このブログはタイトルからすると、
「落ち着いたデザインのテンプレートが似合うかな?」
なんて思っている私ですが、
ディズニーが好きなので、
今日はディズニーのテンプレートに変更してみました。
どうしても内容が重くなりがちなので、
たまには楽しい記事も書いてみたいと思います。
神戸で恐ろしい事件が起きたのを覚えているでしょうか?
朝、登校してきたら学校の校門の上に少年の切断された頭が載せられていたという
まれに見る残酷な事件でした。
人間がまるで無生物のように簡単に殺されてしまうその犯行手口に驚かずにはおれ
ませんでした。
今回、殺された土師淳(はせじゅん)君のお父さんが手記を発表されたようです。
ここで気になったのは、土師淳君のお兄さんのことでした。
弟があのような無残な姿で殺され、しかも、自分が通っている学校の校門の上に置
かれていたのです。
弟を殺されたショック、当時の周囲の後期の目、取材に熱心なマスコミ関係者の反
応、そして息子を殺されたショックで生きる気力を失ってしまった両親・・・・。
そんなとき、彼はどうしてゆけばよかったのでしょうか?
いいえ、どうしようもありません・・・。
ひたすら、その状況を耐えるしかないのです。
私が障害者のきょうだいだから感じるのかもしれませんが、淳君のお兄さんは、ご両
親よりも周囲の痛みを感じさせられる環境にあったと想像してしまいます。
きっと彼なりに辛いこともたくさんあったことでしょう。
ましてや思春期の感じやすい時期によくこうして生きてこられたと思います。
彼は登校拒否になったといいますが、当然のことでしょう。
現実には、ご両親は殺された淳君のことで頭がいっぱいだったと思います。
両親の関心を自分の方を向けたいと思っても、殺された弟の方が「絶対的な弱者」
であるため、きっと彼はものすごく我慢してきたのだと思います。
「淳ばかりじゃなく、僕の方にも向いてよ」
そんな思いを抱えながら苦しい思春期を乗り越えてこられたのではないしょうか。
最近、顔は登場しなくともテレビで自分の思いを語られていました。
そこまでできるようになってよかったと思います。
彼も、もう23歳。
これからも続く人生をしっかり歩んでほしい!!
でも、ご両親のために殺された弟さんの分まで頑張らないでほしいと思います。
彼が彼自身のために生きて欲しい。
彼の心の傷は一生癒えないでしょう。
でも、人との出逢いで変わることもあると思います。
彼の心が癒される日が来ることをお祈りします。
皆さんはどのように思われましたか?
私が障害者のきょうだいだからこんなことを感じてしまったのでしょうか?
'''脳裏の姿11歳のまま 児童連続殺傷から10年'''
■「本当に更生したか」
神戸・児童連続殺傷事件で最愛のわが子、淳君=当時(11)=を失った父親の医師、土師守さん(51)は、少年法の壁や取材攻勢に苦しみながら、家族で支え合って10年間を生きてきた。刑事裁判への犯罪被害者の参加が実現間近となるなど成果もあったが、加害男性(24)=当時14歳=から贖罪(しょくざい)を十分感じることはできない。悲しみが癒えることはない。(広瀬一雄)
≪悲しみと自責≫
守さんは今春、テレビ局の取材で、事件現場となった神戸市須磨区の通称「タンク山」を眼前に望んだ。事件後山に近づくのは初めてだったが、途中から足が前に進まなくなった。「やはり、いい思い出はないですよ」。訥々(とつとつ)と絞り出すように心の内を話す。
事件後4年たって、自宅を引っ越した。「愛着があったが、どうしても離れたかった」。いま、淳君の兄である長男(23)は就職活動中で忙しく、守さん自身も病院内の責任ある地位に就いて多忙になった。
「家では事件のことは本当に話しません。全く普通の毎日です。でも悲しみや怒りの『強さ』が減ったわけでは決してありません」
守さんの脳裏に浮かぶ淳君は今も11歳のまま。「成長した姿を思い浮かべるご遺族もいらっしゃいますが、私には11歳の姿しか浮かばない」。深い悲しみに加え、「守ってあげられなかった…」という自責の念にもさいなまれ続ける。
「おじいちゃんのとこ、いってくるわ」。平成9年5月24日の午後、守さんも妻(49)も家を出る淳君の声を聞いたが、姿までは見ていなかった。「それが最後だったんです。妻は今でも後悔しています」。当時中学生だった長男も、不登校や進学問題に悩む時期を送った。
それでも家族で支え合いながら生きて、「昔の自分は空回りしていたかも…」と、やっと思えるようになった。だがそれは加害男性側の謝罪や、司法制度を預かる国がもたらしたものではない。
≪すれ違い≫
「少年院を退院してしまうと(加害男性が)私たちにどう謝罪するか、そもそもどういう情報を伝えるかすら、全く向こう側の『善意』で決まる。それはおかしい」
加害者の贖罪を『善意』と表現せざるを得ない悔しさ。今、加害男性の「情報は圧倒的に少ない」(守さん)という。
「本当に更生しているんですか?」。加害男性の少年院退院が近づくにつれ、守さんや代理人の井関勇司弁護士らは、法務省関係者や関東更生保護委員会のメンバーらに何度も問いかけた。当初、「更生していると思います」と答えていた関係者の口は重くなり、ついに「矯正教育は最高段階に達した」という大人の視点からの答えになった。そして加害男性は16年末に異例の長期収容を終え、少年院を本退院した。
「『罪を自覚させ、遺族に謝罪させる』という観点は『更生』の中心ではなかった」と守さんはいう。
退院後、法務省OBらからなる民間サポートチームが加害男性を支えていくとされている。守さんのもとには16年8月、初めて加害男性から手紙が届いた。今月12日にも手紙が届き、守さんは「今回の文章から受ける印象は変わったような気がする」と感想を漏らしたが、「謝罪」を受け入れる気にはなれない。
守さんは事件直後、「なぜ、淳がねらわれたのか」との疑問を抱き、自ら関係者を訪ね歩いた。その結果「加害男性に素直についてくる子供がこの地区に『淳』以外に存在したとは思えない。いつかは犠牲となっていた」という悲しい結論に至った。
加害男性が真相を語る可能性は高くない。ならば「更生させた」とする国と、守さんら遺族の10年間はすれ違いだったことになる。
≪続く闘い≫
それでも守さんの思いが、高い少年法の壁の一部を突き崩したことも確かだ。加害男性の両親の供述調書が「民事訴訟を起こすため」として弁護士に開示された。更生状況も伝えられ、精神鑑定書も開示(後日)された。いずれも当時としては極めて異例だった。
守さんが幹事を務める「全国犯罪被害者の会(あすの会)」の活動も結実の一歩手前。犯罪被害者遺族が、刑事裁判に参加できる刑事訴訟法の改正案が国会に上程中だ。
毎月、関西の被害者遺族が集まる集会には長男も参加するようになった。「こちらから誘ったことはないんですが」。守さんの姿勢に反発していたが、思いが通じたのだろうか。守さんもうれしそうだ。
守さんは10年間、毎週末には月照寺(兵庫県明石市)にある淳君の墓に参り、月命日にも供養を続けてきた。淳君の命日にあたる24日も「特別なことはしません。寂しくないように、いつもお参りしていますから」と話す。
墓参りの際にも、事件や加害男性のことは報告しない。淳君との大切な時間をけがされたくないからだ。月照寺には間瀬元道住職(69)=当時、現東堂=が、淳君の写真をもとにつくったという小さな地蔵も安置され、だれもがそのかわいい姿を慈しむ。
「ほかの犯罪被害者の方がつらい思いをしないようにしたい。一般の刑事裁判へ犯罪被害者が参加できれば、いずれは壁の高い少年審判にも被害者遺族が参加できる」
守さんは今後、より積極的に活動していくことも考えている。
<産経新聞>
参考HP:[http://www.iza.ne.jp/news/newsarticle/event/crime/53183/]