利なものだとしか教えてもらえませんでした。
だから、療育手帳をもらった時の両親の気持ちなど考えもしませんでした。

でも、このブログを読んではっとしました。まひろさんの複雑なお気持ち・・・。きっと私の母も同じだったと思います。
私は障害者のきょうだいの気持ちはわかりますが、障害児の母親の気持ちはわかりません。
ただわかるのは障害児を持つお母さんはたくましい人が多いということ・・・。
きっと神様はそれだけの器を持った人だから、障害を持った子供を授けてくれたのでしょうね。
私の母は兄のような障害児の母親になることで人生を十分に燃焼させたと思います。
その時間は短かったけれど、母は身を持って人生というものを私に教えてくれたのでしょう。
私はそんな母の子供に生まれて幸せだと思います。
また、障害をもった兄を持つことでさまざまな事を経験できたことは、私にとってもよかったのだと思います。