「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

ディルタイをそろそろと読んだ感想(4)と「涼宮ハルヒシリーズ」を購入

2023年08月06日 | 本と雑誌
 ディルタイは『精神科学序説Ⅰ』(p.147)において「神話的表象は、当時の人々が特別に意味があると考えた現象の生きた実在的な連関を表わしている。」という。「神話」は神話的世界の諸連関を表象する。この「神話的表象」は、所謂「歴史」における「生」の諸連関とは異なるものなのだが、言語を介して関係はしている。「神話」は世界の諸連関を神話的に表象するが、しかしディルタイによれば、それは「歴史」や「科学」における諸連関の表象とは違った形でなされるということになる。このような「神話」が、ある一つの認識の連関構造を形作っているという考え方は、例えばハンス・ファイフヒンガーの『Die Philosophie des Als Ob』(『かのようにの哲学』)でも論じられていたはずである。ファイヒンガーは「歴史」と「神話」を、ディルタイのように区別しながらも、「歴史」と「神話」は厳密に区別できない地点があることも指摘している。ファイヒンガーは、歴史的事実に対して「神話」はその事実の理解(表象)を助ける「Hilfsgebilde」(補助形象)として機能すると主張している。即ち「神話」は歴史的事実同士を連関させる〈糊〉の役目を果たす。例えば、単純に歴史的な出来事や事実だけを並べても、それは「歴史」としては機能しない。そこには事実同士の「連関」が存在せず、ただ事実と出来事だけが無秩序に散乱しているだけだからである。だが、その歴史的事実の無機的な羅列を人間の認識論的連関にふさわしい、「歴史」の連関の有機的体系として秩序付けるのは、その〈糊〉の役割たる「Hilfsgebilde」(補助形象)としての「神話」なのだ。つまり、ファイヒンガーにおいて「神話」は「als ob」(かのように)として、歴史的事実を〈フィクション=糊〉によって物語化する機能を担わされているのだ。ファイヒンガーは「歴史」をHypothese(仮説)とし、「神話」をFiktion(虚構・擬制)として区別し、当然前者に西洋哲学的優位を与えるのであるが、Hypothese(仮説)がHypotheseたり得るには、Fiktion(虚構・擬制)のHilfsgebilde(補助形象)の助けが必要なことも強調する。ファイヒンガーはこのように、西洋哲学の目的論の中では劣位に置かれる「神話」の「als ob」の機能を取り出して、評価しているともいえるのだ。かつて『Die Philosophie des Als Ob』を、ドイツ語の原典と英訳とを比較しながら半年くらいかけて通読したのだが、実際専門家ではないわけであり、やはり難しい部分もあったので、専門家がきちんと訳した日本語訳で読みたいものである。一通り読んで、『Die Philosophie des Als Ob』は、かなり重要な哲学書だと思った。

 このほか「神話」は、エルンスト・カッシーラーの「シンボル形式の哲学」の岩波文庫版ならば第三巻で論じられており、同じように「神話」は認識論的な連関を言語を介することで形作っているという議論がなされていたはずだ。これを受けて、三木清も『構想力の論理』で、ディルタイとカッシーラーの「神話」の認識を、構想力の論理として読み換えようとしていたと記憶する。この「神話」が認識における諸連関の構造を持っているというのは、構造人類学の神話分析やロラン・バルトのテクストにおける「神話」分析とも関わっていくのだと思う。ウラジミール・プロップの『昔話の形態学』なども、まさしくフィクションの諸連関とその構造の話なので、「神話」分析と関係する。文学ともかかわりが深い議論だといえるだろう。

 現在読み進めている部分では、ディルタイはまだ「科学」に発展していない「神話」の認識論的連関を分析しながら、ソクラテス以前のギリシャ哲学からこの「連関」がどのように認識されてきたのかを哲学史として論じている。これらギリシャ哲学における「連関」は、「宇宙」(Weltall)を認識するための科学的な目的連関の〈前史〉として捉えられており、「科学」の「連関」とは違うと区別されているが、歴史的には関わってはいるのだろう。いわば「生」や「宇宙」というのは「連関」の〈ある仕方=様態〉の認識ということになる。ハイデガーがディルタイを単なるカント主義者としてではなく、存在論的な「世界」を準備する哲学者として評価するのも、ここから理解できる。ハイデガーも「世界」というのは、存在者の連関の〈仕方〉として捉えているといえるからだ。ディルタイのこの「連関」を存在論的な連関として読んだのがハイデガーだろう。ディルタイはそして、この「連関」をギリシャの哲学として最初に取り出したのは「数学」という。「数学」はこの「連関」の合理性を保証するわけだ。要は「数学」によって、「連関」を一つの法則の下で認識できるようになるということである。さらに読み進めていく。

 さて、「涼宮ハルヒシリーズ」全12巻を購入した。「なぜ今更?」かもしれないが、3巻までは読んでいたのだが、少しまとめて読んでみようと思う。まあこれも「セカイ」の「連関」の話ではあるのだから。もし何か感想がありそうなら今後書いてみます。

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