今だから話そう~障害者のきょうだいとして生きて~

自閉症で重度知的障害者の妹として経験した事、感じた事、そして今だから話せる亡き両親への思いを書いてゆきます。

家族で食卓を囲むことの大切さ

2007-10-30 01:43:37 | 徒然日記

一般に上のきょうだい、特に年齢が近いきょうだいが障害児の場合、どうしても下の子供は、自力で学習しなければならないことが増えます。
でも、そのような環境であっても、親から学習できる場があります。
それは私の場合、家族で食卓を囲むときでした。
家族といっても、父は仕事の付き合いで帰りが遅かったので、母と兄と私の三人で夕食をとっていましたが・・・・。
夕食時には母は兄のことに目を配りながら、諺(ことわざ)や四字熟語、歴史の話、政治の話、世の中のさまざまな話などをしてくれました。
そのおかげか、社会や国語は苦手であっても、世の中の仕組みを考えるような子供に育てられたような気がします。
単に知識を覚えるのではなくて、まずは疑って納得するまで考える子供になれたような気がします。
だから、私の母からの家庭学習のほとんどは夕食の食卓で行われていたと言えます。
実際、母は兄の養育にかかりきりで私は兄の養育に参加する(=妹でありながら姉や母親のような存在になる)ことでしか、家族とのふれあいを感じることはできませんでした。
ですから、私のとって家族で食卓を囲むことは非常に大切な時間でもあったのです。

最近は家族そろって夕食をとる家庭が激減しているように思います。
昔に比べて子供が忙しくなった、母親が仕事で遅くなる・・・など、さまざまな理由はあると思います。

でも、親子が食卓をともにすることはとても大切だと思います。
食事は<生命の源>であり、家族の最低限の<ふれあいの場>だと思うのです。

だからでしょうか?
最近は仮面夫婦ならぬ「仮面家族」が増えているように思います。
ただ単に戸籍が同じだけで、心はバラバラの家族・・・・。
それってちょっと悲しいですね。


実は私自身、生前の父とは反目関係にありました。
家庭的ではない父のことが思春期以降ずっと嫌いで、父と顔を合わすことも話す子tも嫌でした。

でも、父は家族のために毎日のようにお土産を持って帰ってきました。
もしかしたら、家族にお土産を買うことで、父なりの愛情を示していたのかもしれません。
家族でお土産を囲んでは、あれやこれやと会話することで、父もご機嫌でしたが、父は父なりに家族の絆を保とうとしていたのではないかと、父が亡くなってから感じています。

それぞれ、家庭によって暮らし方は異なるでしょうが、家族は家族として成り立つために最低限の心のつながりはもっておきたいものですね。

そのためにも家族で食卓を囲む機会はもったほうがよいのでは?

家族が囲む食卓にはすばらしい力があると思うのです。



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