「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

ディルタイをそろそろと読んだ感想(6)+涼宮ハルヒシリーズ

2023年10月16日 | 本と雑誌
 『ディルタイ全集1』を読了し、「精神科学」と「自然科学」の差異と、その差異に働く「連関」の問題が興味深いものであった。昨今、「文系」や「理系」などの区別があり、今日も仕事帰りの喫茶店で、隣の大学生が、「文系就職」と「理系就職」の差異を話していた。その二人は「理系」らしいのだが、「理系就職」というのを初めて聞き、なんとなくニュアンスはわかるが、「理系就職」の方が、生涯年収が高いということを話し合っていた。それはともかくとして、ディルタイの「精神科学」と「自然科学」の差異と「連関」はそのような、「理系」や「文系」には還元できない問題を内在させている。しかもそこには知的刺戟に満ちた問題提起があると思われる。

 ディルタイは「精神科学」を形作る「連関」を、「自然科学」のそれとは違うものと見做す。「自然科学」は因果関係を「連関」として持つわけであるが、「精神科学」は「歴史」の「連関」として現れていることになる。ならば、その「歴史」の「連関」とはいったい何かということになるだろう。例えば「歴史」の「連関」と聞くと、ヘーゲルに見るような、精神の運動としての弁証法が思い浮かぶが、ディルタイはそうは言わない。ディルタイは「歴史」の「連関」を「心理(学)」、「意識」の認識論的な「連関」として見出すのだ。そのような「心理」や「意識」の認識論的連関こそが、「歴史」としての「生」の構造連関になっているわけである。このような「歴史」の「連関」こそが「精神科学」を「自然科学」から区別する差異ということになる。するとこの「心理」や「意識」の「連関」とは何か、ということになるのだが、これはカントのいう「主観」の構造と重なり合う部分を持っている。カントが「主観」の構造から、数学がなぜ可能なのか、「自然科学」がなぜ成立するのか、そして「自然科学」とは別の自律性を持つ道徳律がなぜ成立するのか、と問うたわけだが、この問いを応用しているように見える。

 「草稿」の時点でディルタイは「精神科学」に相当する言葉を「道徳-政治」の科学と呼んでいる。ということは、カントが「自然科学」とは別の自律性を持つとした道徳律の原理と「精神科学」の原理がアナロジーであるということになる。つまり、カントが「主観」の「連関」に、道徳律を成立させるような「連関」を見出したように、ディルタイも「心理」や「意識」の「連関」に、「自然科学」の因果性には還元されない、「精神科学」の自律性を保証するような構造連関を見出していたということになるだろう。そしてその「精神科学」の自律性は「歴史」の「連関」によって保たれているということになる。何故ならば「歴史」の自律性は、「心理」や「意識」の認識論的な「連関」それ自体であるからなのだ。ディルタイにとって「歴史」は「心理」や「意識」の認識論的「連関」であり、それが「生」の構造である。「精神科学」は「歴史」的なものといえる。

 ただ、「精神科学」は「自然科学」と全く別なのか、というとそうではない。ディルタイは、生理学や物理学などと「精神科学」の「連関」を比較していることからもそれはわかる。『全集1』ではっきりとそう言っているわけではないが、「精神科学」と「自然科学」を「心理」や「意識」の「連関」で区別しながらも、そこには重なり合う「論理」も存在する。そもそも「歴史」は「自然科学」も「精神科学」も歴史化し、「連関」として成立させているわけだから、その「歴史」の「連関」にとって「心理」や「意識」は超越論的な存在だといえるだろう。つまり「心理」や「意識」の「連関」こそが歴史認識を可能にし、「自然科学」と「精神科学」の差異を成立させているからだ。ディルタイもいう「心理」や「意識」の「連関」は即ち「歴史」であり「生」であり、その超越論的連関は、「自然科学」にも「精神科学」にも権利上〈先行する〉といわなければならないのではないか。

 このように考えると、ディルタイは「歴史」を「心理」や「意識」という認識論的な問題にしているのだが、ハイデガーはこれを「存在」の問題に引き付けたといえるだろう。ディルタイの「心理(学)」的な「連関」という認識論への還元は、ハイデガーから見ればカントよりも退行しているように見えるところがある。それはフッサールの「心理学批判」の対象にもなる。ハイデガーは、ディルタイが「連関」から存在者を理解していることと、それが「歴史」の構造になっていることを高く評価しているのだと思うが、しかし、ディルタイが認識論的「連関」にとどまってしまっていると見做したのだろう。ハイデガーは、ディルタイが「連関」を見出した「心理」や「意識」の領域を、存在者の「連関」を可能にする、〈存在=開け〉と読み換えたのである。そしてこの〈存在=開け〉の構造こそが、現存在の実存論的構造を可能にしている「時間」だといえる。ハイデガーはディルタイの認識論的「連関」を、存在者の「連関」とし、その「連関」を可能にしている「開け」こそ「存在と時間」なのだ。

 また、ディルタイは、「精神科学」の「連関」を説明する時、「比喩」を多用する。しかもそこで面白かったのは、「俳優」の「比喩」である。ディルタイは「精神科学」が普遍的な「連関」でありながら、同時に多様な「個性」や「文化現象」を表象可能にするのはなぜか、という問いに、「俳優」と同じで、同一人物という統一性が、違う役柄を何役も演じることができるという多様性と同居しているというように、このような「俳優」の〈表象=代行〉の構造こそが、「精神科学」を可能にしている構造の一つだとするのである。「精神科学」にはフィクションが憑依するという好例だろう。「精神科学」はフィクションによって成立しているといえるのだ。また、ディルタイは「精神科学」の自律性を保証する「心理」や「意識」の連関構造に、「構想力」を見ている。「構想力」とはまさしくフィクションの可能性の条件だが、カントのいう「感性」と「悟性」を媒介する〈図式性=フィクション(イメージ)〉の能力が、「精神科学」の自律性を形作っているというのは、大変面白い。例えば同じ新カント派に強い影響を受けているファイヒンガーが物語やフィクションとは無縁だと思われている「数学」にも、「als ob(かのように)」というフィクションの構造が内在しなければ、その学問が成立しないとしたように、やはりフィクションというのは「精神科学」だけではなく「自然科学」も貫いているのではないかといいたくなる。ディルタイは、そこに大きな問題を見ていたように思う。それをフッサールやハイデガーは批判的に継承していったのだろう。「自然科学」と「精神科学」を貫くフィクションの構造と「連関」。それを「文系」とか「理系」といって考えようとするのは頽廃以外の何物でもないのだろう。

 今日は喫茶店で、谷川流+いとうのいぢ『涼宮ハルヒの憂鬱』を読み終わった。次に『溜息』を読もうと思う。このままシリーズ全てを読破する予定。

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