史書から読み解く日本史

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垂仁天皇:敦賀の物語

2021-01-15 | 古代日本史
『日本書紀』垂仁紀の冒頭に語られる任那と新羅に関する伝承は、任那が蘇那曷叱智を遣わして朝貢して来たという崇神紀の末尾に付せられた挿話から続くもので、本文の他にもいくつかの異伝を併載します。
まず本文に言うところでは、垂仁帝が即位して間もない頃、蘇那曷叱智が国へ帰りたいと申し出ました。
先皇の世に来朝して未だ還らなかったのでしょうか。
そこで垂仁帝は彼に敦く賞し、赤絹百匹を齎して任那王へ贈らせました。
然るに新羅人が道を遮ってこれを奪ってしまい、両国の遺恨はこの時に始まったといいます。

また「一に曰く」として次のような話を伝えます。
崇神帝の世に額に角の有る人が一つの舟に乗って越国の笥飯浦に着きました。
故にその他を名付けて角鹿と言います。
何れの国の人かと問うと、答えて言うには、大加羅国の王の子、名は都怒我阿羅斯等、またの名を于斯阿利叱智干岐と言う。日本国に聖王が有ると伝え聞いて帰化した。穴戸に到った時、その国の伊都都比古が臣に語って言うには、吾はこの国の王である、吾を除いてまた二人の王はいない、故に他処へ往ってはならぬと。しかし臣がつらつらその為人を見るに、必ずこれは王ではあるまいと知った。そこでそこから立ち去ったが、道路を知らなかったので、嶋浦を流浪しながら北海を廻り、出雲を経てここに至ったと。

ほぼ時を同じくして崇神帝が崩じたため、そのまま留まり垂仁帝に仕えて三年が経ちました。
帝が都怒我阿羅斯等に国へ帰りたいかと問うと、願わくは帰りたいと答えたので、帝は詔して、汝が道に迷わず速く詣で来ていれば、先皇に遭って仕え奉れたことだろう、これよりは汝の本国の名を改めて、御間城天皇の御名を取って汝の国の名にせよと言い、赤織の絹を阿羅斯等に賜って本土へ返しました。
故にその国を号して弥摩那国というのは、この縁によるものです。
阿羅斯等は賜った赤絹を自国の府庫に収めたが、それを聞いた新羅人が兵を起してやって来て、その赤絹をみな奪ってしまいました。
両国が相怨むようになったのはこれが始まりだといいます。

どちらも大体の流れはほぼ同じで、とある天皇の晩年に任那の王子が国使として日本へ渡って来て、しばらく次の天皇に仕えた後に本国へ戻って行ったのですが、帰国の際に天皇から下賜された品々を新羅人が奪ったため、これを機に両国の遺恨が始まったという話です。
因みに『古事記』では、角鹿(敦賀)の地名にまつわる伝承について、垂仁帝ではなく仲哀帝の項に、武内宿禰と太子(応神帝)が若狭に赴いた折、太子と気比大神が名を交換した逸話に絡める形で出てきます。
同じく『日本書紀』では、仲哀帝が敦賀に巡幸した際に建てた行宮を笥飯宮と呼んだという話が仲哀紀に見えます。

また『日本書紀』では「一に云はく」として、更に次のような話を伝えます。
都怒我阿羅斯等が国に居た時、飼っていた牛が急にいなくなったので、足跡を追ってとある村に入って行くと、その村の人々が殺して食ってしまったといいます。
村人が物で償うと言ったので、阿羅斯等は村で祀られている神を所望し、牛の代価として御神体の白い石を得ました。
その白い石を持ち帰って寝所に置いたところ、石は美しい娘になりました。
阿羅斯等は大いに喜びましたが、少し離れている間に娘は失せていました。
阿羅斯等は大いに驚き、娘はどこへ行ったかと妻に尋ねると、妻が答えて言うには東の方へ行ったといいます。
そこで尋ね追い求めて行くうちに、遂に遠く海を越えて日本に入りました。
その求めていた娘は、難波に至って比売語曾社の神となり、または豊国の国前郡の比売語曾社の神になったといいます。

続いて『日本書紀』本文では、新羅の王の子の天日槍が帰化した話を載せます。
天日槍が持参したのは、羽太の玉一個、足高の玉一個、赤石の玉一個、小刀一口、桙一枝、日鏡一面、熊の神籬一具、合せて七点あり、それらを但馬に蔵して神宝にしたといいます。
また「一に云はく」として次のように記しています。
初め天日槍は艇に乗って播磨に着きました。
帝が使者を遣わして「汝は誰か、また何れの国の人か」と問わしめると、天日槍は答えて「僕は新羅国の主の子である。しかし日本に聖皇があると聞き、自国を弟の知古に授けて帰化した」と言い、三種の珠、刀子、槍、日鏡、神籬、太刀の八物を奉りました。
帝は好きな土地に住むことを赦し、天日槍は自ら諸国を巡り視て但馬に居を定めたといいます。

一方の『古事記』では、新羅の国主の子の天之日矛が渡って来たという話を、「昔」と前置きした上で応神帝の項に挿れています。
尤もそこで語られている内容は、前記の都怒我阿羅斯等が娘を追って日本へ渡って来た話とほぼ同じもので、記紀の間で阿羅斯等と天之日矛の伝承に混同が見られます。
一方で記紀共に天日槍は但馬に居を構え、その後も代々「タジマ」の名を冠する子孫が栄えたとする点は同じで、垂仁帝が常世の国へ遣わしたという田道間守は、日槍の玄孫に当たるといいます。
無論垂仁帝の代に帰化した者の玄孫が、同じ主君に仕えられる筈もないので、この設定は日槍か田道間守のどちらか一方、もしくはその両方の時系列に狂いが生じているのは言うまでもありません。

ではここに記されているように、蘇那曷叱智または都怒我阿羅斯等という加羅の王子と、天日槍という新羅の王子が渡来したのは、果して垂仁帝の治世の出来事なのでしょうか。
実質的な初代天皇である崇神帝と、次代垂仁帝の在世というのは、女王卑弥呼の時代から少し間を置いた、西暦三世紀の後半から四世紀前半頃と推測されます。
しかし日本と朝鮮半島における国家間の交流が、ある程度信頼できる史料によって確認できるのは、最も古いものでも四世紀の後半以降のことであり、現時点では記紀に記された崇神・垂仁両朝と朝鮮との関係を裏付けるだけの証拠はありません。

また大和朝廷が日本を統一するのは、崇神帝の孫の景行帝の代なので、仮に加羅や新羅の王子が崇神・垂仁両帝の時代に大和へ来朝していたとしても、それは統一王朝の帝王に対する外交ではなかったことになります。
ただ未だ統一王朝ではなかったにせよ、当時の大和が既に日本有数の勢力であったことは間違いないので、例えば後の戦国時代に日本へ入国したキリスト教の宣教師が、豊後の大友氏など九州の諸大名の城下で布教を始めたものの、京都に真の王がいると知って向かった先で信長に拝謁したように、加羅や新羅の国使が東の大国大和を目指したのは何ら不思議な話ではありません。
むしろ都怒我阿羅斯等が初め穴戸に留まり、やがて大和へ辿り着いたという件などは、それを如実に表しているとする見方もあります。

しかし少なくとも加羅の王子の来朝に関しては、記紀共に敦賀にまつわる逸話が仲哀帝の項にも見えるように、恐らくこれは崇神帝ではなく、景行帝の事跡と捉えるのが妥当ではないでしょうか。
要は四世紀の後半頃、新興の新羅や百済の脅威に曝されていた加羅が、景行帝の下で統一された日本に加護を求めたと考える方が、その後の日本と朝鮮半島の情勢を鑑みても、ほぼ時代的に合致するからです。そして景行帝が崩じた後、成務帝に仕えていた加羅の王子が帰国するに当たって、太子の足仲彦尊(仲哀帝)に敦賀まで送らせたのでしょう。
また本来これとは別の故事として、任那の国名は御間城天皇に由来するという伝承もあったが故に、『日本書紀』の編者がこれらの話を取捨選択して、そのまま垂仁紀に入れてしまったものと思われます。


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