史書から読み解く日本史

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烏丸と鮮卑

2019-02-19 | 有史以前の倭国
東夷と並んで『魏志』に録された烏丸と鮮卑について軽く触れておくと、かつて秦末から前漢初期にかけて、支那大陸の北の平原に強大な勢力を張っていたのは、漢帝国にとって最大の外敵でもある匈奴でした。
やがて漢の武帝が匈奴を駆逐し、北の国境はやや平穏になったものの、漢帝国が総督を派遣して匈奴の放牧地を支配した訳ではないので、依然として匈奴が遊牧民の中では最大の脅威であることに変りはありませんでした。
やがて帝室の外戚出身の王莽が漢を簒奪し、自ら皇帝を称して国号を新と改めた頃、支那大陸が混乱の時代を迎えたのとほぼ時を同じくして、匈奴は単于の座を巡る内紛によって南北に分裂しました。
尤も匈奴の内紛はこの時に始まったことではなく、もともと遊牧民は一つに纏まっている方が珍しいくらいなので、よほど統率力に優れた単于の下でもない限り、むしろ内部では互いに対立しているのが常態でした。

そして大きく南北に分裂した匈奴でしたが、その後は新生後漢も巻き込みながら、南北両匈奴と後漢との間に紆余曲折を経て、南方の勢力が後漢に服属することで落ち着きました。
これが『後漢書』に伝を設けられた南匈奴で、以後は長く支那王朝の藩屏として塞内(長城の内側)に居住することを許され、後漢の下で北匈奴や鮮卑の討伐にも参加しています。
その南匈奴の放牧地は、ほぼ現代の内蒙古自治区の南西部に当たり、広大な蒙古高原を疾駆する北匈奴と、支那大陸に君臨する後漢の間にあって、漢人にとっては有効な防波堤となっていました。
また北匈奴がその後も純粋な遊牧民だったのに対して、南匈奴は遊牧民としての風習や気質を残しつつも、次第に南方の漢文明に感化されて行き、全く異なる二つの文化の狭間にあって、独自の民族文化を形成して行きました。
やがて南匈奴は単于自らが劉姓を名乗り、晋末には国号を漢と称して晋朝から自立し、これが五胡十六国時代の幕開けとなりますが、それはまた後の話です。

一方の北匈奴はと言うと、敵対する南匈奴が後漢に服属したことで、その双方から共通の敵と見做されたため、度々両者から討伐を受ける羽目になりました。
またかつて臣従させていた烏丸と鮮卑が勢力を増していたことから、その両者からも侵犯を許すようになり、特に鮮卑には単于を斬り殺されるなど、次第に遊牧民の覇者としての地位を保てなくなって行き、時の流れと共に歴史の表舞台から消えて行きました。
そして一時的に空白となった北匈奴の土地は、漢帝国と国境を接する地域(内蒙古自治区の北東部付近)には烏丸、蒙古高原には鮮卑が流入して、晋代まで続く北方の民族地図がほぼ出来上がっています。

もともと烏丸と鮮卑は東胡の末裔とされ、かつて匈奴が東胡を滅ぼした際、敗走した勢力の一派が烏丸山(烏桓山とも。『魏志』は烏丸と記しますが、烏桓の表記が一般的)と鮮卑山に拠ったのが起源とされます。
その後は両者共に匈奴へ従属しており、漢側の史料にも幾度か登場していますが、『魏志』の評に「匈奴遂に衰えて、更に烏丸鮮卑有り」とあるように、漢人から主要な外勢として認識されるようになったのは、北匈奴が衰退してからのことです。
 
両者のうち、漢人と親密な関係にあったのは烏丸の方で、後漢建国から間もない頃に大人(単于)以下九千人が洛陽を訪れて、漢に服属する意向を示したと史書に伝えています。
以後烏丸は南匈奴と同じく塞内に居住することを許され、後漢朝から自治と所領の安堵を許される見返りに、漢帝国の藩屏として辺境防衛の任に当たることになりました。
この辺りの経緯については不明な点も多いのですが、南匈奴が強大な北匈奴から身を守るために後漢の庇護を求めたように、烏丸もまた漢の傘下に加わることで保身を図ったというのが最も真相に近いと見ていいでしょう。
その後も烏丸は西隣する南匈奴と並んで、後漢の外藩として鮮卑を討伐したり、時には遊牧民らしく後漢の村落を略奪したりしていますが、特に漢人から危険視されるような存在となるでもなく、後漢時代を通して比較的その関係は安定していたと言えます。

烏丸が躍動するのは後漢末で、朝廷内の混乱によって後漢の統治力が衰えると、それに乗じて漢領内に侵入することも多くなり、漢帝国の一部を占領するほどの勢いを見せた時期もありました。
また烏丸は塞内に居住地を与えられていたため、この頃になると漢風の氏名を称する烏丸族も珍しくなく、中山太守の張純が反乱を起こした際には、これに与して各地を荒らし回るなど、次第に漢人と烏丸の垣根さえ曖昧になって行きました。
その後は漢軍によって討伐されたり、爵位や下賜で懐柔されたりしながらも、西の姜族と並んで後漢末の合従連衡の一角を担う存在として、漢人の軍閥と共に史書の中にも度々登場しています。
但しその烏丸も遊牧民のご多分に漏れず、複数の族長が各々王を称するなど、巨大化するに従って内紛が絶えなくなり、それも混乱の続く後漢には救いとなっていました。

烏丸に転機が訪れるのは、曹操が天下有数の実力者として台頭してきた頃で、始め烏丸の首長等は名門の袁紹と結んでおり、公孫瓚との争いに苦戦していた袁紹もまた烏丸を厚遇していました。
やがて公孫瓚を滅ぼした袁紹は、并州・冀州・幽州・青州の四州を支配下に置き、許昌に献帝を擁して同じく司隷・兗州・豫洲・徐州の四州を統治する曹操と河北を二分する勢力となりました。
しかし建安五年(西暦二〇〇年)、事実上の天下分目の決戦となる官渡の戦いで袁紹は曹操に敗れ、その二年後に袁紹が没すると、袁家の凋落は誰の目にも明らかとなり、曹操の覇権はほぼ確実な情勢となっていましたが、烏丸は引続き袁紹の子等と良好な関係を保っていました。
尤も当の袁家の方は、袁紹が後継者を決めぬまま急死したため、長子の袁譚と三子の袁尚の間で家中を二分する争いが起き、それを好機とした曹操に双方を個別撃破されて崩壊しています。

曹操率いる官軍が袁紹亡き後の袁家を征討すると、敗れた袁尚は各地を転々とした後、烏丸の大人楼班を頼って落ち延び、烏丸は袁家との義理を重んじてこれを匿いました。
当然曹操は袁尚以下の引渡しを求めたましが、烏丸側がこれを拒否した上に、袁尚に助力する構えを見せたことから、許昌と烏丸との間で不穏な空気が流れ始めます。
そして建安十一年(二〇六年)、遂に曹操は烏丸征伐の軍を興し、翌年には敵将蹋頓(楼班の族兄で烏丸王。曹軍に敗れて斬られる)を破って烏丸を降伏させると共に、袁家の残党を掃討して河北を統一しました。
この烏丸遠征は曹操の業績の中でも特に重要なもので、古来最高権力者が自ら大軍を率いて遊牧民の土地へ攻め入るなどというのは前例がなく、こうした縁故や血統に依らない真の実力こそが、後漢内での曹操の存在を不動のものとした訳です。
この翌年に曹操は三公の制を廃止し、自身は丞相に就任することで朝廷内を完全に掌握しており、或いはこの建安十三年を以て魏の武帝の元年とも言えるでしょう。

烏丸平定後、曹操は烏丸の各部族を更に内地へと移住させ、烏丸兵を自軍の騎兵として編成しました。
やがてこの烏丸兵は、黄巾の残党を主力とする青州兵と並んで、曹軍の精鋭として各地の戦場で名を馳せることになります。
もともと曹操は乱世の英雄らしく、相手の家柄や過去に拘ることなく、その人間に才能があれば登用したので、烏丸や黄巾が重用されたのは何ら不思議ではありません。
むしろそうした柔軟な人材発掘が、他を圧する曹操の大躍進を支えていたのは事実です。
そして曹操のこうした方針は、その後も魏と晋に受け継がれて行った訳ですが、烏丸兵の成功を間近に見た晋は、更に進んで諸民族を傭兵として雇い入れ、晋朝の内乱にまで彼等を駆り出すようになりました。
しかし帝国側は漢人の流す血の量を少なくでき、異民族側にとっても危険ではありますが稼ぎのいい仕事なので、初めのうちこそ双方が利点を共有し合っていましたが、次第に官軍内で傭兵の占める比重が増してしまうのは避けられず、結果的にこれが五胡十六国の遠因ともなっています。

一方の鮮卑はと言うと、恐らく実質的に北の大地から匈奴を放逐したのは、鮮卑とその配下の諸族で、東胡の片割れである烏丸が塞内に居住したのに対して、鮮卑は民族を挙げて匈奴の去った蒙古高原へ移動し、匈奴の後継として(民族全体では)遊牧民の覇者となりました。
但し鮮卑内でも諸部族の自立性が強かったのに加えて、急激に領土が拡張した者の常で、その後は各部族が独立して相争うようになり、それを纏め上げられる部族も現れなかったため、民族全体では広大な土地を占拠しつつも、終にそれを一個の強大な勢力にすることはできませんでした。
ただそれは逆に言えば、各部族がそれぞれ以前とは比較にならぬほどの放牧地を得たことで、部族単体でも他の遊牧民と張り合えるまでに成長したということでもあり、後に拓跋部鮮卑が五胡十六国の勝者となったのは、そうした民族としての層の厚さも要因の一つに挙げられます。

後漢や魏との関係を見ると、南匈奴や烏丸が緩衝地帯となっていたこともあり、かつての匈奴ほどには漢人の脅威になっていません。
また諸部族が対立していたのも漢人には幸いして、同じ鮮卑族でも中国を敵視する部族もあれば、逆に中国と誼を通じようとする部族もあるなど、外交的には比較的扱い易い状況でした。
むしろ中国にしてみれば、下手に刺激して鮮卑が一つになってしまうよりは、諸部族間で争っていてくれた方が都合がいい訳で、特に三国鼎立時代の魏は、背後に呉と蜀が構えていたこともあり、時として鮮卑の諸部族が略奪等の悪行を働いても、なるべく武力の行使は控えるようにしていました。
一方の鮮卑にしても、余り挑発の度が過ぎて、魏に征伐軍など興されても困るので、常に様々な問題を抱えつつも、中国と全面的な戦争になり兼ねないような行動は控えていました。
要は双方が自主的な抑制を働かせながら、互いに実害の出ない範囲で共存していた訳で、それは魏に代って晋の世となっても暫くは変りませんでした。

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