1月27日は大阪府知事選挙です。
当日は投票に行けないので期日前投票に行こうかと思い、候補者の意見を聞いています。
テレビでも候補者が出演することもあり、彼らの話を聞いています。
その中で橋下氏の発言が気になりました。
関西圏で放送されている「ムーブ」という生放送の報道番組があるのですが、その番組の中で、今マスコミが注目している三候補者の生討論がありました。
そこで、橋下氏はこんな感じのことをおっしゃっていました。
「差別はなくなっているでしょう?」
「僕らの年代では差別というものはありませんし・・・。」
「あれは上の年代の方の話でしょう?」
それって本当???
私は橋下氏とそれほど年齢は変わりませんが、障害者差別がないと思ったことは一度もありません!!
兄が障害者ということで、私たち家族は世間や親族からの偏見に悩むことも多かったです。
私たち家族だけの問題ではなく、多くの障害者やその家族は偏見にさらされているのは事実です。
特に知的障害者の場合、理解されにくくて「挙動不審者」扱いされ、佐賀警察のように取り押さえている間に、障害者亡くなってしまうこともあるのです。
もし、差別というものがなければ、障害児のお母さんがわが子の将来を苦にして母子心中を考えることもないように思うのですが・・・。
けっして差別がなくなっているわけではないのです。
たしかに差別がいけないことだという意識が広まっているのですが、どこか偏っているような気もします。おそらく心底から差別意識が消えたわけでないと思います。
きっと社会が差別をしてはいけないというから表面的には差別は見えませんが、隠れた部分では陰湿な形で差別は行われていると思います。
以前私は、橋下氏は見かけによらずなかなか思慮分別のある方だと思っていました。
光市母子殺人事件でも弁護団の加害者弁護団の行き過ぎをテレビ番組内で指摘して、なかなか勇気のある方だなあと思っていたのです。。。
でも、「ムーブ」での発言も二転三転し、差別もなくなったというし、この方は本当におめでたい人物というのか、そこの浅い人に見えました。
彼がいくら子ども時代に貧乏であろうが、どこか人生経験の浅さを感じずにはいられませんでした。
まるで学校の生徒会長を選ぶような感じにさえ映りました。
宮崎県の東国原知事のように、真摯な態度で県政に関わっていただけるのなら支持できるのですが、どうなのでしょうか?
彼にとって障害者差別というものはどういうものなのでしょうか?
すご~く気になりました。
本年もどうぞよろしくお願いいたします!
それでも書けなくて、結局、年明けの元旦に年賀状を書いていました。
これは私の習慣というのか癖なのですが、ショッピングセンターや駅のトイレを利用したときに、お掃除の方と出会ったりしたら、私は必ず「いつも大変ですね」「ありがとうございます」と声かけをします。
トイレは汚い場所ですし、誰が使っているかわからない場所をお掃除するということは、お給料をいただいたとしても喜んでされる方は少ないでしょう。
最近は自分の家のトイレでさえお掃除を嫌がる人もいるというのに、ましてや知らない人が利用したトイレをお掃除するということはあまり気持のよいことではないでしょう。
お掃除の方とおしゃべりすることも多くて、いろいろな話を聞きます。
マナーの悪い女性も少なくないようで、外見は華美に着飾っているのに、使い方が汚かったり、中にはトイレ掃除の方を見下すような発言する人もいるそうで・・・・。
何か複雑な気持ちになります。
特にショッピングセンターなどでは、祝祭日はトイレの利用者も多く、一日の業務の大半がトイレ掃除になることもあるそうです。
本当に大変だと思います。
そんなわけで、日頃からお掃除される方には感謝したいものです。
トイレに限らずいつもきれいにお掃除されている場所は人の心を温かくしてくれるような気がします。
明日も明後日もお掃除される方には「ありがとう」と言いたいと思います。
「ありがとう」
その一言で、ほんの小さな出会いでさえちょっぴり幸せに感じられるかもしれません。
「これは経験した人にしかわからないのよね・・・。」
A子さん夫婦は、お姑さんがパニック状態になれば施設に寝泊まりすることも少なくありません。
お姑さんの介護だけでもA子さんの心も体もボロボロだという、心やさしくいつも笑顔で人に接するA子さんをさらに痛めつけます。
親だから長生きしてほしいけど、自分の心と体が限界になってくるともうたまらなくなるんですよね。
ましてや同等の状態の方を自宅で介護されている場合などはより一層大変だと思います。
また、そのような人は介護に直接関わっている人に対して、こんなことを言ったりします。
「あの人は亡くなった後の遺産をほしがっているからおばあちゃんに親切にしてるんだよ。」
中にはそんな人がいるかもしれません。
一般に上のきょうだい、特に年齢が近いきょうだいが障害児の場合、どうしても下の子供は、自力で学習しなければならないことが増えます。
でも、そのような環境であっても、親から学習できる場があります。
それは私の場合、家族で食卓を囲むときでした。
家族といっても、父は仕事の付き合いで帰りが遅かったので、母と兄と私の三人で夕食をとっていましたが・・・・。
夕食時には母は兄のことに目を配りながら、諺(ことわざ)や四字熟語、歴史の話、政治の話、世の中のさまざまな話などをしてくれました。
そのおかげか、社会や国語は苦手であっても、世の中の仕組みを考えるような子供に育てられたような気がします。
単に知識を覚えるのではなくて、まずは疑って納得するまで考える子供になれたような気がします。
だから、私の母からの家庭学習のほとんどは夕食の食卓で行われていたと言えます。
実際、母は兄の養育にかかりきりで私は兄の養育に参加する(=妹でありながら姉や母親のような存在になる)ことでしか、家族とのふれあいを感じることはできませんでした。
ですから、私のとって家族で食卓を囲むことは非常に大切な時間でもあったのです。
最近は家族そろって夕食をとる家庭が激減しているように思います。
昔に比べて子供が忙しくなった、母親が仕事で遅くなる・・・など、さまざまな理由はあると思います。
でも、親子が食卓をともにすることはとても大切だと思います。
食事は<生命の源>であり、家族の最低限の<ふれあいの場>だと思うのです。
だからでしょうか?
最近は仮面夫婦ならぬ「仮面家族」が増えているように思います。
ただ単に戸籍が同じだけで、心はバラバラの家族・・・・。
それってちょっと悲しいですね。
実は私自身、生前の父とは反目関係にありました。
家庭的ではない父のことが思春期以降ずっと嫌いで、父と顔を合わすことも話す子tも嫌でした。
でも、父は家族のために毎日のようにお土産を持って帰ってきました。
もしかしたら、家族にお土産を買うことで、父なりの愛情を示していたのかもしれません。
家族でお土産を囲んでは、あれやこれやと会話することで、父もご機嫌でしたが、父は父なりに家族の絆を保とうとしていたのではないかと、父が亡くなってから感じています。
それぞれ、家庭によって暮らし方は異なるでしょうが、家族は家族として成り立つために最低限の心のつながりはもっておきたいものですね。
そのためにも家族で食卓を囲む機会はもったほうがよいのでは?
家族が囲む食卓にはすばらしい力があると思うのです。
中学か高校の時、国語の授業で百人一首のテストがありました。
学校の先生は、「百人一首くらい知っていないといけない」とおっしゃいました。
「こんなのは常識だから・・・・」
それで出題されたテスト。。。。。
半分もできませんでした。。。。。
普段は苦手な国語でも8割は取れるのに、百人一首はできません!!
理由はわかっているんです。
我が家には百人一首がないから?
いいえ、百人一首をしてくれる相手がいないのです。。。。。
重度知的障害の兄は私よりも精神年齢が低いうえ、言葉や文字をほとんど理解できません。
母は多動で情緒不安定の兄の養育に追われて、とても私の相手をする余裕はありません。
父は仕事や付き合いで家庭的な人ではありません。
ほかに兄弟姉妹はいません。
自然と家庭内では私は一人で学ばなければならない環境が存在します。
結局、私は百人一首と関わる機会が与えられないまま、中学・高校に進んでしまったのです。
もしも兄が健常者だったら、兄からさまざまな知識を与えられたでしょうに・・・・。
もしも私が妹ではなく姉だったら、私は両親から知識を与えられたでしょうに・・・・。
もしも私が百人一首に親しめる環境にいたら、もっと百人一首を楽しめたでしょうに・・・・。
つまり、知識はまず与えられる機会が必要だということを実感しています。
私の場合、ピアノを習わせてもらえたので、ピアノの先生から、学ぶことができましたし、自分の人生にプラスになったと思います。
母は「芸は身を助けるから、習い事はお兄ちゃんの分までさせてあげる」とよく言っていましたが、まさにその通りだと思いました。
ただ、きょうだい児(特に兄や姉が障害児の場合)は、自力で学ばなければならないことが増えてしまいます。
それ故、自力で頑張れるのですが、その反面、どのような知識が転がっているのかということを知る機会が少なくなります。
私は数学(特に幾何学)が得意で文章読解力が低いのですが、これは幼いころに
文字ではなく図形で物事を理解するような環境があったからかもしれません。
もしかしたら、私の子ども時代は知識という点では損したかもしれない・・・と思う今日この頃です。
ある女性の行動がどうしても気になったので書きます。
その女性は見るからに清潔感溢れる美人なんです。
服もシックで清楚な感じ。
年齢は20代後半といったところでしょうか?
その女性は、電車の席に姿勢よく座っていました。
はたから見ていても素敵に見えました。
でも、でも・・・・・
その女性がバッグを開けてから事情が一変しました。
チョコレートの箱を出したかと思うと、金の包装紙をはいでチョコを一粒お口の中へ・・・。
そこまではOKなんです。
なんと彼女ははいだ金の包装紙を指先で丸めて電車の中に捨てるのです。
電車はゴミ場じゃないでしょ!!
そして、また一粒、また一粒。。。。。
次は空箱をどうするのかと思いきや、自分の座っている座席のところに置いて。。。。
それで結局、彼女が降りた後には、座席の上にチョコレートの空箱が残されていました。
座席もゴミ箱じゃないって!!!
兄は自閉症で重度知的障害者ですが、ゴミは必ずゴミ箱に捨てます。
道端や電車の中にゴミをポイなんてことは絶対にしません。
障害者はいかにも社会性がないように言われることが多いですが、兄にはそんなマナー違反はないという ことに気がついたのです。
いったい健常者と障害者の境界線って一体何なのでしょうね?
障害者が差別される前に、マナー違反の健常者が区別されるような社会であってほしいと思ってしまいま した。
毎年お盆になると、両親や祖父母の墓参りに行きます。
そのときに必ず言う言葉は、
「お兄ちゃんは私が守るから安心してくだいね。」
お墓に参るたびに、「お兄ちゃんは元気でいるから安心してね」「私は大丈夫だから」
と呪文のように唱えるのです。
今年も同じでした。
お墓に参るたびに「お兄ちゃんが私が守る」と口走っているのです。
どうしていつもこうなのかと考えました。
祖父たちはは兄が生まれた時にはすでに他界していましたので、兄のことは知りま
せん。
しかし、父も母も父方の祖母も、兄が障害児になったことで心を痛め、兄ことを心残
りにしたまま亡くなってゆきました。
母の兄に対する思いは尋常ではなかったので、母はさぞかし兄のことが気がかりで
あったに違いありません。
ガンで飲食物が通らなくなった体を病院のベッドに横たわらせながら、天井を見上げ
て、「こうちゃん(兄)は今どうしてる?」と、弱々しい声で尋ねるのです。
そのたびに私は「お兄ちゃんは元気でいるから大丈夫!」と母を安心させていまし
た。
でも、病状が進行するにつけ、母は声も発せなくなり、宙をボンヤリ眺めるようになり
ました。
私が「お兄ちゃんは大丈夫だから安心して」というと、母親のそのぼやけた目から涙
がこぼれ落ちたのです。
そして、母の意識が朦朧(もうろう)とした頃には、私は「お兄ちゃんは私がみるから
安心して」というのが口癖になりました。
そして、母の目玉しか動かなくなった頃には、「今までよく頑張ったから、安心したら
いいよ」と母に語りかけるようになっていました。
そんな経緯があったからでしょうか?
父が同様の状態になったときにも、「お兄ちゃんのことは私がみるから安心して」と言
うようになっていました。
そう、私にとって、兄を支えてゆくことは、両親や祖母の“供養”でもあるのです。
それに気づいたのは最近です。
私は誰のために、何のために、兄を支えているのでしょうか?
そんなかすかな疑問を持った私でした。
<私は兄のために兄を支えている?>
<私は両親のために兄を支えている?>
<私は自分のために兄を支えている?>
答えはすべて当てはまるのです。
<兄を大切に思うから支えてあげたい。>
<両親が喜ぶから兄を支えてあげたい。>
<自分が人間としてできるひとつのこととして、兄を支えてあげたい。>
結局、兄を支えることで、私は両親を供養し、自分自身も幸せにしているような気が
するのです。
誰かのために生きることの大切さ、それは自分の生きがいに繋がるのだということ
を、兄を支えていて感じられるのです。
7月29日に参議院選挙がありましたが、皆さんは投票されましたか?
私はこの日に催しのお手伝いがあって時間的に無理なので、「期日前投票」をしてきました。
近くの役所で受け付けていましたが、比較的若い人が多くて、結構にぎわっていました。
おそらく時期的にもレジャーと重なったりして、「期日前投票」をされる方が多かったのではないかと思われます。
さて、今回の選挙で自民党の惨敗が報じられています。
この惨敗の原因は「年金問題」などという声もありますが、私は、選挙前の赤城農水大臣のバンソーコーと、領収書の二重使用問題が惨敗を決定的にしたような気がします。
あれがなかったら、もしかしたらこれほど自民党が大敗しなかったのではないかという気がします。
実際、私はどうしてこのような人が大臣の座にいるのか理解できません。
私は政治に関する知識も少ないので、基本的にはあまり政治のことは口出ししたくはないのですが、赤城農水相のことだけはどうもひっかって仕方がないのです。
赤城農水大臣の対応の仕方は、人間として何かも未熟なものを感じるのです。
そして、何度もこのような大臣をかばい続ける安倍首相の態度にも疑問を感じます。
おそらく安倍首相の感性と多くの国民の感性との間には大きなズレが生じてういるのでははないかと思います。
以前、小泉元首相が安倍首相に「もっと鈍感になれ」と進言したそうですが、安倍首相は自分の立場には敏感でも、他人の心には十分に鈍感な方だと思います。
安倍首相の今までの実績を考えますと、安倍さんはトップにならなければ、すばらしい能力を発揮される方のように見えますが・・・・。
安部さんがサブにいれば、彼のフォローにとって、そこのトップは能力を存分に発揮できるでしょう。
しかし、安部さんはトップになってしまうと、結局、自分がフォローしてあげなければならない人ばかりが集まってしまうのでしょうね。
安部さんは、問題を起こした大臣をかばうという、サブ独特の感性でフォローしています。
もし安倍首相が松岡元農水相をあそこまでかばわなければ、松岡さんは自殺までしないで済んだのかもしれない。。。なんて思ってしまいます。
今度も安倍首相は続投するつもりだそうですが、たしか選挙前には「私か小沢さんかどちらかを選択する選挙」とおっしゃっていたような気がするのですが・・・。
これからの安部内閣の動向が気になるところです。
安部首相には、高齢者・障害者といった弱者のことも忘れないでいただきたいと思います。
そして、年金問題にもっとメスをいれてほしいと思います。
特に年金問題は、時間がたつと年金加入者が死亡してゆきます。
もらえるはずの年金を受け取れないまま死亡された方もたくさんいらっしゃることでしょう。
そんな方たちの年金はどうなるのでしょうね?
亡くなってしまえばおしまいなのでしょうか?
選挙が終わってさらにたくさんの疑問がわいてきました。
「お母さん、ぼくが生まれてごめんなさい」
これってどんな思いで書いたのでしょうか?
ドラマの中では、この詩はお母さんへの罪悪感というよりも、広く社会にこのような現実を知ってほしいという風に描かれていました。
ただ、私には本当に罪悪感のように思えたのです。
というのか、罪悪感だと教えられてきたのです。
こうして周りにいる母や妹の私が、日々傷ついていったのです。
あまり子育てには参加しなかった父でしたが、父も同じ気持ちだったと思います。
父の場合、兄のことを堂々と世間に話していました。し、父の外見が怖かったおかげで(?)、父と一緒の時には、街を歩いていてもあまり言われることはありませんでした。
本当に世間って不思議なものです。
言えそうな相手と思ったら攻撃するのに、相手が怖そうなら黙っているのですから・・・。
こんな風に幼い頃から人間の悪い部分を見てしまうと、どうしても人間不信になります。
そして、相手は「障害=罪悪」に感じているに違いないと思うようになるのです。
何を思ったのか、たまに母は「あんたは全然悪くない。私が悪いのよ」ということがありました。
現代では、障害者をテーマにしたドラマや映画も受け入れられるようになりました。
同情も哀れみほしいのではありません。
おそらく障害者もその家族も自分たちを哀れだとは思っていないことでしょう。
ただ、いろんな国籍があるように、同じ人間として生きているということを知ってほしいだけです。
向野さんが先生のころ、康文さんと出会い、彼の言葉を詩にしていったといいます。
http://www.fujitv.co.jp/fujitv/news/pub_2007/07-173.html
私の兄は知的障害者で障害のタイプが異なっていますが、障害者の家族として、相通じる部分がいくつもあり、私は何度も涙してしまいました。
私が子供の頃うけた体験も重なって改めて障害者と社会との関わりについて考えてみたいと思いました。
年金問題は解決されぬままに国会は終わってしまいました。
せっかくおさめた年金も年金記録がきちんとなされていないために、未納扱いにされている人が続出するという現実に憤りを感じます。
私は兄の住民票を移動するときに社会保険事務所で自分の年金記録も確認していましたので、年金記録が残っていることは確認できました。
でも、不思議に思うことがひとつあります。
社会保険事務所では年金記録を印刷した書類をみせてくれるのですが、決まってこういう言葉が返ってきます。
「この書類はお渡しできないのですが・・・。」
私はこの対応には納得できません。
たしかマスコミで年金記録問題が取り上げられる2ヶ月ほど前にも社会保険事務所で同じことを言われました。
どうして自分の年金記録を書いた紙を渡してもらえないのでしょうか?
私の場合は国民年金なので、できるかぎり一年分一括納付するようにしています。
私のように納付する人の場合、職員さんは明るく対応してくれるますし、あまり待たされることもありませんでした。
でも、年金受給の申請に来ている人たちは長い間待たされて、職員は上からものを言っている光景を何度か目にしています。
それで私は、職員さんに「ここの職員さんが国民年金ですか?」と尋ねたことがあります。
するとこんな答えが返ってきました。
「いいえ、私たちは共済に加入しているんですよ。官と民の間みたいなものです。」
(なんで国民年金じゃないの?)
だから他人事として受け止めているのかもしれませんね。
厚生労働大臣をはじめ、厚生労働省の職員や社会保険事務所の職員はボーナスを返上するということですが、はたしてどれだけの人が返上するのでしょうか?
きっと「自分たちは悪くない」「前任の責任をどうして自分たちがとるのか理解できない」といった不満を持たれているのではないでしょうか?
前任も含め、国民の大切な年金を軽視された方々には責任をとっていただきたいものです。もちろんボーナス返上だけで問題は解決するとは思いませんが・・・。
国会も同様ですね。
「議員年金」についてもおかしいと思いませんか?
「議員年金」の話はいつのまにか年金記録の記載漏れ問題に摩り替えられてしまったような気もします。
自分たちのことばかり考えている人が他人の年金や財産を管理する資格はないと思うのですが・・・。
私はまだ年金受給される年齢ではないので、実際にどれだけいただけるのかわかりません。
でもこれからは日本も超高齢社会に突入します。
それなのにこのような部分でつまづいているなんて、将来が不安です。
このような年金問題に対応する場合には、知識も必要でしょうし、訴える勇気も必要でしょう。
はたして国民のどれだけの人がこの問題ときちんと向き合ってゆけるのでしょうか?正直、不安になります。
私の母は31歳で兄を出産しました。
兄が初めての子供でした。
生まれて間もない頃の兄はとても可愛く、近所でも評判の赤ちゃんでした。
そんな兄を抱っこして歩くたびに、母は周囲の賞賛を受けてきっと自慢の子供だったに違いありません。
親戚もきれいな赤ちゃんだとたいそう喜んでいました。
まさに兄は光の中でこの世に誕生しました。
そんな兄が生死の危機に直面したのは、兄が生まれて半年目だったといいます。
何か悪いものを食べたのかもしれません。
母は、「ヒ●タ」のシュークリームの中に入っているカスタードクリームを父が兄に舐めさせたことで、兄が下痢をして脱水症状を起こし高熱を出したのだと思っていたようでした。
父は父で兄は偶発的に病気になってしまったと信じていたようです。
どちらも兄がこんな酷い目に遭うなんて信じたくなかったのだと思います。
もしかしたら父の舐めさせたクリームが原因なのかと、私も幼い頃は母の言葉を信じていましたが、これも兄の宿命だったのではないかと今は思っています。
兄が入院して1週間がたちました。
高熱のために兄はずっと昏睡状態が続いていたのです。
まさに生命の危機に直面していました。
医師からはいつ亡くなっても不思議ではないといわれ、たとえ助かっても高熱のために脳に障害が残るといわれました。
そして、その医師の言葉はピタリと的中しました。
兄は生命は助かりましたが、脳細胞が壊れてしまったのでしょう。
兄は重度の知的障害を持つことになりました。
言語障害のためにバナナは「バババ」としか話せません。
そんな兄は子供の頃から多動で5分もじっとしていればいいほうで、常に動き回っていました。
癲癇も持っていますので、医師から安定剤などの薬を処方されいます。
多動で疲れ果ててしまったからなのか、薬の影響なのかわかりませんが、薬を飲んで1時間くらいすると兄はぐったりと眠りこんでいました。
そんな兄を毎日見ていて、きっと兄は薬がないと生きてゆけないだと思っていました。
なぜなら兄はいつも決まった時間帯に服薬していたからなのです。
薬の管理は母がきちんとしていました。
だから時間がずれることはめったにありませんでした。
これは今でも忘れられない思い出です。
ある日、母は用事があって、帰宅が服薬の時間には間に合わないので、私に兄に薬を飲ませるように頼んで出かけたことがあります。
私は兄と一緒の留守番を快く引き受けました。
母も安心して出かけていったと思います。
母がいなくても、兄はいつものように外で飛び出したり、何か食べるものを探しまわっています。
家の中にいても走り回ったり、奇妙な動きで体操かダンスのようなことを繰り返しています。
たまに気が向けがテレビのコマーシャルを夢中でみています。
たとえきょうだいであっても、兄の言動は理解しにくいことは多かったです。
夕食の時間が来ましたから、兄に夕食を食べさせるために一緒に夕食をとりました。
夕食後もいつものように普通に生活をしていました。
「ご飯さえ食べさせておけば大丈夫!」
そんな安心感があったからでしょうか。
私は兄に薬を飲ませることをすっかり忘れてていました。
今まで元気よくぴょんぴょんはねまわっていた兄が突然倒れたのです!!
そして兄は口から泡を吹いて全身を震わせていました。
これは兄が癲癇を持っていたからだと後から知りましたが、当時の私はそんなことは知りませんでした。
兄は倒れてあたふたしている私に救いの神が舞い降りたのか、ほどなく母が帰宅してくれました。
急いで帰宅したばかりの母に兄のことを伝えると、母は顔色を変えて兄のところへ走ってゆきました。
母は兄を抱え、兄の名を叫びながら、必死で意識を回復さそうとしていました。
看護婦だった母は、幸いにも処置の仕方を心得ていて、てきぱきと対応し、兄に薬を飲ませて兄の意識をもどしました。
薬が抜けてただけであんなに簡単に倒れてしまうなんて・・・。
あの時はじめて、私は兄はなんてもろい存在なのかということを知りました。
そして、薬の重要性を知ることとなりました。
ただ、母は「お薬は体に蓄積してよくないから本当はお薬は飲ませたくないけれど、お薬を飲まなかったら、お兄ちゃんは興奮がおさまらないし、こんな風に倒れてしまうの」と言っていたのと覚えています。
また、障害者の多くは長生きしにくいと聞いたことがあります。
その理由の一つは長年にわたって薬を服用しているからだといいます。
ちょっとしたことなのに、実は大変なことを招いていることってあるのですね。
子供の私にはわからないことが沢山ありました。
兄の存在も兄の障害も兄の扱われ方も・・・。
大人になっても、それこそ両親が亡くなって本格的に兄の親代わりをしている現在であっても、母親以上に兄を理解することは難しいです。
どんなに頑張っても私は「障害者のきょうだい」なのです。
ただ支えあげることしかできないのです。
もしかしたら、それは子供時代から変わっていないのかもしれません。
私が生まれた頃、兄は2歳でした。
たとえ健常児であっても2歳といえば手のかかる時期です。
兄の場合、普通の子供よりもはるかに多動で少しも目を離すことができなかったといいます。
実はそんな兄もこの世にいなかったのかもしれないのです。
兄は生まれ半年頃に40度を超える高熱と下痢により入院しました。
病院で医師から両親に告げられた言葉は・・・
「高熱のために脳細胞が破壊されてたとえ助かってもお子さんに障害が残るかもしれませんが・・・。」
つまり障害児になってしまうが、どんなことをしても生命を救うべきかということを医師は尋ねているのです。
両親はたとえ障害が残ってもいいから、この子の命を助けてほしいと懇願したそうです。
そして兄は1週間近く生死をさまよった後、危機を脱出しました。
ある占い師から一度死にかけた人はその後の人生は強運だと聞いたことがありますが、兄の場合、とにかく体が丈夫です。
中年だというのに、生活習慣病やらメタボリック症候群とは無縁の健康体です。
兄は自閉症で重度の知的障害がありますが、すごく勘が良くて、周囲の人の心理を読むのが得意です。
言語障害があり、単語しか発せません。
文字の読み書きもできません。
たし算もできません。
でも、勘の良い兄をだますことは難しいとよく聞きます。
学校時代(小・中・高)は先生からも、施設入所後は職員さんからも、兄にはその場しのぎの嘘など言えないそうです。
兄は記憶力がよくて「明日(もしくは明後日)●●してあげるから、待っていなさい」というと、兄はきちんと覚えていて、その日まで待っていて、もしもその約束を守らなければ大暴れするそうです。
また、兄はたいていのことは自分でできます。
食事も服の着替えもトイレも入浴も自分一人でできます。
完璧ではない部分も多いのですが、一応形にはなっています。
ですから、その点では手がかからないかもしれません。
ただ、障害者自立支援法の区分判定においては、この点で兄は非常に不利なんですね~。
特記事項や医師の診断書等で事情をわかってもらわないと困るのですが、兄は目を離すと何をするのかわからないところがあります。
周囲の利用者から何かを言われたりされたり、虫の居所が悪かったりしたら、大暴れして、突拍子もない行動をするのです。
器物破損も何度かやってきました。
施設に入所して間もない頃、玄関ドアの大きなガラスを蹴って破壊して、施設からガラス代10万円請求されたこともあります。(当時は損害保険というのはなかったので・・・。)
というわけで、こんな兄はいつも問題児でした。
これは存在を認めてくれている証拠でもあります。
でも、母方の親戚は問題にもしてくれません。
兄が何かをするのが問題ではなくて、兄がいることが問題なのです。
母が兄を産んだ頃は、きれいな赤ちゃんだった兄は親戚から喜ばれました。
近所でも評判の可愛い赤ちゃんだったのです。
ところが障害児とわかるやいなや、状況は一変したのです。
母方の親戚からは存在を消されてしまったのです。
実は母方の祖母は非常に家柄にこだわる人で、自分の血筋の者に障害者が生まれるなんて何かの間違いだと言い張りました。
そして、100歳を超えて亡くなるまで兄の存在を認めてくれませんでした。
そんな祖母の考えかたは母のきょうだいにも伝わっていました。
おかげで私は、母方の親戚の家にいるときには「一人っ子」ということになっていました。
現在は母方の祖母も亡くなり、母の姉妹であるおばたちが残っているだけですが、そのおばたちはいまでも「あの時死んでくれたらよかったのにね~」としゃあしゃあと話します。
まるで兄は生まれてくるべき人間ではなかったといわんばかりです。
不思議なことに、そのおばたちは元医療関係者(しかも有能で賞もいただきました)で死に直面する患者や家族を思い遣る立場で社会に貢献してきた人たちなのです。
他人にはあんなに優しいのに、障害をもつ甥にはなんと冷たいのか・・・・。
結局、障害者の親戚って、こんなものなのかもしれません。
なかには、理解ある方もいらっしゃるでしょう。
しかし、私の身近な障害者のお母さんたちに伺った話では、親戚ほど残酷なものはないといいます。
でも、兄はこの世に生まれてきました。
両親の願いが届いたのか、無事に生還し、今では生命力に溢れています。
すでに両親は他界してしまいましたが、兄は私たち家族にさまざまな問題を提示し、私たち家族に人生というものを深く考えさせてくれました。
いわば兄のおかげで人の命の大切さとか心の問題について深く考える機会を与えてもらえたのです。
そんな家族の中で育った私は、幼い頃から、人間の美しいところも醜いところもいっぱいいっぱい見てきました。
どこかで人間が恐ろしくあり、人間とはいいものだと思い、人間の生きる意義について幼い頃から考えてきました。
ところで、障害者家族はどこか宗教的な思想をもちやすいのか、人の道であるとか、悟りに近い考え方とする傾向があるのかもしれません。
私たち家族も、悲しみに遭遇するたび、人の道というものを考えさせられてきました。
それは兄がいたからできた経験でしょう。
もし兄が障害児でなければ、私はきっと冷たい人間になっていたことでしょう。
兄は悲しみと同時に喜びも与えてくれる存在なのです。
親戚にとって兄は“闇の存在”であっても、私たち家族にとって“光のような存在”です。
兄は生まれてきたことでさまざまな課題を提起し、そのことで関わった人たちを成長させてくれたのではないでしょうか。
私も兄を関わることで人生の幅が広がったと思います。
兄が生まれてまもなく障害児になったことには非常に意味があるのです。
兄は昨日も今日も明日も、誰かに何かを教えてくれているのです。
堺市の浅香山浄水場のつつじの通り抜けが始まっています。
平成19年4月21日(土)~4月30日(月・休)
開花情報はこちら
約2000本のヒラドツツジは、人の背丈をはるかに超えています!
はじめて通り抜けに行った私はびっくりです。
写真のように群生しており、人間が小さく見えま~す。