先日、兄を外食に連れて行きました。
兄にとっては最高の一日だったかもしれません。
しかし、それは同時に私には悪夢の一日でもありました。
その日、兄は落ち着きがありませんでした。
今日は外食できるのだと楽しみしていたからだと思います。
ただ兄は常に朝から興奮状態で雲行きもあやしかったのです。
でも約束を果たさなければ、その後の災難につながると思い、外食に連れてゆきました。
案の定、兄は私や夫の制止を振り切って行動してゆきます。
好き放題に行動します。
お店でも同様でした。
幸い衛生面ではお店にもご迷惑をかけてはいないのですが、ほかのお客さんは兄の言動に驚いていました。
職員さんと一緒ならば、こんなことは避けられるのに、家族だけだと兄は自分の思い通りにしてしまいます。
私がどんなに説得しても、外食に行きたいという自分の思いを何よりも重視し、私の手を強引に引っ張っていこうとします。
送迎の関係で車がすぐに来ませんでした。
そして外食がすぐに実行されないと知った兄は私の背中を思い切り突き飛ばしました。
すごい力で突かれた私は、道にあるガードレールにつかまって難を逃れましたが、一つ間違えば坂道で転倒して危うく大怪我を負うところでした。
きっとほかの利用者にもこんなことをしているのだろう・・・。
そう考えるだけで背筋がぞっとしました。
子供時代、兄が興奮してそれを制止した私の背中を思い切りたたきました。
たたかれた私は息が苦しくてしばらく横たわっていました。
そんな辛い経験がありますが、ついそれを思い出してしまいました。
私にとって兄は天使のようにとてもかわいい存在でありますが、興奮すると悪魔のように歯止めがきかない存在でもあるのです。
本当に複雑です・・・。
もし両親のどちらかが生きてくれていたら、兄もここまで自我を通すこともなかったと思うのですが・・・・。
兄は私が妹だということで、私の言うことには従わない傾向があります。
特に外食の場合、その傾向が強まります。
先日の外食は兄が興奮して制止不能の典型的なパターンでした。
私は二度とあのお店には行かないと決めたのでした。
それしか兄をおさめる方法がないのですから・・・。
やっぱり私にはできることはしれているのだと実感した出来事でした。
すっかり自信を失ってしまいました・・・・。
施設に兄が入所しているため、私は兄と同居していません。
そのため、私と兄の住民票は違う自治体に属しています。
そして、私は「現況届」がきちんと提出されないと兄の年金に支障が出ても困ります。
それで社会保険事務所の方と相談して、父が脳梗塞で倒れて入院するようになってからは、連絡先を私の住所地に変更しました。
もし、兄のいる施設の住所に送られますと、地域の管轄が変わるため、別の地域の社会保険事務所が担当になります。
もしそんなことになりますろ、私の自宅からはかなり遠方になり、いざ何かあった場合、私が対応できなくなります。
そんなわけで連絡先を私の自宅にしておいたのです。
でも、ひとつ面倒なことがあります。
それは兄の住民票のある役所に兄の所得証明書をもらいにいかなくてはならないことです。
そこに行くには自宅から電車で2時間以上かかりますので、私は郵送で手続きをすることにしています。
必要なものは以下の通りです。
所得証明書1通・・・300円(定額小為替)
返信用の封筒1通(80円切ってを貼る)
申請書1通
私が教えてもらった申請書の様式は以下の通りです。
申請書
請求者氏名(私)
請求者の住所・連絡先(電話)
請求者の印
必要とする書類の名称・何通いるのか?
必要とする人の氏名(兄)
必要とする人の生年月日・住所
とはいっても、私と兄は同居していませんので、兄と私の関係を示すための書類が別に必要となります。
私の場合、兄の成年後見人をしておりますので、成年後見人になっていることを証明する書類のコピーを添付すればよいそうです。
親の代なら、姓も同じですし、親子関係もわかりやすいでしょう。
ところが、親が死亡したり、なんらかの事情で障害をもつわが子を支えられなくなった場合、きょうだいの支援が必要となります。
そして、きょうだいの代になりますと、特に私のように結婚して姓が変わった場合、私と兄がきょうだいであるという証が必要となります。
つまり、同じ親から生まれたという証明をいただくために、実家のあった役所まで戸籍謄本(もしくは抄本)をもらいにわざわざ行かなければならないのです。
これも郵送でお願いすればよいのですが、別に「申請書」を書いて同様のことをしなければなりません。
その手間が平気な人はよいのですが、私はうっとうしく感じてしまうので、成年後見人証明する書類をコピーして送るほうを選択しています。
もしもきょうだいが障害をもつ家族を支える場合(特に結婚して姓が変わった場合)、多少面倒でも成年後見人制度を利用したほうがよいと思います。
確かに毎年、どれだけのお金が動いたのかを家庭裁判所に報告する義務はありますし、領収書もまめにとっておかなければなりませんから、事務的には大変です。
しかし、金融機関であるとか、障害者自立支援法や年金に関わるさまざまな手続きで威力を発揮します。
同じきょうだい児でも、やっぱり成年後見人になっているといないとでは、信用のされかたに大きな違いがあります。
書類の提出が多いこの時期には、成年後見人になってよかったと思うことが多いです。
毎年この時期になると、社会保険事務所から「国民年金 受給権者現況届(兼住民票コード申出書)・受給権者所得状況届」が送られてきます。
これは私が成年後見人になる前からずっと兄の代理で記入してきました。
亡父が倒れてからはもう10年近くこういった書類を提出してきました。
障害者が年金をもらったり減免申請をしたりするためには、いくつもの書類を提出する必要があります。
でも、兄のような知的障害者が役所へ行ったり、書類を書いたりすることはできません。
ですから、家族が代理ですることが多いです。
中には通帳もなにもかも管理を放棄して、事務手続きのすべてを施設におまかせしたしまう保護者もおられますが、わが子がどのような手続きをへて施設入所して負担額を減免されているのかということは知っておくべきだと私は思います。
とはいえ、こういった手続きは面倒なことが多いです。
兄のように施設に住民票を移している場合、書類の多くは施設に郵送されて、施設を経て私のもとに送られてくるため、提出期限が迫っていることも少なくありません。
何もなければ問題がありませんが、私自身のすべきことが多い時期と重なると、いそがなくてはいけませんから、ちょっと負担に感じることがあります。
そんなとき、「兄が健常者なら自分ですべてやってくれるのになあ~」って思ってしまいます。
兄が障害児とわかったときから、いえ周囲からわからされたときから、兄の存在は負担に感じることは確かに多いです。
そのため、私は自分のためにどうやって生きてゆけばよいのかわからなくなることがあります。
幼い頃から、習い事は兄の分までたくさんさせてもらえました。
でも、その代わりにたくさん我慢して育ってきました。
そんな生育歴のためか、私は自分の主張を抑制してしまう癖がつきました。
「どうせ、私の意見なんて通らない。私が我慢すればいいんだ」
こんな考えが先走ってしまうため、自分の思うことを言えず、自身の心の中に溜め込んでしまいます。
もしも兄が健常者だったら、兄に甘えることもできたでしょうし、妹として好きなことを言って、少女時代は子どもらしい時間を過ごすことができたのではないかと思います。
こんなに自分では悩んでいても、「明るくて悩み事がない子ども」だと誰もが思っていたようです。
学校では兄の存在があまり感じられなかったのか、同級生の中には「わがまま放題の一人っ子だ」と思っている子もいました。(私はなかなか本心は言えないタイプなんだけど・・・)
私も大人になってブログに思いを書くことができましたが、両親のどちらかが健在であれば、きっとブログにも自分の思いを書けなかったでしょう。
◆兄に障害があって悪かったこと
・キチガイの妹だといわれたこと。
・親戚から兄のことを否定されたこと。
・常に我慢で自分の思いを伝えられなかったこと。
・いつも自分の存在を否定する癖がついたこと。
・兄を支えるために自分のために生きることができなくなったこと。
◆兄に障害があってよかったこと
・弱者の気持ちがわかったこと。
・人の命の重さを実感できたこと。
・誰かを支えるために生きることの尊さを知ったこと。
・人の2倍の人生を歩むことができること。
・人生を冷静に見つめることができるようになったこと。
私は、自分が何のために生まれてきたのか、幼い頃から悩み続けてきました。
なぜなら、兄が兄でなく、弟のような存在だったからです。
普通、兄といえば、自分より年上でリードしてくれる存在で、兄から何かを学ぶことができるものでしょう。
ところが、私の兄は重度の知的発達障害で、私よりも発達段階が下なのです。
私が一方的に兄を指導するようになります。
しかも、兄のほうが力が強いので、兄が興奮するたびに年下の私めがけて攻撃してきます。
普通なら、攻撃した側を叱るのが親なのですが、母は兄に注意はするものの、兄を興奮させた私が悪いと叱るのです。
私が兄の理不尽な行動に対して注意したら、それで兄が怒って私を叩いてきたのです。
本来ならば、兄が叱られるほうではないかと思います。
しかも、母ははどう考えても兄の方をひいきしているように見えます。
こんなことが続いたら、私は何のために生まれてきたのか子供ながらに悩みます。
母にすれば兄は可哀想な子供だったかもしれません。兄に愛情を注いでやることで、兄の人生をより恵まれたものへと変えたかったのかもしれません。
しかし、妹である私には、それは残酷なことだったのです。
先日、私と同じようにお兄さんが知的障害者である女性とお話しました。
彼女も私と同じような思いをしていたことがわかりました。
「どうしてお兄さんに母親の愛情を奪われなければならないのか?」
「お兄さんは許されてもなぜ私は許されないのか?」
「お兄さんに比べればはるかに母親とのスキンシップが少ない。」
「障害者のお兄さんがいることで、子供の頃さまざまな偏見を受けた。」
「何度も死にたいと思った。」
それから、私は両親も亡くなり、兄のことを子供の頃から世話を焼いてきましたので、母親のような気持ちで兄のことを見ていますが、彼女が私ほどお兄さんの世話を焼いていなかったようでこんなことを言いました。
「母親に愛してもらえなかったのに、どうして母親の愛情をたくさんもらったお兄さんの世話をしなければならないのか?」
「どうしていつも自分は損な役回りしかさせてもらえないのか?」
彼女の場合、お母さんが現在療養中で、自分は子育てに追われています。
それゆえ、しんどいという気持ちも大きかったと思います。
私も彼女も共通しているのは、子供の頃から、我慢し続けて生きてきたということです。上のきょうだいが障害児なので、幼いころからわがままも言えず、また、自分が損するのが嫌で道を外れた行動をするのも抑制して、結局はいい子でいてしまう。そのため大きなストレスを抱えているということでした。
私の場合、夫の理解があって、現在は好きなことをさせてもらっていますけど、彼女の場合、外に出て仕事したり楽しみたいと思っても、夫や自分の母親から反対され、我慢し続け「もう爆発寸前!」という感じなのです。
彼女は「何もかもすべてを放り出してしまいたい」とも語っていました。
障害者のきょうだいについて書かれた本でも、上のきょうだいが障害児の場合、下のきょうだいは鬱傾向があると述べられています。
そして、上が障害児と下が障害児との場合では、上が障害児であるほうが、影響は大きいみたいです。
やはり、「三つ子の魂百まで」ではありませんが、上に障害児のきょうだいがいることで、乳幼児期に母親とのスキンシップが減少してしまうことや、母親の意識のほとんどが障害児に向かっているということも一因かもしれませんね。
私は子供の頃、何度か死にたいと考えた事がありますが、母親の愛情を実感できない環境にあったために、自己否定をする癖がついていたのかもしれません。
幼い頃の私の機気持ちを書いてみました。
これは、私が中3の頃のお話です。
私の通っていた中学は公立で、中3といえば高校受験を意識することが多く、他の生徒がテストで何点とっているのか気になる頃でしょう。
現在の公立中学も同様でしょうが、私の通っていた中学では順位が明確になっていませんでした。ですから私は、自分の順位が学年で何番だなんて知りませんでした。
ただ一度、校内で業者テストを受けたことがあります。
すると、すべての科目においてよかったのです。最も順位が悪くても5番だと知ったのです。当時、1学年で270人だったと思いますが、自分でもびっくりしてしまいました。たしか市内でも100番以内だったと思います。
このときはじめて自分は勉強は出来るほうだと自覚しました。
それまでは五科目のクラスの最高点をいつもとっていましたので、「クラスでは一番できるのかな?」という程度で、別に勉強ができるとは思っていませんでした。母からは常々「世の中にはいくらでも優れた人がいるから、クラスで最高点をとったところで意味がない」と言われ続けていましたから・・・。
しかし、学校では残酷なことが起きます。
障害者のきょうだいの成績がよいことを良く思わない同級生がいることがわかったのです。それは皆、小学校時代の優等生たちでした。
ことの発端は隣の席の男子の一言でした。
理科のテストが返されたときでした。
彼は私のテストを見て「わ~1個しか間違ってへん!」と大声で叫んだのです。私は理科のテストでクラスの最高点をとっていたのですが、点数は隠していました。
でも、テストの後に答え合わせというのがあるんです。その時に返却された答案を裏返していたらおかしいので普通に置いていたら、そんなことを言われて・・・。
それからです。
かつての優等生たちが私の悪口を言うようになりました。
「あいつの兄さんなあ、キチガイやで~」
私に聞こえるような大きな声で言います。
睨むと「キチガイの妹!」というのです。
今で言う「いじめ」なのでしょうか?
私は「いじめ」という言葉は嫌いなので「嫌がらせ」という言葉で置き換えさせていただきますが、その「嫌がらせ」が始まったのです。
小学校時代は私は塾にも行かず、遊びまくっていました。
勉強といえば宿題しかしていません。
ピアノを習っていてそれにのめりこんでいた小学生でした。
ピアノを弾くか、どこかに遊びに行くかのどちらかで、あとは母を助けようという思いから、兄のお守りをしていました。
そんな私でしたから、小学校から塾に通った子供たちよりは勉強では劣っていたようです。
とはいっても、普通以上で勉強がわからないとうことはありませんでした。まあ突出してできるタイプではありませんでした。
そんな小学校時代を過ごした私は中学に進み、はじめて塾に通いましたが、中1の1学期だけで辞めてしまいました。
知り合いの勉強のできるお姉さんが通っている塾を紹介してもらい、中2の夏休みからその塾に行き始めました。
その塾は内容が高度で入塾当初はついて行くのがやっとでした。
しかし、難しいことを先取り学習しておいたおかげで、中2の2学期以降はクラスで最高点をとることが増えました。
塾では英語と数学しか教えてくれませんでしたけど、不思議なことに学校の授業では他の科目から得点が上昇し始めました。
こんな私でしたけど、「目立つと攻撃されるのではないか?」という不安があり、成績のことは隠していましたし、あまり賢くない態度をしていたようです。
たぶんほとんどの同級生が私の成績は中位、もしくは良くても中の上程度と思っていたのではないでしょうか。
ですから、かつての優等生たちにはあまりの衝撃だったのでしょう。
テストは返却されるたびに私に視線が注がれるのがわかりました。
ある日、英語で1点負けて最高点にならなかった時がありました。
最高点だった生徒が私の方を見て笑っていました。彼はかつての優等生でした。
「そんなに障害者のきょうだいの成績が良いことがいけないのか?」
さまざまな「嫌がらせ」を受けて、友人との仲を断たれたこともあります。
執拗な「嫌がらせ」に思春期には何度も自殺を考えました。
でも、「死んだらおしまい!」「死んだら負け!」
と、自分を励まして生きてきました。
こんなことが親にも話せませんでした。
もちろん学校の先生にも相談できませんでした。
私は自分ひとりの胸の中にしまっていたのです。
時には「学校に行くのがイヤだ」とか、何度か母親に注意信号を送ったことはありますが、そんなことを意に介してくれるような母ではありません。たぶん母には私はただの弱虫に映っていたと思います。
思春期にはあふれんばかりの感情が渦巻いています。
「兄がいなかったらこんな目に遭わされないのに!」と、思ったこともあります。しかし、そのたびに「兄には罪はないのだから・・・」とあきらめてきました。
明らかに愛情は兄に注がれていましたから、時には理解してくれない親を困らせてやろうと思いました。
いつも道をはずしてしまいたい衝動に震えながらも、「自分が損するだけ」と冷静に判断しては、「すべてをめちゃめちゃにしてやりたい!」というその衝動を必死で抑えていたのです。
現代とは違って、障害者を差別することを奨励されるような雰囲気のあった時代です。学校では人権教育なんてやっていましたが、教師自身、同級生の親自身が、障害者に対して差別意識を持っていましたから、いくら「障害者にやさしくしましょう!」なんてきれいごとを言っても、形骸化しているのが現実でした。現在は随分ましになってきていると思いますけど・・・。
私はそのような激しい思春期を過ごしました。
ただ、私は恵まれていたことが二つあります。
ピアノを習わせてもらえたこと。これによって救われたことが多いです。
ピアノを何時間弾いても平気でしたし、ピアノで癒されていましたから、上達も早かったです。
もう1つは、これも芸術面なのですが、絵画や工作に集中することで、自分の内面のものを吐き出すことができましたね。これでもそのおかげで、子供の頃は何回も入賞してきました。
そんなことを考えると、兄がいたおかげかもしれませんね。
でも、どうして障害者のきょうだいだったら勉強ができたらいけないのでしょうか?
「どうせヨウゴの妹はバカに決まっている」という思い込みがあったのかもしれません。
これからも少しずつでいいから世間が障害者を理解し、障害者が「普通の存在」なることを祈りたいと思います。
いつかは人間もとしをとればどこかが悪くなります。誰もが障害者になる可能性を秘めているのですから・・・。
私の兄は障害児。
だから、他人に話してはいけない。
だから、友達が家族の話をするときはそっと逃げよう。
障害児の妹だから、あまり目立ってはいけない。なぜなら攻撃されるもの。
おかげで皆から一人っ子って思われた。
兄がいることを話してもそう見えないといわれた。
「お兄ちゃん、いくつ?」「どこの学校行ってるの?」「何してるの?」
この言葉が怖かった。聞かないで・・・。お願い!
ただ、何よりもつらかったのは、母親がどんなときにも
「あんたのお兄ちゃんは病気だから、あんたはがんばらなあかんの!」
と甘えを許してくれなかったこと。
本当は甘えたかったなあ。
お兄ちゃんがいなかったら、私はもっと抱きしめてもらえただろうに。
母は厳しい人だった。
テストで99点とっても「100点とれないのは抜けている証拠。あかん!」と言った。
クラスで一番であっても、学年でトップクラスの成績であっても、
母は認めなかった。母自身が子供の頃からずっと学年でトッだったから・・・。
でも、絵画で表彰された時にはほめてくれた。
母は絵が得意じゃないから・・・。
でも、母は私が学校で辛い目にあっても可愛そうにとは言ってくれなかった。
私が知的障害者の妹なのに、成績がよいのがばれて、よくできる連中から、
さんざん兄のことを持ち出されていやな目に遭わされて来たのに。。。
そんな時、少しだけ話を聞いてほしかった。
ほんの一瞬でいいから兄のように甘えさせてもらいたかった。。。
私は母が喜ぶだろうと母のために頑張る子供になってしまった。
兄を助けることで母が喜ぶのなら・・・
そう思って兄のことを世話していたのかもしれない。
少しでいいから私の話を聞いてほしかった。。。