「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

10年前に買った北公次『光GENJIへ―元フォーリーブス北公次の禁断の半生記』のことを思い出して

2023年09月29日 | 本と雑誌
 Youtubeで80年代のトーク番組やバラエティ番組の録画を眺めていると、たまたまジャニー喜多川を揶揄している場面に出くわした。しかしもちろん、それは現在おこなわれているような、ジャニー喜多川による性的虐待(刑法上の犯罪でもある)に対する批判や抗議などではなく、「同性愛者」としてのジャニー喜多川を揶揄する内容であり、揶揄をおこなっていた芸能人の単なる同性愛者に対する差別意識の開陳以上のものではなかった。しかし、その揶揄をおこなっていた人物が典拠としていたのが、北公次の『光GENJIへ―元フォーリーブス北公次の禁断の半生記』(データハウス)である。Amazonの古本の値段は全く信用ができないが、今見ていると数は出ているのだが軒並み二万円以上の値段がついている。この本は現在は主に「元AV監督」として有名になっている村西とおるが、「ジャニーズ事務所」と対立していた成り行きから北公次に書かせたもので、また和歌山県の田辺市が舞台になっているということもあり、「紀州」としての中上健次や「大逆事件」などの〈文学的関心〉からも読んでみようと思い、10年ほど前に古本屋で数百円で購入した。内容としては、ジャニー喜多川による北公次への性的虐待を含む、北公次の半生記ともなっており、田辺市から上京してジャニー喜多川との出会い、「アイドル」となっていく過程が書かれている。本の内容を要約する意味はないと思うので書かないが、愛憎というか単純な糾弾とは言えない〈複雑〉なものとして読むこともできる。あとから知ったのだが、ジャニー喜多川はアジア・太平洋戦争中は勝浦町に疎開していたようで、和歌山と強いつながり(人脈)があったのだろうか? また、ジャニー喜多川は朝鮮戦争に「米軍」として従軍しているというが、この問題も恐らく考えなければならないことだと思う。

 ともかくそのような関心だけで読んだわけで、こだわってジャニー喜多川について調べたわけではない。あとは友人から勧められた、藤島ジュリー景子の父に当たる藤島泰輔の『天皇・青年・死 三島由紀夫をめぐって』(日本教文社)を買ったくらいである。藤島泰輔は上皇明仁の「御学友」であり、学校から言えば三島由紀夫の後輩ということになろう。ジャニー喜多川、ひいては一般的には「ジャニーズ事務所」と呼ばれる組織の問題は、勿論「性的虐待」、「性的搾取」という犯罪の側面から糾弾されなければいけないのは当然だとしても、「紀州」の問題として、また天皇制の問題からも解明しなければならないという思いを、最近はさらに強くしている。ジャニー喜多川の犯罪行為に対する糾弾は見えやすいが、それは同時に、「ジャニーズ事務所」という組織と「アイドル」の問題は、天皇制や資本主義的搾取、排除と差別の問題、中上健次や三島由紀夫の文学的な問題などからもアプローチされるべき事柄だと思う。そうしないと構造が見えてこない。芸能とヤクザの問題などもここには関係するだろう。これは多分に文学的エクリチュールの次元においても分析されなければならない問題である。ただ僕は北公次の著書を読んだだけで、それ以後継続的に何かを調べたわけではないので、現在はこのくらいの見解しかない。

 ただし、今巻き起こっているジャニー喜多川への糾弾と大手企業の「ジャニーズ離れ」や「自粛」、あるいは「自己批判」は不誠実なものだと言わざるを得ない。冒頭でも書いたように北公次や、またその他の所属「アイドル」からの告発も40年前からあったように、本当はみんな知っていたことなのである。そのような性的搾取の上に「アイドル」が成り立っていたことも、スポンサーは少なくとも知らなかったとは言えないだろう。それが〈表沙汰〉にならなかったのは、何も「ジャニーズ事務所」の力だけではなく、それが持ちつ持たれつの関係であったからだ。スポンサーもマスメディアも持ちつ持たれつで隠蔽したのであり、「知らなかった」とか「考えが甘かった」、「その頃はそれが犯罪という認識がなかった」というのは嘘で、ようは持ちつ持たれつの関係が壊せなかった、というだけのことで、そこには社会正義とか人権とか、そういうものはおそらく何も介在していない。それらはジャニー喜多川が死んだから明るみになっただけで、人権や被害者救済のために企業は態度表明をしているのではなく、単純に現在の資本主義の規範であるポリティカルコレクトネスとコンプライアンスに違反すると市場から締め出されてしまうため、ご都合主義的に謝罪や「ジャニーズ離れ」を表明しているに過ぎない。そしてこれこそがジャニー喜多川の問題を逆に隠ぺいするのではないか。要は責任を取るのではなく、市場からの締め出しを防ぐための画策であり、企業の自己防衛であり、「ジャニーズ事務所」の対応もそれに準じるものだろう。

 これは現在における「当事者性」や「ケア」という概念を作り上げてきた議論が、かつての〈加害者〉や〈被害者〉と呼ばれる一方向性の関係を複雑化し、人権の尊重と擁護を複雑なプロセスのもとで考えられるようにしたことの一方で、特に「ケア」などの概念が、資本主義的なマーケティングと重ねられてしまう問題なのではないだろうか。本来は「当事者性」や「ケア」の理論の次元は、〈被害者〉や〈加害者〉というそれまでの一方向性の責任関係の問題ではなく、両者の非対称性、それは簡単に責任を取ることはできない、むしろ責任は負いきれないものとしてしか現れないという問題提起と、両者の非対称性がいかなる関係性なのか(時には「共犯」であることもあるだろう)を考え抜くための理論なのだと思うが、それが資本主義的な経営やマーケティングの自由主義的公正さ、それは競争の公正さともいえる、に横領されていると見るべきだろう。たとえば去年、性的少数者の「カミングアウト」という行為遂行性を、ツイッターで花王が「告白」のレベルで横領し、企業に益する資本としての消費者の〈声〉として集めようとした行為も同じである。

 ワイドショーなどでも「ジャニーズ事務所」は社名を変えなければやっていけないなどと、コメンテーターがいらぬお世話を焼いているが、これも企業存続や資本主義のルールを守れと言っているだけで、〈被害者〉や「当事者」のことは考えていない。何か、そういう資本主義のルールをうまく使いこなす行為がクールな態度だというレベルでしか、話していないように思う。最近のワイドショーのコメンテーターは、〈経営者〉のように、ビジネスの指南役のような意見ばかりを言うので、本当にどうしようもない。でもこの経済が回ればよい、資本主義のルールが守られていればよい、という態度は、かつての持ちつ持たれつの関係の中で何の責任も負わなかった「ジャニーズ事務所」とスポンサー企業、そして芸能界の関係と何も変わりがないものだろう。

 このような資本主義的な〈啓蒙〉によって払拭されていく「ジャニーズ事務所」という資本主義化(近代化)されざる封建遺制の問題は、さらなる無責任の追認になりかねない。資本主義のクリーンさでジャニー喜多川というフェティッシュを消し去ったからといって、それは責任でも何でもない。そもそも資本主義は〈クリーン〉なのか?また日本(人)は、最大のフェティッシュである天皇(制)と、ジャニー喜多川とその支援者たちと同じように、常に持ちつ持たれつで生きているわけなのだ。結局これも同じ問題なのではないか。そのためにも、ここには資本主義的な〈啓蒙〉から逃れてしまうような、芸能と天皇、差別や地域性の問題などがあるはずであり、文学的なエクリチュールの側面から考えなければならないと思うのである。

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