史書から読み解く日本史

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後漢書と倭国

2019-02-13 | 有史以前の倭国
范曄の『後漢書』は、本紀十巻、列伝八十巻、志三十巻の計百二十巻から成り、倭伝は東夷伝の中に、夫餘・挹婁・高句麗・東沃沮・濊・三韓と並んで収められています。
その倭伝の内容を簡単に記すと、まず倭の所在地や、漢との関係についての説明から始まり、倭の国情や風習、後漢への訪朝の記録と続き、邪馬台国と女王卑弥呼について触れた後、江南の海上に点在するという複数の島々の話で終ります。
尤もその中で実際に後漢時代の倭伝と言えるのは、光武帝と安帝の代に於ける二度の訪朝の記録だけで、他の話はその殆どが『魏志』の倭人伝からの引用であり、本来独立した伝を立てるほどの内容ではありません。
ただ二度に渡る訪朝の記録に関しては、その史実としての確実性から言えば、これは倭人の国が初めて歴史上に現れた事例であり、倭国の歴史もまたこの時に始まったと言ってよいでしょう。
 
その倭伝には次のように書かれています。
 
建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬
建武中元二年、倭奴国貢を奉りて朝賀す、使人自ら大夫と称す、倭国の極めて南界なり、光武賜うに印綬を以てす
 
安帝永初元年、倭国王帥升等獻生口百六十人、願請見
安帝永初元年、倭国王帥升等、生口百六十人を献じ、請見を願う
 
まず倭国が後漢へ訪朝したという記録は、建武中元二年(西暦五七年)に倭奴国が世祖光武帝を朝賀して金印を下賜されたという、教科書にも必ず載っている有名な話に始まります。
これは倭人の国が初めて史書に記された事例であると同時に、倭人の国が初めて大陸の王朝と外交的に接点を持った歴史的な事件でもあり、以後倭人とか倭国と言えば、それは原則として日本人と日本列島を指すようになります。
この倭奴国の訪朝の折に光武帝から下賜された物と推定される一辺一寸四方の金印が、江戸時代に筑前国那賀郡志賀島から農民の手によって偶然発掘されたことは、日本人ならば知らぬ者のない話と言ってよいでしょう。
 
そして倭伝に記されたこの文章そのものは、一読すれば分かる通り特に難解というものでもありません。
しかしここに出てくる「倭奴国」という国については、果してこれがどういう意味なのか、つまりこれを何と読むべきなのかという点に関して、片や日本国内では昔から様々な意見が交わされているものの、今もって解答は得られていないのが現状です。
と言うより何年待っても正解など得られないでしょう。
一般的には「倭の奴国」と読ませるのが最も知られたもので、『魏志』の倭人伝に「奴国」という国が登場することもまた、この読み方が支持される要因となっています。
尤も当の倭人伝には、その奴国が後漢に入朝した倭奴国などとは一言も書かれていないのですが。
 
そこでこれには逆の見方もあって、魏の時代に倭との交渉を統括した機関が、後漢の外交の記録から予め倭奴国のことを知っていて、倭国へ赴く使者にその所在を確認するよう指示したため、発音のよく似た「ナのクニ(後の筑前国那賀郡)」に「奴」の字を充てたのだとも言います。
この場合、要はコロンブスと同じということになります。
また志賀島から発見された金印に「漢委奴国王」と彫られていたことから、この「委奴」を「イト」と読んで、同じく倭人伝に出てくる伊都国に比する意見もあります。
ただこうした日本側の見解とは裏腹に、当の漢語圏の方では他の史書に於いても一貫してこれを「倭奴国」としており、その意味するところは「倭の奴国」でも「委奴国」でもなく、国名もしくは民族名としての「倭奴」となります。
要は「匈奴」や「鮮卑」と同じ用法で、漢人にしてみればそれが最も自然な解釈でしょう。
 
続く「使人自稱大夫」と「光武賜以印綬」の箇所に関しては、ほぼ原文通りに読んで特に問題ないでしょう。
そもそも倭人の集団が後漢領内を勝手に洛陽まで旅行して、時の皇帝に拝謁を求めるなどという芸当が可能な筈もありません。
言わば金印が下賜されたという点も含めて、予め外交的な根回しは済んでいる訳ですから、この大夫を自称したという使者とその一行にしても、後漢側に全て段取りを整えてもらった上での入朝ででしょうし、またそうでなければ冊封になりません。
残る「倭国之極南界也」については、これをどう解釈すべきかという議論もあるようですが、今更この七文字をどう捏ね繰り回したところで、何か新しい発見があるとも思えないので、軽く読み流しておけばよいでしょう。
 
この後漢と倭奴国の交流のように、支那帝国と周辺の小国が接点を持つ場合、通常は最寄の郡が間に入って仲介の労を取ることになります。
では建武中元の頃の東方の行政区分がどうなっていたのかというと、本来倭国との折衝を担当すべきは東端の楽浪郡だと思われますが、後漢は他の地域に於いても辺境の統治を放棄していることが多く、実際に楽浪郡がどこまで機能していたのかについては余りよく分かっていません。
従って建国間もない頃の後漢で専ら東夷との外交を担っていたのは西隣の遼東郡で、ここでは蔡肜という人物が建武十七年(西暦四一年)から実に三十年にも渡って太守の職にあり、倭奴国の入朝は彼の働きに負うところが大きいようです。
 
次に永初元年(西暦一〇七年)の安帝の代の記録を見てみると、ここでは倭人の国の呼称が「倭奴国」ではなく単に「倭国」となっています。
しかし後述しますが、この「倭国」という国名は、中華思想に基づく外交用語としては有り得ないものであり、恐らく『後漢書』が写本を繰り返しながら後世に伝えられて行く過程の中で、何らかの手違いによって変換されたものだと思われます。
ただ現存する『後漢書』では確かに「倭国」となっていますが、同書を参考にしたと思われる書物の中には別の書き方をしているものもあって、倭奴国の読み方と同様に、これも今もって定説を見ていません。その中のいくつかを国名に続く「王帥升等」の箇所と併せて並べてみると、次のようになります。
 
まず唐代の『翰苑』では「有倭面上国王師升至」とあり、北宋版『通典』では「倭面土国王師升獻生口」、『唐類函』の通典引用の条では「倭面土地王師升獻生口」とあります。
「帥」と「師」、「上」と「土」に関しては写本の際の誤植かと思われますが、別にどちらであろうと大して変りません。
また日本側の資料では、『日本書紀纂疏』に「倭面国」「倭面上国王師升等」とあり、『釈日本紀』開題には同じく「倭面国」とあります。
そして『日本書紀纂疏』では、「倭面」の国名の由来として、国民に黥面の風習があったので、「面」の字を入れたのだと解説しています。
また読みようによっては、これは通常「倭」と呼ばれた地域とは別の「倭面土」という土地(民族)だと解釈することもできるでしょう。
 
では実のところ安帝の代に入朝した倭人の国が、本来漢人から何と呼ばれていたのかとなると、これは『後漢書』の原本や後漢朝の外交記録が現存していない以上、今となっては知る由もありません。
加えて「倭国王帥升等」が「倭国(或いは倭面国)王の帥升等」という意味だとすると、これは国名ばかりでなく君号も含めた問題となります。
もしこれが范曄の生きた宋代ならば、倭人の王が南朝に遣使して「倭国王」叙爵を受けていた時期ですから、「倭国」や「倭国王」という言葉も外交上普通に使われていたでしょうし、特に南朝は河北を北朝に占領されていることもあって冊封には甘かったので、倭王の求めるままに「倭国王」の称号を与えたことが南朝側の史書にも記されています。
しかし統一帝国である後漢の治世に、果して倭人の王に「倭国王」の称号が認められたかどうかとると、やはり可能性としては低いと言えるでしょう。

因みに「倭王」の称号は、後に邪馬台国の女王が魏から「親魏倭王」の王号を与えられたように、単に倭人の王であることを示したに過ぎず、「族長」や「酋長」の意味もあるので比較的認められ易いものです。
またそれとは別の用法として、帝国内で皇族や功臣を地方の領主として封ずる際に、「韓王」や「楚王」などの王号が与えられる場合もあります。
それに対して「倭奴国王」や「倭面国王」といった二字国名の王号は、原則として中国へ臣従した四夷の王に与えられるもので、格から言えば「倭国王」とは比べるべくもありません。
従ってこの安帝の代の「倭国」という箇所については、やはり何らかの脱植があると考えるのが自然でしょうか。
 
それに続く「王帥升等」の四文字もまた見解の分かれる箇所であり、多くの訳文を見る限り「帥升」を人名と捉えて、そのまま「倭国王の帥升ら」と読むのが一般的なようです。
但しその場合「倭国王」の称号が疑問であることは既述しました。
また倭国は後漢から見れば小国とは言え、やはり王自らが海を渡ったとは些か考え難いこともあって、これを「倭国の王帥(王師)の升ら」と読む(或いは「升等」までを人名と読む)べきとする意見もあり、やはり定説を見ていません。
逆に王自ら海を渡ったのが事実ならば、むしろその倭面とか倭面土などと言われた国は、倭の地にあっても余り大した国ではなかったか、倭奴国とはまた異なる土地の国だったのかも知れません。
 
もともと漢文の書籍というのは不親切この上ないもので、いつの時代にも数多くの注釈書が作られているというのは、注釈を入れなければ漢人でさえ読めない語句や、意味の通じない文章が余りに多いからであり、これが史書ともなると著者当人にしてからが事の本質を理解していなかったのではないかと思われる箇所も多々あります。
まして非漢人の諸民族について記した文書などは、その人名や地名が尽く当て字である上に、その読み方についての解説も一切付かないのが普通なので、現実には(著者も含めて)四夷伝を正確に読める人間など(その史書が完成した直後から)唯の一人もいないのが実情です。
 
では倭奴国と倭面国という、五十年の時を隔てて共に後漢へ訪朝した倭人の国は、果して倭の地にあってどんな関係だったのでしょうか。
倭伝の文面だけで捉えると、倭奴国は金印を下賜されたのに対して、倭面国は「願請見」で終っていますから、一読した限りでは倭奴国の方が重んじられたようにも見えます。
しかし倭奴国が殊更に厚遇されたのは、専ら後漢建国の余沢によるものなので、それを理由に両国の軽重を量ることはできないでしょう。
無論この両者を同一視する向きもあって、『隋書』では光武帝と安帝に朝貢したのはどちらも倭奴国だと記しており、むしろ支那ではこの立場を取る方が一般的だと言えます。
因みにこの千三百年後、日本では明からの冊封を巡って懐良親王派と足利義満が争ったりしていますが、どちらも国王ではないにも拘らず明帝から「日本国王」の称号を与えられており、実のところ大陸の王朝との関係というのも甚だ当てにならないものなのですが。
 
また外交的な観点から、倭の使者がこの二帝の代に後漢の地を踏んだ理由を見てみると、光武帝の場合これははっきりしています。
王莽による簒奪後の乱世を平定して、劉氏の漢を再興した光武帝ですが、倭奴国の入朝した建武中元二年というのは、他ならぬ帝の崩じた年に当たります。
言わばその在世に何とか間に合った訳で、何しろ東の海上の民が遠路遥々首都洛陽を訪れて、有史以来初めて中夏の天子に拝謁するとなれば、やはり時の皇帝は世祖光武帝でなければ意味がないでしょう。
ましてこの前年に光武帝は封禅の儀を執り行っており、建武中元という年号もそのための改元でしたから、それを受けての倭人の入朝は帝にとっても感慨深いものであったと思われます。
 
但し当時の倭人がそうした後漢側の事情を慮ったとも思えないので、やはり基本的には漢人の方から倭人に接触を試みたと見るのが自然であり、従って倭王の入朝という空前の慶事に際しては、遼東太守の蔡肜を始めとして、直接の折衝に当たった郡の役人に至るまで、臣下の並々ならぬ尽力があったものと思われます。
やがて光武帝の直系は第五代殤帝で途絶えて、三代章帝の孫を六代皇帝として迎えることになりますが、それが弱冠十三歳の安帝であり、父はかつて讒言によって章帝の皇太子を廃された清河王劉敬でした。
そして倭人が再び朝貢した永初元年とは、他ならぬ安帝の元年(即位はその前年)に当たり、光武帝同様に帝位の系統が代った年でもあります。
正にその好機で倭面国の訪朝が実現した訳ですから、やはりこれも倭人の方から自発的に赴いたというよりは、郡太守なり官僚なりが気を利かせた可能性が高いと言えるでしょう。
 
尤も後漢の場合、第四代和帝以来、成人に達してから即位した皇帝は一人もおらず、安帝以降も帝位の系統が安定することはなかったのですが、永初以後に倭人関連の記録が途切れてしまうのは、むしろ後漢の方がそれを必要としなくなったからでしょう。
只でさえ後漢は、前漢に比べて(シルクロードを除けば)余り海外に関心がなく、辺境の統治でさえ外藩や現地の異民族による自治に任せていたくらいなので、基本的に海の向こうの未開人のことなど、朝廷という狭い世界で権力闘争に明け暮れる朝臣達の思考の中にはなかったと言えます。
因みに永初元年は建武中元二年から数えて五十年の節目に当たりますが、これは単なる偶然のようです。

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