「プチット・マドレーヌ」は越えたので許してほしい

読んだ本の感想を主に書きますが、日記のようでもある。

久々の読書でプルーストと外山恒一の本を読む

2023年09月05日 | 本と雑誌
 琵琶湖から帰ると、土日祝が関係のない通しの仕事が詰まっていて、暑さと疲労で気分が、何かを書こう、何かを読もうという感じではなくなっている。こういう生活はいけないなあ。

 さて、井上訳の『失われた時を求めて』は第三巻に入り「土地の名――土地」を読み進めている。僕はこの小説は、ヘーゲルの『精神現象学』や『大論理学』が「雑談」であるという意味で、〈雑談=エクリチュール〉の集積したテクストだと思っている。そしてその「雑談」とは『大論理学』の中に出てくる、「卵売り」のエピソードで語られる「通俗」の問題であるともいえる。この「雑談」は「資本」の構造それ自体なのだと思うが、この「資本」の構造こそ「私」の「雑談」を可能にしている。しかしながら、この小説の面白いところは、その「資本」の構造が、綻びや失調のような形で、うまく働いていかないところを描いており、しかしその齟齬や綻びこそが、この失われた時の世界を現前させているといえるのだ。そういう意味ではやはりこの「雑談」には弁証法的なものがあるようにも思う。イマージュや失われてあること自体が、「資本」の構造としての、失調や綻びから現前してくるというアイロニー、しかもこのアイロニーこそが「近代」という時代性であり、「通俗」と「雑談」の空間なのである。だらだらと最後まで読んでいきたいと思う。

 最近は外山恒一の本をまとめて読んでいる。外山の単行本になった本は、ほぼ集めたのであるが、まとめて読んでみると面白い。特に80年後半~90年代前半の「管理教育」に関する外山の批判は、以前にも書いた、僕が中学校の「生徒会」(外山は「生徒会」的改革を批判している)で経験した、管理教育批判の「生徒会」の立場が、実際は管理教育に加担する立場へと変容していく、という問題と「リアルタイム」でも重なっており、色々考えさせられている。これはしばらく考えてみたいと思う。今は外山恒一編『ヒット曲を聴いてみた――すると社会が見えてきた――』(駒草出版)を読んでいる。「ヒット曲」こそが時代の微妙なところに触れているというのはその通りで、80年代の漫画は、まさしく「ヒット曲」の「雰囲気」の中で描かれ読まれてきたものだと思っている。そしてそれこそが、今のゲームやラノベにも繋がっているはずなのだ。『ろくでなしBLUES』はまさしく「The Blue Hearts」的な何かを伝えようとしていただろうし、『きまぐれオレンジ☆ロード』は失われた68年的な喫茶店の問題(まつもと泉は作品に登場させた喫茶店のマスターを「かつて爆弾を作っていた経歴」といっている。明らかに「68年」的な問題を受け継いでいる)を、杉真理的なもので表現していた。それはまつもと泉が意識してやっていたことだろう。

僕は音楽をほとんど聴かない無教養人であるので、少し辿りなおしてみたい。

ディルタイをそろそろと読んだ感想(4)と「涼宮ハルヒシリーズ」を購入

2023年08月06日 | 本と雑誌
 ディルタイは『精神科学序説Ⅰ』(p.147)において「神話的表象は、当時の人々が特別に意味があると考えた現象の生きた実在的な連関を表わしている。」という。「神話」は神話的世界の諸連関を表象する。この「神話的表象」は、所謂「歴史」における「生」の諸連関とは異なるものなのだが、言語を介して関係はしている。「神話」は世界の諸連関を神話的に表象するが、しかしディルタイによれば、それは「歴史」や「科学」における諸連関の表象とは違った形でなされるということになる。このような「神話」が、ある一つの認識の連関構造を形作っているという考え方は、例えばハンス・ファイフヒンガーの『Die Philosophie des Als Ob』(『かのようにの哲学』)でも論じられていたはずである。ファイヒンガーは「歴史」と「神話」を、ディルタイのように区別しながらも、「歴史」と「神話」は厳密に区別できない地点があることも指摘している。ファイヒンガーは、歴史的事実に対して「神話」はその事実の理解(表象)を助ける「Hilfsgebilde」(補助形象)として機能すると主張している。即ち「神話」は歴史的事実同士を連関させる〈糊〉の役目を果たす。例えば、単純に歴史的な出来事や事実だけを並べても、それは「歴史」としては機能しない。そこには事実同士の「連関」が存在せず、ただ事実と出来事だけが無秩序に散乱しているだけだからである。だが、その歴史的事実の無機的な羅列を人間の認識論的連関にふさわしい、「歴史」の連関の有機的体系として秩序付けるのは、その〈糊〉の役割たる「Hilfsgebilde」(補助形象)としての「神話」なのだ。つまり、ファイヒンガーにおいて「神話」は「als ob」(かのように)として、歴史的事実を〈フィクション=糊〉によって物語化する機能を担わされているのだ。ファイヒンガーは「歴史」をHypothese(仮説)とし、「神話」をFiktion(虚構・擬制)として区別し、当然前者に西洋哲学的優位を与えるのであるが、Hypothese(仮説)がHypotheseたり得るには、Fiktion(虚構・擬制)のHilfsgebilde(補助形象)の助けが必要なことも強調する。ファイヒンガーはこのように、西洋哲学の目的論の中では劣位に置かれる「神話」の「als ob」の機能を取り出して、評価しているともいえるのだ。かつて『Die Philosophie des Als Ob』を、ドイツ語の原典と英訳とを比較しながら半年くらいかけて通読したのだが、実際専門家ではないわけであり、やはり難しい部分もあったので、専門家がきちんと訳した日本語訳で読みたいものである。一通り読んで、『Die Philosophie des Als Ob』は、かなり重要な哲学書だと思った。

 このほか「神話」は、エルンスト・カッシーラーの「シンボル形式の哲学」の岩波文庫版ならば第三巻で論じられており、同じように「神話」は認識論的な連関を言語を介することで形作っているという議論がなされていたはずだ。これを受けて、三木清も『構想力の論理』で、ディルタイとカッシーラーの「神話」の認識を、構想力の論理として読み換えようとしていたと記憶する。この「神話」が認識における諸連関の構造を持っているというのは、構造人類学の神話分析やロラン・バルトのテクストにおける「神話」分析とも関わっていくのだと思う。ウラジミール・プロップの『昔話の形態学』なども、まさしくフィクションの諸連関とその構造の話なので、「神話」分析と関係する。文学ともかかわりが深い議論だといえるだろう。

 現在読み進めている部分では、ディルタイはまだ「科学」に発展していない「神話」の認識論的連関を分析しながら、ソクラテス以前のギリシャ哲学からこの「連関」がどのように認識されてきたのかを哲学史として論じている。これらギリシャ哲学における「連関」は、「宇宙」(Weltall)を認識するための科学的な目的連関の〈前史〉として捉えられており、「科学」の「連関」とは違うと区別されているが、歴史的には関わってはいるのだろう。いわば「生」や「宇宙」というのは「連関」の〈ある仕方=様態〉の認識ということになる。ハイデガーがディルタイを単なるカント主義者としてではなく、存在論的な「世界」を準備する哲学者として評価するのも、ここから理解できる。ハイデガーも「世界」というのは、存在者の連関の〈仕方〉として捉えているといえるからだ。ディルタイのこの「連関」を存在論的な連関として読んだのがハイデガーだろう。ディルタイはそして、この「連関」をギリシャの哲学として最初に取り出したのは「数学」という。「数学」はこの「連関」の合理性を保証するわけだ。要は「数学」によって、「連関」を一つの法則の下で認識できるようになるということである。さらに読み進めていく。

 さて、「涼宮ハルヒシリーズ」全12巻を購入した。「なぜ今更?」かもしれないが、3巻までは読んでいたのだが、少しまとめて読んでみようと思う。まあこれも「セカイ」の「連関」の話ではあるのだから。もし何か感想がありそうなら今後書いてみます。

ディルタイをそろそろと読んだ感想(2)

2023年07月31日 | 本と雑誌
 ディルタイの「精神科学序説」を引き続き読んでいるが、仕事などが溜まっており、なかなか読み進められてはいない。前回から十数頁しか進んでいないが、メモの代わりに記しておきたい。

 ディルタイは「精神科学」(現代でいう人文科学と社会科学を含む)の「自然科学」からの「相対的独立性」を証明しようとしている。したがってある面では、「精神科学から自然科学への依存の体系」を示すことになる。これは前回も書いた、「精神科学」でも「歴史学」に代表されるように、歴史的一回性の出来事が、歴史という普遍的な法則性の中でどのように体系化されているのかと問う場合、その一回性と普遍性との相互連関の体系の原理を解明しなくてはいけなくなる。このような一回性と普遍性を「体系」として構造化している原因は何かというと、認識論的な「心理学的法則」ということになる。これは単純な心の中というのではなく。「心理」の「法則性」こそが、この一回性と普遍性の「体系」を認識可能にしているという意味での、認識の条件に当たるものだと考えたほうがよい。そしてこの「心理学的法則」の「法則」を解明する際、ディルタイは自然科学的、あるいは「自然認識」の論理学を援用する。ディルタイは、「この体系ゆえに、精神科学は自然認識によって条件づけられており、したがって数学的基礎づけのうちで始まる構成のなかで最高で最後の部分を形成するのである。」(『全集1』p.25、以下同様)というのはそれを端的に表した言葉だといえる。

 これはフッサールの『論理学研究』にもつながる。フッサールはこの「論理学」を、心理学的なものから超越論的主観性の構造へと展開していき、ディルタイ的な意味での「心理学」は批判していくが、しかし、この『論理学研究』の論理学は数学的なものであった。この数学的な論理学の問題は、ハイデガーが批判するわけだし、後にはデリダが『幾何学の起源』の「序」で、この数学的論理学が「歴史性」に常に既に「汚染」されているという形で、現前性批判される問題ともつながるのだと思う。

 ただし、p.103でもそうなのだが、ディルタイは歴史が数学的基礎の論理学に「還元」されるとも言っていない。「歴史の経過を一つの定式または一つの原理の統一へと還元することはできない」といい、p.117でも、「精神科学は、自然科学とはまったく異なる基礎や構造を有している」という形で、「精神的現象を自然認識の連関に組み入れるというこの試みには二つのことが想定」されるとし、それらは「証明不可能」と「明らかな誤り」を招くとしている。つまり、「精神科学」は「自然科学」には「還元」できないわけだが、だとすれば、当初「精神科学」の「相対的独立性」と「精神科学から自然科学への依存の体系」とは何のことになるのだろうか。おそらくまだ100頁を越えたばかりで結論めいたことを言うのは慎まないといけないのだろう。この「精神科学」の「自然科学」への還元不可能性こそが、「精神科学」の「相対的独立性」になり、それが「歴史性」でもあるわけだが、しかしその場合の「精神科学」の法則性や論理性というのは、ディルタイが最初に予想していたような、数学的な論理性とは違うのだろうか?

 今後この矛盾、即ち「精神科学」の「独立性」がここから考察されていくのだと思う。おそらくディルタイは「精神科学」を「自然科学」に「還元」して解消しようとする性急さを戒めているのであって、「精神科学」が「自然認識」の論理学と何らかの関係性を持っており、それが「精神科学」の「独立性」を可能にもしているという、複雑な「体系」を明らかにしているのだろう。そういう意味では「精神科学」の論理性が「自然認識」「自然科学」「数学的基礎」の論理学とどのような差異を持ち、あるいは相互に依存しあっているのかを、観ていきたいと思う。カントの物理的な自然法則と自律的で内的な理性(法則)の関係のようなものである。ディルタイの議論は、当然のことであるが、現代において「文系」が大事か「理系」が大事かという、通俗的でわかりやすすぎ、そしてコストと効率だけを意識したくだらない論争より、恐らく実りある議論になるだろう。

雑誌『査証』を買う(『杼』についての追記〈7月18日〉)

2023年07月16日 | 本と雑誌
 古本で『査証』(査証編集委員会)を購入した。1971年から73年までに全7号出ており、複数の古本屋を巡ったので、まだ届いていない巻もあるが、全号を手に入れた。『査証』には、『VISA』というタイトルも併記されている。届いた分をまだざっとしか見ていないが、「赤軍」に関わる記事が多い。2号には足立正生と竹中労の対談もあり、これから読んでみようと思う。また、高橋和巳の「文学の苦しみと喜び」という文章もあり、これは1965年の講演の速記記録のようだ。未刊だったものを、高橋を追悼して掲載したということである。これ等を見てもわかるように、この『査証』を買った理由は、文学や映画演劇と革命に関わる文が多く目に留まったので、芸術と革命という実践が、どういう理屈で1960年代~70年代は結びついていたのかを、少し眺めてみたいと思ったからである。松田政男や吉本隆明、重信房子らも書いている。今もざっと見ているが、芸術や文学が革命と結びついていた稀有な瞬間だったんだろうな、と思う。

 雑誌といえば、批評界では有名であろう『杼』(エディションR、国文社)があるが、これも全巻持っている。ある時期までは『杼』は古本でよく見たので、全6巻が学生が手に入る値段でも買えたのだ。これにはおまけの話があって、なぜか二揃え集めることができた。散逸してはいけないということで、ばらばらになっていた巻を見つけては買っておいたのだ。この余分な一揃えは、出身の大学図書館にこともあろうか全く所蔵されていなかったので、寄贈した。『杼』を直接手に取って読める後輩は、僕に感謝してほしい。それはさておき、この『杼』であるが、その執筆陣や批評的な内容から、短絡的かもしれないが、僕はこれは日本版の『Tel Quel』なのではないか、と思っていた。幸運にも同人であった二人の方にお会いできたので、「『杼』は『Tel Quel』を意識したりしたんですか?」と聞いてみたが、どちらの方も「それは意識しなかった」というお応えであった。そうか、とも思ったが、いやでも〈無意識〉ではつながっていたはずだろうという、勝手な思い込みを今でも抱いている。阿部静子『「テル・ケル」は何をしたか: アヴァンギャルドの架け橋』(慶應義塾大学出版会)をかつて読んだとき、少し記憶が曖昧なのでこれはまた確認しないといけないが(訂正の可能性があるが)、『Tel Quel』は当初、織物や織機に関わる器具か何かの名前にするはずだったというのが指摘されていたと思う。それも読んでいたので、「杼」という名前にしたのは、そういう事情とかかわりがあるのではないか、など思っていた。これはもう一度、阿部の本で確認してみないといけないと思う。

 ※ここからは追記であるが、上記の阿部の『「テル・ケル」は何をしたか』を確認してみると、「7 創刊前夜」p.50に「雑誌のタイトルは当初は「Trame(横糸・網状組織。陰謀の意味もある)」が考えられ、のちに「テル・ケル」に落ち着いた。」とあるように、これが念頭にあったため、『杼』と重なり合ったのだ(杼はまさしく緯糸(横糸)を通すものだろう)。ともに「テクスト」にかかわる雑誌名として、しかもヌーボー・ロマンから精神分析やエクリチュールの問題など、掲載内容も重なるところは多いのではあるまいか。また阿部が、『杼』の同人であり、雑誌の発行人でもある江中直紀を注記で触れていたことも、少し気になったところではあった。そういう意味で短絡かもしれないが、僕は『杼』=『Tel Quel』説を唱えたい。

柄谷行人『力と交換様式』と観念的上部構造について

2023年07月13日 | 本と雑誌
 柄谷の新著『「力」と交換様式』(岩波書店)は、一か月ほど前に友人たちと一緒に読んだ。友人が読書会のレジュメを作ったのだが、そのレジュメの「おまけ」に作ってくれた、柄谷のいくつかのテクストをデータとして読み込ませた「柄谷GPT」と、友人とのヴァーチャル座談会は、ある部分本当に柄谷が「交換様式D」について語っているようであり、ぞっとする所があった。それはさておき、僕自身が『力と交換様式』に注目したのは、「交換様式D」というよりは、その「序論」において「上部構造の観念的な「力」」を論じているからであった。柄谷はここでマックス・ヴェーバーを引きながら、「観念的上部構造は、たんに経済的ベースによって受動的に規定されるだけでなく、むしろ能動的に後者を変える「力」をもつとみた」という形で、観念的上部構造に経済的下部構造における「交換」を組織するような、「力」を見ているわけである。僕はここに特に興味がわいた。

 というのも、柄谷は「交換」に注目すればこそ、マルクスの『資本論』における価値形態論、「商品の物神崇拝的性格とその秘密」に注目するのであるが、わかりやすい例でいえば、アルフレート・ゾーン=レーテルや『マルクスの亡霊たち』のジャック・デリダ、ゾーン=レーテルを参照しているスラヴォイ・ジジェクらも、この価値形態論が観念的上部構造として、「交換」を可能にしている「力」を有していることを柄谷に先んじて論じているからでもある。ゾーン=レーテルは新カント派の観念論をマルクス経済学に合体させているわけであるが、19世紀後半から20世紀にかけては、マルクスの経済学の法則に対抗するために現象学や社会学、あるいは新カント派らのドイツ観念論哲学は、その観念的上部構造の「力」を、マルクスの経済的下部構造の「力」にぶつけて対抗していたわけだから、柄谷が「交換」を価値形態論から論じようとしているのは、まさしくマルクスと観念論の歴史的闘いを再現していることになる。日本でも三木清らは現象学や存在論を使いながら「構想力」を論じたわけだが、あの「構想力」はまさしく「交換」の「力」そのものだろう(悟性と感性の「交換」の図式なのだから)。三木も現象学的、存在論的「構想力」で、マルクスの価値形態論に対抗していたと、ひとまずいえると思う。

 柄谷は観念的上部構造の「自律性」を「力」として考えなければならない、と言っているが、その通りで、僕も感性ー悟性ー構想力の連関を為す、超越論的主観性の構造の問題は、マルクスの価値形態論を論じる時に必ず考えなければならない問題だと考える。デリダやジジェクもそう考えていたはずだと思う。特に『マルクスの亡霊たち』はそれに取り組もうとしている。ただ、突き詰めていくわけではないようにも思う。ジジェクはカントとマルクスをやはり主観性の問題とし、この主観の構造を無意識のシニフィアンの構造と置き換えているので、これも面白い。主観性というシニフィアンの構造が、「商品」というフェティシズムの源泉となっているというのは、まさしく主観性に経済的な「力」が宿っていることを主張していることになるだろう。この問題は19世紀後半から20世紀半ばまでは真剣に考えられており、これが廣松渉などにどうやって受け継がれたかは、僕は知らないので、廣松に詳しい人は教えてほしい。こういう具合に柄谷は「交換」に注目することで、観念的上部構造の「自律性」を重要視しているということが、上記文脈を想起させて、柄谷は歴史的かつ世界的な問題をきちんと考えているのだな、と思って読んだわけである。「交換」が主観の構造からなぜ外化されるのかは、弁証法的な問題なのかどうかも含め、考えなければならない問題だろう。

 しかし、僕はかつて柄谷の『トランスクリティーク』を読んだとき、上のこととは全く逆向きに面白いと思って評価していた。というのも、『トランスクリティーク』の柄谷は「交換」ではなく「使用価値」の中に、何らかの可能性、革命の可能性を見ていたように思ったからだ。当時僕は『トランスクリティーク』と『マルクスの亡霊たち』を読み比べていたのだが、前者は「使用価値」に、後者は「交換」の問題を中心に考えていたように思った。もちろんデリダは観念的上部構造の「自律性」というよりも、その主観性を「エクリチュール」の構造と読み換えており、「エクリチュール」の「自律性」を「交換」の「力」として読み換えていたのだと思う。それに対して、柄谷の『トランスクリティーク』は、「使用価値」の「自律性」に、世界を変える「力」を見ていたと思う。さらに、その二冊と同時に、アントニオ・ネグリの『マルクスを超えるマルクス』も比較して読んでいたのだが、柄谷はネグリのマルクス論に近く感じた。それに対して、デリダの「交換」のマルクス論が対置されて、僕の中では理解されていた。

 当時の僕は、前者の柄谷とネグリの「使用価値」のマルクス論の方に、デリダの「交換」のマルクス論を越えるような唯物性を感じており、柄谷とネグリの方が、きちんとマルクスの唯物弁証法と取っ組み合っているなという印象を抱いていた。この時期、この三冊のおかげで『資本論』を理解する上での、素人なりの道筋を教えてもらった。ただ、ただし、現象学や観念論、存在論を読むうちに僕は、観念的上部構造の「自律性」もある意味唯物的な「力」だよな、と思う所もあって、デリダの『マルクスの亡霊たち』の議論の重要性が、時間がたつにつれて僕の中では大きくなっていき、観念的上部構造としての超越論的主観性が、なぜ資本主義を可能にするような「力」を持っているのか、という問題を考えたいと思うようになった。だから、ネグリなどだけではなく、観念的上部構造の「自律性」を解明しようとしている思想家・哲学者の本を中心に読むようになった。シェリングとか面白い。

 そして久しぶりに柄谷の本を読んだら、「交換」を可能にしている、観念的上部構造の「力」や「自律性」に注目していることがわかり、僕の中で『トランスクリティーク』以来抱いていた思いがつながるような気持がしたのだ。柄谷は『トランスクリティーク』的な「使用価値」の「自律性」から、「交換様式」としての観念的上部構造の「自律性」に至ったのだな、と。

 僕自身この観念的上部構造の「自律性」や「力」とは何なのかはよくわかっていない。ただ、デリダがそれを「エクリチュール」の問題として考えたことは、面白いと思っているし、参考にし続けたいとは思っている。