史書から読み解く日本史

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江南からの渡来人と倭人

2019-02-09 | 有史以前の倭国
では実際に大陸からこの列島へ次々に移住した人々は、どのような集団がいつ頃どうやって渡来したのでしょうか。
無論今となっては史実など知る由もないのは当然として、家族単位のような至って小規模の移住を別にすれば、主要言語がアイヌや北米と同系の縄文語から、大陸発祥の膠着語に代っていることを考えても、やはりこの列島の主要民族を一変させるような、かなりの規模での民族大移動があったと見るのが妥当でしょう。
そして日本列島への民族移動が(恐らく一度ではなく幾度かに分けて)起きていたとすれば、大陸の遥か西方で起きたゲルマン民族の大移動のように、それを誘発した何らかの政治的な圧力が大陸側に存在した筈です。
或いは気候変動なども可能性の一つとして考えられなくはありませんが、ここでは想定しません。
 
元より中国側の史料には、やがて倭人の祖先となるであろう人々が、集団で海の彼方へ移住したことを示唆するような記録は見当たりません。
しかし支那大陸の歴史の要所で起きた事柄と、多くの移民が日本列島へ渡来したと推測される時期を見比べたとき、その関連性を指摘できるような接点もまたいくつか見出せるのです。
それ等を古い順から追ってみると、まず江南から日本列島への移住を考察する際に、それを引き起こしたと思われる事件の一つとして、西暦紀元前四七三年に起きた呉の滅亡があります。
当時諸国間でも有数の大国だった呉が、突如としてこの地上から消え失せてしまったことは、天下の形勢を一気に塗り替えてしまうほどの大事件でした。
 
春秋時代の南方の雄である呉国は、周の文王の長兄太伯と次兄の虞仲を始祖とする国で、三兄弟の父である古公亶父は末子の季歴(文王の父)を周の後継者にしたいと欲しており、その意を察した太伯と虞仲が末弟に国を譲って江南へ移り住み、現地の豪族連に推戴される形で建国したのが起源だと伝えます。
建国当初の国名は句呉と言い、長兄の太伯が初代の国主となりますが、太伯に子がなかったため弟の虞仲が後を継ぎ、虞仲から数えて十八代目の寿夢の代に初めて呉王を称し、国名を呉と改めています。
その国土は長江の河口域で、ほぼ現在の上海付近に当たり、西方の長江上流域に楚国、南方の杭州付近に越国がありました。
 
太伯と虞仲が出奔した頃の長江流域は、河北の人々から荊蛮と呼ばれていた地で、後に二人を呼び戻そうと周から迎えが来た際には、当地の風習に倣って、髪を剃り刺青を彫ることで帰郷の意思がないことを示したといいます。
断髪文身は素潜り漁をする江南地方の海士達の風習で、倭人もこれとよく似た民俗文化を持っていたことから、後年漢語の書籍内に倭人を語った箇所では決まって江南との類似性が示されており、それが「倭人は呉の太伯の子孫」という伝承の由来ともなっています。
因みに大陸の史書の中には、倭人が太伯の子孫を自称しているという記述も見られますが、果して当時の倭人が周王室を自らのルーツと認識していたかどうかは疑わしいでしょう。
尤も後年日本の出来星大名が、米穀を積んで旧名家から系図を買い、誰もが競って某王臣家の末裔などと称したように、実のところ春秋戦国の系譜などというのは些か当てにならない事例が多いのも事実なのですが。
 
呉が全盛期を迎えるのは、寿夢から六代目の呉王闔閭の代で、楚からの亡命貴族である将軍伍子胥と、軍師孫武(孫子)を擁した呉は大躍進を遂げ(書物によっては闔閭を春秋五覇の一人に数える)、大国の楚を滅亡寸前にまで追い詰めるなど、一気に天下の南半分を制圧しそうな勢いにまで成長しました。
しかし闔閭率いる呉軍が楚の最深部にまで兵を進めて首都郢を陥落させた頃、王不在の隙を衝いて越王弁常が呉に攻め入ると、それに乗じて王弟の夫概が呉を乗っ取ろうとする事件が起きました。
その後の経緯については、臥薪嘗胆の故事でも知られる通り、余りに有名な史話なので、ここでは省きます。
そして前記の如く紀元前四七三年、越王勾践(弁常の子)の率いる越軍に包囲された呉王夫差(闔閭の子)は自刎して果て、ここに周の太伯以来の名門呉は滅亡し、その領土は越に併合されました。
 
呉越同舟という諺にもある通り、呉と越は犬猿の仲だったため、後年秦の統治に甘んじなかった燕人が朝鮮へ移住したように、越が呉王室を廃して呉の全域を占領すると、越人による支配を拒んだ呉人の多くが国外へ逃亡しました。
無論その多くは北の大国斉や、中原の古豪国へ散って行った訳ですが、そうした周辺の諸国は同時に長年の宿敵でもありましたから、恐らくは中国を捨てて海外の新天地に活路を求めた人々も数多く居たものと思われます。
そしてその遥か昔から、縄文人や南方の海洋民が小舟に乗って大海を渡航していたことを思えば、戦艦の建造や操舵にも精通していた呉人が一族や種籾と共に東シナ海を越えるのは(危険は伴うとは言え)、無謀な蛮勇と言うほどの冒険ではなかったでしょう。
実際に日本列島に於ける稲作の普及と呉の滅亡は、ほぼ時期が一致しています。
 
稲作が日本へ伝えられた経路については、江南から直接日本へ伝わったとする説と、山東半島から朝鮮半島を経由して入って来たとする説が、今のところ最も可能性の高い順路とされていて、実際この二つの航程はどちらであろうと大差はありません。
かつては稲作伝来の道順について、まず江南から朝鮮半島に伝播して、弥生人の移住と共に日本へ導入されたとする説が一般的でしたが、常識的に考えればこの解釈に無理があるのは誰にでも分かります。
無論水稲が初めて日本へもたらされた時期と、この列島で広く普及した時期との間には、多少の時間差があることを考慮する必要はあります。
しかし朝鮮半島経由の渡来人とは別に、江南からの渡来人もまたこの列島へ移住していた事実を鑑みれば、やはり江南発祥の水稲が朝鮮と日本の両地へ輸入されたのは、どちらか一方が遥かに先だったという類の話ではないでしょう。

因みに後年の日本の遣唐使の渡海航路は、稲作伝来で想定されるものと全く同じです。
遣唐使には大きく分けて三つの航路があり、いずれの場合も九州北部を出発した後、朝鮮半島の南岸から黄海を渡って山東半島へ上陸する北航路、そのまま東シナ海を横切って江南へ上陸する中航路、一度九州南部から奄美諸島へ南下した後に東シナ海を北上して江南へ上陸する南航路です。
江南に於ける主要な上陸地は蘇州もしくは寧波(明州)で、これはそのまま春秋時代の呉と越の本領に当たります。
そしてこの航路は大陸側から見ても基本的に同じなので、千年以上の時を超えて変らぬ足跡が明白になっています。
 
その後に再び江南で大きく情勢が変ったのは、呉の滅亡から約百四十年後、楚の威王によって越が滅ぼされた(厳密に言えば、その後も越王家は逃亡先で三十年ほど存続した)時で、斉との国境付近まで版図を拡大していた越の消滅によって、支那大陸の南半分は海に至るまで楚一国に平定されました。
ただ周人を始祖とする呉国と違って、もともと越国は南方から長江流域に進出して来た勢力だったので、楚に追われた後は元来た道を南へ逃散しており、恐らく越滅亡後の越人と倭人の間には殆ど関係がありません。
しかし楚・呉・越といった江南勢と、中原諸国や斉といった河北勢との間で度々戦場となったため、淮河と長江の中下流域一帯はすっかり荒廃してしまい、もともと同地に住んでいた人々の中には、長引く戦乱を逃れて流浪する者も多くいました。
或いはそうした民衆の中にも、山東半島を経て倭の地へ渡来した集団があったかも知れません。
淮河と長江の流域はその後も長く復興しないまま放置された荒地が随所にあり、後年漢の武帝が東越人を同地へ集団移住させたのは、そうした背景に因るものです。

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