今だから話そう~障害者のきょうだいとして生きて~

自閉症で重度知的障害者の妹として経験した事、感じた事、そして今だから話せる亡き両親への思いを書いてゆきます。

障害児の父の姿に想う

2006-09-28 20:06:51 | 障害者の親

私の父は、仕事や付き合いを優先して、あまり家庭的な人ではありませんでした。
また、障害児の兄が興奮して暴れるたびに、兄を叩きました。
そんな姿がいやで、私は父のことが大嫌いでした。

ですから、思春期には父とはいつも緊張関係にありました。
一発触発状態と言ったほうがいいかもしれません。
そんな親子でしたから、私が結婚後も、夫の目の前で父と喧嘩になることも珍しくありませんでした。
父は夫のことを息子ができたみたいに、一緒に話すのを喜んでいましたし、夫は夫で父が私の悪口を言うのを面白がっていたようなのですが、本当に仲が悪かったんです。


でも、こんな父を尊敬することがあります。
それは、父は障害児の父親であることを公言していて、恥とは思っていなかったことです。
当時、障害児といえば、「シンショウ」とか「ヨウゴ」と呼ばれて、現在ほど障害者に対して世間が理解を示してくれるような時代ではありませんでした。
障害児を抱えてそのことを悔やんで母子心中したという話も珍しくなかった時代です。
そんな時代に、父は兄のことを堂々と話していました。
父は何度かヘッドハンティングで転職しましたが、そのときにも障害児の息子がいることを公言し、転勤がないことを条件にしていたといいます。
どうも兄と離れるのがさびしかったらしいのですが・・・。

こんな父は、どのような境遇の人に対しても平等でした。
相手は大金持ちであろうが貧乏人であろうが、国籍が違おうが戸籍がどうであろうが、全く気にする人ではなかったのです。
たしか、子供の頃、人権教育で「国籍や戸籍などで人を差別してはいけない」と習ったと思いますが、そんなことは我が家では当たり前になっていたのです。

ただ、母の実家が名士の家柄で、母の親きょうだいがそれを自慢するので、母に「お前の親きょうだいはおかしい」と言っていました。
(そのおかげで、障害児の兄はいないことにされてしまったのですが・・・。)

父は黙っていましたが、家族を愛していたのだと思います。
父はとっても不器用でしたが、本当に意味での優しさを隠していたのでしょう。


こんな父は数年前に亡くなりました。

父には言えなかった言葉がひとつあります。


ありがとう、お父さん・・・・


 

親きょうだいのことを書いています。
http://blogs.yahoo.co.jp/sayakayamase


亡き母へ ~障害者のきょうだいの想い~

2006-09-26 01:59:46 | 徒然日記

うちの母はものすごく我慢強い人でした。
何でもギリギリまで我慢してしまう癖があって、大病ばかりしていました。
若い頃はひどい盲腸炎で死にかけ、事故に遭っては死にかけ、ついには再生不良性貧血という白血病の一歩手前の病気になってしまいました。
最後は腹膜が破れて入院したはずなのに、そのための手術で母のお腹を開いたら、末期の大腸ガンが発見されました。
「2週間の命です」
結局、医師の宣告から4ヶ月後に母は亡くなりました。
・・・・私は思いました。




「亡き母へ」


どうしてしんどいことをすべて一人で抱えてしまうの?
 私がそばにいて聞いてあげたでしょう?
それでも言い足りないくらい、お母さんは大変な目に遭っていたんだもの・・・。
自分の親きょうだいにも頼れず、誰にも言いたいことも言えず・・・。
 だから、病気になってしまったのですね。

私が小学生だったある日、私は見てしました。
母が声をあげて泣いているのを・・・。
そのそばで兄が機嫌よく飛び跳ねていました。
私に気づくと「ごめん」と言いながら、母は私に微笑みました。


お母さん我慢しなくてもいいのよ。

泣きたいときには思い切り泣いてほしい。

素直な気持ちで私に接してくれたらいい。

子供だから言えなかったけど、

子供だから言えなかったけど・・・・。



本当はお母さんにはあまり我慢してほしくありませんでした!

弱虫でもいいから、ただ長生きしてほしかったです!

無理して自分の命を削るような生き方はしてほしくなかったのです。


今、私はお母さんと同世代の方と出会うたび、お母さんが生きていたらこんなふうになるのかと想像 しています。

子供のために生きて、そして亡くなってしまったお母さん・・・。



あなたの人生っていったいなんだったのですか?


あなた自身の幸せって、


 どこにあったのですか?

 

 

 

 

親きょうだいのことを書いています。
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親にはなれないけれど・・・

2006-09-18 05:54:06 | 親亡き後の生き方

昨日、兄の施設の面会日でした。
私はいつものようにお菓子と缶コーヒーを持っていきました。
お菓子はドーナツです。
私の体調が悪くて、午前中に行けなかったので、結局、施設に着いたのがすっかり日もくれていました。
施設では夕食の支度をしていました。

面会日には決まって、兄は外で待っています。
昨日もそうでした。
可哀想に、朝からずっと外で待っていたようです。
さすがに夕方にはいませんでしたが、お昼頃までずっと待っていたそうです。

それから、周囲の人に「イモウト、イモウト」と聞いてまわっていたらしいです。
話ができるほかの利用者さんから、「ずっと待ってたよ。僕にも聞いてくるねん。」って言われてしまいました。

台風が迫っていて、あいにく天気も悪くて、どんより雲のなかを兄は不安な気持ちで私を待っていたのでしょうね。

でも、兄が待っていたのは、私ではなくて私が運んでくるお菓子なんです。

兄は私のカバンとお菓子の入った袋を奪い取るやいなや、外へ出る準備をしました。

そうです。お散歩と称して外でお菓子を食べているんです。(※もちろん内緒で)

施設内では他の利用者さんへの影響もありますので、こっそりお菓子をあげることにしているんです。

兄は私ではなく、お菓子を待っているんだと思うんです。


私を頼りにする理由・・・それはお菓子を食べたいから・・・。


でも、仕方がありません。

兄の楽しみは食べることだけなのですから・・・。
生前、母も同じようにお菓子をあげていましたから、兄はそれが当たり前だと思っているのでしょうね。

こんな子どものような兄を放ってはおけません。

でも、私は母と同様のことをしても、親にはなれません。

せめて兄の成年後見人になって、兄を守ってあげることぐらいしかできません。



実は、両親が倒れてから、親戚は、手のひらを返したように長男である兄の存在を無視し続けています。




今でも忘れられません。

父の葬儀の時に、差別意識の強い親戚たちに向かって、私はあえて兄のことに触れました。
私は親戚たちに「兄のことも忘れないでほしい」と言いますと、親戚たちは非常に不快だといった顔をしました。
「なんであんな子の話を聞かされないといけないのか!」といった冷たい目・・・。

親戚たちの心の中には兄は存在しないのです。
さっさと消えてほしい存在なのです。

私が若かったせいもあるでしょう。
親のようにはいきません。
親戚たちは兄との縁も切れたくらいに思っているのでしょう。


別に兄のことを看てほしいのではありません。
ただ、両親が兄を残して亡くなっていった後悔の念を考えますと、兄の存在だけは認めほしかったのですが、それはなりませんでした。

私は兄の親にはなれないけれど、支えてあげることはできるでしょう。

もし私が兄より先に死んでしまったら?

・・・・考えないことにしましょう。

ケ・セラ・セラ!


少しずつ・・・少しずつ・・・

2006-09-17 03:22:15 | 親亡き後の生き方

はじめて臨終に立ち会ったのは父方の祖母の時でした。
祖母は入院三日目で亡くなり、それまでは伯母が祖母の介護をしていました。
そのとき、泣いていた母が、四年後に亡くなってしまいました。末期の大腸ガンでした。
私と父が母の最期を看取ったのですが、母の存在の大きさに私は何日も泣き暮らしていました。もう悲しくてたまらなかったです。

障害を持つ兄の世話は母が中心でしたので、兄のこれからを考えるとどうしようかと悩んだことも一因です。
なぜなら、兄は母にべったりだったからです。

当時、すでに兄は施設に入所しており、将来の生活の場を一応確保することはできていました。実質上、特に心配はありませんでした。
ただ私が一番気になったのは、
「母が亡くなったという事実を兄が理解できるのか?」
それだけでした。

母が入院してからは、兄の面会には私や父が行っていましたが、兄は母が来ることを望んでいました。ですから「ママ、ママ」と言う兄を納得させるのが大変でした。

果たして私が母に代わって「兄に関われるのか?」ということも何よりも心配だったのです。兄は何かあると興奮して施設内で暴れて、ものを壊したり、他の利用者さんを叩いたりしていましたから・・・。
正直、不安でした。

そのような状態でしたから、私がいくら子どもの頃から兄育て(?)をしてきたと言っても、母の足元にも及ばない存在で、自信もありませんでした。

そんな経験から、私は父が入院してからは、兄を父に会わせることにしました。
母に比べれば父は兄との関わりは少なかったのですが、父が死に向かってゆくようすを、少しずつ兄に実感させたかったのです。
母の死が兄にとってはあまりに突然だったので、兄は混乱していたようでした。
ですから、もうそんな思いはさせたくありませんでした。
そのおかげか、兄は母が亡くなったときよりはすんなりと父の死を受け入れているように見えました。

両親を亡くした現在では、兄は私が面会に来るのを待つようになりました。
少しずつ、少しずつ、兄も理解してくれたのでしょう。

結局、こんなことしかできないのですね。

私は私なりに少しずつ少しずつ兄にしてやれることはしてやろうと思います。


兄の保護者としての私

2006-09-07 23:00:51 | 親亡き後の生き方

母が亡くなったのは、私が27歳の時でした。
当時、兄は30歳。すでに施設に入所していました。

私の場合、小学生の頃からの母と分担して兄の日常の世話をしていましたから、実質上、子供の頃から兄の保護者みたいなところもありました。

実際は、母が入院した頃から、兄の面会や書類の手続きはすべて私がしていました。
私の場合、高校生の時に家の経済も兄の支え方も母親から伝授されていましたので、母が倒れてからも兄のことはすべてすんなりとやっていけました。

父が兄の手続きや面会に本格的に参加するようになったのは、私が結婚してからでしょう。

その後数年で、父も体調を崩して、私が再び兄を支えるようになりました。
その時には夫も加わって兄を支えるようになったのです。


私は生まれた時から兄を支える運命にあったのだと思うことがよくあります。

母は、私が物心ついた頃から、「私が亡くなったらお兄ちゃんを支えてあげてね。あなたはきょうだいだからね。お兄ちゃんは可哀想な子だからね。」と、いつも話していました。

私にとって、これはかなりのプレッシャーになりました。
兄がいることで自分の人生には兄という「足かせ」が存在するのだと思うようになりました。

子供心に確かに悩みました。

しかし、これは私にとって逃げられる運命ではないのです。
この運命を否定しては私自身を否定することにもなりかねません。

ですから、私は積極的に兄をささえてやろうと思うようになりました。
「私がいなければ兄は安心して生きてゆけないだろう」
そう思わされるような人生経験を重ねてゆきました。


最近、「きょうだいは別だから」といって、健常児と障害児を別に育てるご家庭があるようですが、それはいかがなものでしょうか?

確かに健常者にとって障害者のきょうだいは少なからず人生の妨害になります。

しかし、彼らが何をしたのでしょうか?

彼らも本当は健常者のように自分の人生を自由に選択したいし、さまざまな事に挑戦したいはずです。
しかし、障害によって、身体機能や自己表現に支障が出ているために、好むと好まざると狭められた人生を歩んでいるだけなのです。

健常者が障害をもつきょうだいと関わらなくてもいいとは思いません。

どうして家庭内で世間や学校と同じように線引きされなければならないのでしょう?

たしかに障害者のきょうだいを支える側はしんどいです。
でも、関わりを絶つというのは問題だと思うのです。
親亡き後は、きょうだいが支えてあげるべきだと思うのです。
親が、健常者のきょうだいに負担をかけたくないという理由で両者を分けることは、極端に言えば、迷惑をかける家族は捨ててもよいという理論に発展しかねません。

私は、障害者のように自己選択を狭められた家族の可能性を広げてあげることも家族の役割だと思います。
また、それによって自分自身の可能性を広げてゆけると思うからなのです。


正直な気持ち ~知的障害者の妹として~

2006-09-06 06:59:18 | 障害者の妹だから

私は、自分が何のために生まれてきたのか、幼い頃から悩み続けてきました。

なぜなら、兄が兄でなく、弟のような存在だったからです。
普通、兄といえば、自分より年上でリードしてくれる存在で、兄から何かを学ぶことができるものでしょう。

ところが、私の兄は重度の知的発達障害で、私よりも発達段階が下なのです。
私が一方的に兄を指導するようになります。
しかも、兄のほうが力が強いので、兄が興奮するたびに年下の私めがけて攻撃してきます。

普通なら、攻撃した側を叱るのが親なのですが、母は兄に注意はするものの、兄を興奮させた私が悪いと叱るのです。
私が兄の理不尽な行動に対して注意したら、それで兄が怒って私を叩いてきたのです。
本来ならば、兄が叱られるほうではないかと思います。
しかも、母ははどう考えても兄の方をひいきしているように見えます。

こんなことが続いたら、私は何のために生まれてきたのか子供ながらに悩みます。
母にすれば兄は可哀想な子供だったかもしれません。兄に愛情を注いでやることで、兄の人生をより恵まれたものへと変えたかったのかもしれません。
しかし、妹である私には、それは残酷なことだったのです。


先日、私と同じようにお兄さんが知的障害者である女性とお話しました。

彼女も私と同じような思いをしていたことがわかりました。


「どうしてお兄さんに母親の愛情を奪われなければならないのか?」

「お兄さんは許されてもなぜ私は許されないのか?」

「お兄さんに比べればはるかに母親とのスキンシップが少ない。」

「障害者のお兄さんがいることで、子供の頃さまざまな偏見を受けた。」

「何度も死にたいと思った。」


それから、私は両親も亡くなり、兄のことを子供の頃から世話を焼いてきましたので、母親のような気持ちで兄のことを見ていますが、彼女が私ほどお兄さんの世話を焼いていなかったようでこんなことを言いました。

「母親に愛してもらえなかったのに、どうして母親の愛情をたくさんもらったお兄さんの世話をしなければならないのか?」

「どうしていつも自分は損な役回りしかさせてもらえないのか?」


彼女の場合、お母さんが現在療養中で、自分は子育てに追われています。
それゆえ、しんどいという気持ちも大きかったと思います。

私も彼女も共通しているのは、子供の頃から、我慢し続けて生きてきたということです。上のきょうだいが障害児なので、幼いころからわがままも言えず、また、自分が損するのが嫌で道を外れた行動をするのも抑制して、結局はいい子でいてしまう。そのため大きなストレスを抱えているということでした。

私の場合、夫の理解があって、現在は好きなことをさせてもらっていますけど、彼女の場合、外に出て仕事したり楽しみたいと思っても、夫や自分の母親から反対され、我慢し続け「もう爆発寸前!」という感じなのです。
彼女は「何もかもすべてを放り出してしまいたい」とも語っていました。

障害者のきょうだいについて書かれた本でも、上のきょうだいが障害児の場合、下のきょうだいは鬱傾向があると述べられています。
そして、上が障害児と下が障害児との場合では、上が障害児であるほうが、影響は大きいみたいです。

やはり、「三つ子の魂百まで」ではありませんが、上に障害児のきょうだいがいることで、乳幼児期に母親とのスキンシップが減少してしまうことや、母親の意識のほとんどが障害児に向かっているということも一因かもしれませんね。

私は子供の頃、何度か死にたいと考えた事がありますが、母親の愛情を実感できない環境にあったために、自己否定をする癖がついていたのかもしれません。

幼い頃の私の機気持ちを書いてみました。