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今だから話そう~障害者のきょうだいとして生きて~

自閉症で重度知的障害者の妹として経験した事、感じた事、そして今だから話せる亡き両親への思いを書いてゆきます。

入学祝いは“健常児”の証? ~小学校の頃~

2006-08-20 15:35:39 | 兄が障害者と知って

当時は何も思わなくて、何も感じなかったことなのですが、最近になって、兄がいかに無視され続けていたのかを感じます。

これは私が小学校に入学したばかりの時のお話です。

私は母の一番上の姉である伯母から、入学祝いをいただきました。
伯母さんは私のことは可愛がってくれていたそうです。

私が
幼い頃、伯母が「お泊りに来なさい」と言ってくれたので、兄のことで手をとられていた母は、伯母の家に私を預けたことがあります。
伯母は喜んでくれたのはいいのですが、私が家に帰りたがってずっと泣いていたのにはほとほと困ったと聞きます。

そんな伯母は私を可愛がってくれました。
入学祝いにはディズニーの目覚まし時計をいただきました。たしかシンデレラだったと思います。

ほかにも私は、入学祝いというものは何度かいただきました。
一番すごかったのが、教師を退職した父方の伯母が、退職金の一部から入学祝いだといって50万円くれたことでしょう。
後から聞いた話ですが、伯母の子供たちがその「退職金で家1軒買えるのに!」って怒っていたそうです。なにせ退職金のすべてを自分の孫だけでなく、甥や姪にも分けてしまったのですから・・・。

こんなふうに、私は何度か入学祝いというものをいただいてきました。

その反対に、兄には一度も入学祝いはいただけませんでした。

そう
「こんな子に何をあげても意味がない」という感覚が、親戚たちにはあったのでしょう。
50万円くれた伯母さんも、「あんたのお兄ちゃんはいらんやろ?」って聞いてくるのです。

たぶん兄にお祝いのようなものをくれたのは母の親友くらいなものだったでしょう。

私の記憶を辿っていくと、兄が人生で初めて生命を否定された瞬間は、親戚たちからもたらされたような気がします。
もちろん世間からもさまざまな偏見を持たれていたでしょうが、それは一瞬でしかありません。
親戚のように深く長くつきあう関係において、その偏見は残酷さを増します。

幸いなことに、いとこたちが、障害者のいとこがいることで結婚に支障があったとは一度も聞いていません。親から親戚に障害者がいることを知らされていないいとこもいましたので、隠されていたから関係なかったというのが真相でしょう。


また、兄のことを
知っている親戚は皆同じことをいいます。

「あんたはお兄ちゃんとは違うからね。
「お兄ちゃんと違って
普通の子やから」
「お兄ちゃんみたいになったらあかんよ。」

そんなことを話す時の顔が、子供ながらに怖かったです。

何か大人のどろどろとした世界をいち早く見せつけられたような気がしました。
小学校に入った私にとってさらに親戚たちは脅威の存在へと変わっていったのです。



最近、兄のことをブログに書き綴るたび、いかに兄が差別されてきたのかということを感じます。

子供の頃のことを思い返すと、兄には入学祝いがなかったのは、普通の学校に入学できなかったから、「祝う必要はない」ということなのでしょうか?

もしかしたら、入学祝いは「健常児の証」なのでしょうか?

こんなに排斥されてきた兄を可愛がり、私よりもはるかに多くの愛情を注いできた母の心情が、ちょっぴりわかるような気がします。


生まれて初めての衝撃 ~小学生になって~

2006-08-19 15:13:42 | 兄が障害者と知って

私は小学校入学とともに、「鍵っ子」になりました。
当時「鍵っ子」といえば、お母さんが昼間仕事に出ているので、家に帰っても誰もいない子のことを指していう言葉だったようです。
私の場合、兄の通う養護学校の送迎バスの時間が私の下校時刻より遅かったので、自分で玄関の鍵を開けて家に入っていました。
そういえば母は私に鍵を渡す前、私が幼稚園の頃から、さりげなく私の鍵の開け閉めを練習させていました。
家に帰りますと、いつもこんなメモが家族が集まる和室のちゃぶ台の上においてありました。

「○○ちゃんへ
れいぞうこにおやつがはいっているから、たべておきなさい。    ままより」

おやつを食べて1時間程待っていると、母と兄が帰ってきます。
兄はおやつを食べている私を見て、それを欲しがり、私から取り上げようとします。
私が嫌がると自分のおやつを必死で探し回るのです。
戦争の始まりです!!
そしていつものように家の中は「喧騒の世界」へと変わっていくのです。
テレビの音、兄がバタバタと家の中を走りまわって暴れる音、時々発される兄の奇声、そんな兄に注意する母の声・・・・。

「宿題したの?」
「宿題してから遊びに行きなさい!」
「は~い」

宿題を終えて、近所の仲良しのS君に家に遊びに行きます。
S君は家に帰るとすぐに、ママが待っててつきっきりで勉強を教えてくれるそうです。
だから、S君の家に行くと、いつもS君のママが

「今、勉強中だから、もうちょっとしたらまた遊びに来てね!」
なんてことも珍しくありませんでした。
私は、ママにべったりされているS君が羨ましかったけれど、S君は母からあまりかまってもらえない私のことが羨ましかったようです。

そんな小学生活を送って間もない頃でした。
入学して1~2週間たったころでしょうか。小学1年生はお母さんたちが迎えに来たりする子や年上の人たちと一緒に帰る人も結構いましたが、私はお迎えもないので、一人で帰っていました。
すると、

ゴツン!

頭に何か当たるのを感じて、後ろを振り返りますと、男の子たちがこっちを向いて笑っているのです。
そして、振り向く私に言いました。

キチガイノイモウト~!

私は何のことかわからず再び歩き出すと、また石を投げ続けてきました。

「お前の兄ちゃん、キチガイやろ~!」

その男の子たちは調子に乗ってはやし立てます。

私はまだその時、兄が障害者であることにはまだ理解していませんでした。

また、「障害者」というものの意味がよくわかっていませんでした。

だから、彼らに石を投げられたことも、「キチガイノイモウト」と呼ばれたことも、すべて事情が読めなかったのです。

でも、「キチガイ」・・「イモウト」・・その言葉から、兄が「病気の子」だから、意地悪されたのだと思いました。
私の心はすごく傷つきました。
その日、母にそのことを話しました。
すると母の顔がみるみる青ざめていきました。

母はすまなそうな顔で私に言いました。

「いいか?あんたは悪くないの。」
「皆から何を言われても気にしたらあかんよ。」
「兄ちゃんは、好きで病気になったわけやないし、キチガイとちがうのよ。」
「だから、あんたはそんなもの気にしなくてもいいのよ。」
「今度、また何か言われたら、ママが文句いってあげるから、頑張るのよ。」

今まで兄の子育てに追われて兄のことばかり心配していた母が、はじめて妹の私に関わろうと、兄を放り出した瞬間でもありました。

「○○はママが守ってあげるからね。」
「二人ともママが命がけで守ってあげるからね。」
「だからしっかりしなさい。」

そう言って、母は私の頭をなでてくれました。
初めて母親の愛情を実感した瞬間でもありました。
とはいっても、それは兄の足元にも及びません。
でも、母が私にも目を向けてくれたという喜びで、私は涙がこぼれていました。
「こら、泣き虫!」
母は私のおでこに軽く突いて頑張れと励ましたのです。


母の話を重ね合わせていくうちに、兄が「普通ではない」、何か世の中で「特殊な存在」であることはわかり始めたのです。

また、兄は「世間から後ろ指をさされる」存在であることも知ったのです。

その日から、私は本能的に兄を隠したほうがよいのだと思い始めたのです。


障害者の兄は病気の子? ~幼い頃感じたこと~

2006-08-18 20:30:35 | 兄が障害者と知って

私の母は、兄と私を「分け隔てなく育てた」と言っていました。
しかし、それは嘘だと思いました。
現実はそうではないのですから・・・。

例えば、兄が悪さをしても軽く注意するだけなのに、私が同じことをすると母は真剣に怒ったのです。

「どうして私だけこんなに叱られないといけないの?」

子供ながらに思いました。

でも、兄は私よりも理解力がないし、私が幼稚園の頃でも、兄は私よりはずっと子供でした。ですから、兄のことは弟のように思って、兄が私より劣っていることを納得していたのです。

幼稚園時代は兄のことで手をとられていた母は、保育所や幼稚園の遠足にも一緒に来てくれませんでした。同級生のお母さんは私の母親代わりになっていつも私のお守りをしてくれたのです。

友達がうらやましかったですね。

それで、いつも兄が「
特別扱い」されるのが、普通だと思うようになっていきました。

幼いころの私は、いつも母の後ろ姿しか見れませんでした。

外出の時はいつも、母は兄の手をつないで、幼い私は背中におぶられていました。
私が少し大きくなって兄と並んで歩くようになっても、母は兄と手をつないでいるほうが多かったのですね。

私は兄に比べれば、ほとんど母と手をつなぐことができないまま成長していきました。

ですから、好むと好まざると私には早期に大人にならなければならないという自覚が生まれてきたのです。

「子供のころは早く大人になりたい!」

いつもそんなことを考えていました。

「兄は病気の子」

母はそういって、私と兄は平等なのだと教えてきました。

いつも母は言ってました。

「強いものに強くあれ。弱いものに弱くあれ」

私が幼児の頃にはその意味はわかりませんでしたけど、弱者である兄のことを「守ってほしい」という思いから、そんなことを言っていたのではないでしょうか。

今更言っても仕方がありませんが、兄が母親を独り占めにしていたのは、子供心に寂しかったですね。