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山田サトのブログ

なんでもありのブログ

柴又七福神 毘沙門天(多聞天) 題経寺

2016-10-11 15:37:03 | 神社仏閣(寺社仏閣)
柴又七福神 毘沙門天(多聞天) 題経寺
東京都葛飾区柴又7-10-3 題経寺 にお参りしてきました。
江戸時代初期の寛永6年(1629年)に、禅那院日忠および題経院日栄という2名の僧によって開創された日蓮宗寺院である。
18世紀末、9世住職の日敬(にっきょう)の頃から当寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又帝釈天」として知られるようになった。
日敬上人は自ら誌した略縁起に「本堂棟上より出現した本尊は長さ二尺五寸、 幅一尺五寸、厚さ五分の板で、形に似ずまことに重く,且つ堅く媒塵に汚れてよく判らなかったが、 水でよく清めたところ、片面は日蓮聖人の真刻、病即消滅本尊の形木、片面は帝釈天王の像である。
これこそ疑うべくもなく、当寺相伝の祈祷本尊である。」と非常な驚きと悦びを述べられている。
帝釈天の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰(中国道教の説く「三尸説(さんしせつ)」をもとに、仏教、特に密教・神道・修験道・呪術的な医学や、日本の民間のさまざまな信仰や習俗などが複雑に絡み合った複合信仰である。)とも関連して多くの参詣人を集めるようになった。
「柴又帝釈天」の通称で専ら呼ばれるが、当寺の日蓮宗寺院としての本尊は帝釈天ではなく、帝釈堂の隣の祖師堂に安置する「大曼荼羅」(中央に「南無妙法蓮華経」の題目を大書し、その周囲に諸々の仏、菩薩、天、神などの名を書したもの)である。
また、当寺が柴又七福神のうちの毘沙門天にあたることから、「帝釈天=毘沙門天」と解説する資料が散見されるが、帝釈天と毘沙門天はその起源を全く異にする別々の尊格であり、柴又七福神の毘沙門天は、帝釈天の脇に安置される多聞天(別名 毘沙門天)を指すと解される。
毘沙門天は、仏教における天部の仏神で、持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神であり、四天王では多聞天として表わされる。
また四天王としてだけでなく、中央アジア、中国など日本以外の広い地域でも、独尊として信仰の対象となっており、様々な呼び方がある。
御利益/開運招福、病気平癒、厄除け
アクセス/京成線柴又駅下車徒歩3分

上一色天祖神社

2016-10-08 20:49:01 | 神社仏閣(寺社仏閣)
東京都江戸川区西小岩2-2-8 (小岩駅北口より徒歩11分) 上一色天祖神社 にお参りしてきました。
旧上一色村の鎮守で、もとは神明社と称しました。
祭神は天照大神、経津主命、武甕槌命を祀っています。
この神社では昔、盛大な裸祭りが行われていました。
天保年間(1830-1843)江戸に疫病が流行した時、病気退散のために始められたと言われています。
その様子を伝える板絵額が神社内に奉納されています。

西小松川天祖神社

2016-10-06 23:34:28 | 神社仏閣(寺社仏閣)
東京都江戸川区西小松川町1-3 西小松川天祖神社 にお参りして来ました。
旧西小松川村草創の鎮守として、明治初頭までは神明社と称していたが、明治5年11月に村社の社格に列せられる。
詳細なる創立年代は、水害の為の書類流失により不詳であるが、神職家の祖先刑部左衛門橘瀧次が仕えていた下総国千葉家より康正二丙年(1456年、室町時代)に当所に引き移り神職を務め、子孫代々奉仕し、現在に至る。
御祭神は天照大神で、御相殿は経津主命と武甕槌命です。
御利益は、所願成就、家内安全、病気平癒、安全祈願、厄除、交通安全、産業振興
アクセス/都営新宿線 船堀駅北口より徒歩約23分

永代寺

2016-10-04 21:04:31 | 神社仏閣(寺社仏閣)
東京都江東区富岡1-15-1 永代寺 にお参りしてきました。
高野山真言宗寺院の永代寺は、大栄山金剛神院と号します。
永代寺は寛永元年(1624)長盛法印の開山により永代島に創建、江戸時代には富岡八幡宮の別当寺、江戸六地蔵の一つとして栄えましたが、明治初年の神仏分離により廃寺となりました。
現在の永代寺は、明治29年に旧永代寺の塔頭の吉祥院が名称を引き継ぎ、再興されたといいます。
御府内八十八ヶ所霊場68番札所である。御本尊は歓喜天(象頭人身の単身像と立像で抱擁している象頭人身の双身像の2つの姿の形像が多いが、稀に人頭人身の形像も見られる)であり、ご利益は徐病除厄、富貴栄達、恋愛成就、夫婦円満、除災加護である。

洲崎神社

2016-10-01 13:34:24 | 神社仏閣(寺社仏閣)
東京都江東区木場6-13-13 洲崎神社 にお参りしてきました。
洲崎神社は、桂昌院(徳川五大将軍綱吉公の生母)が崇敬した江戸城中紅葉山の弁財天を、護持院(護国寺)隆力の進言により元禄13(1700)当地に遷座して創建、当地が海岸に浮かぶ弁財天であったことから、文人墨客の参詣を集めていたといいます。
明治5年に村社に列格、昭和43年い現社殿を造営しています。
また、寛政3年(1791)に押し寄せた津波により、当地周辺は多数の死者行方不明者を出し、江戸幕府は当地を東北、平久橋の袂を西南とした一帯を買い上げ、居住禁止区域とした際の波除碑(津波警告の碑)が残されている。
御祭神は、市杵島比売命(イチキシマヒメノミコト)であり、御利益は、学業成就、除災招福である。
アクセス/地下鉄東西線木場駅より徒歩2分