史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

山海経の世界と倭人

2019-02-06 | 有史以前の倭国
かつて大陸の人々から倭と呼ばれた存在が、ようやく漢籍上に記載されたのは、やはり『山海経』の記録が初見でしょうか。
『山海経』とは、漢代より伝わる古代支那の地理書で、春秋戦国期の内外の地勢と、各地の山川やその土地の神々、動植物や鉱物資源、諸民族やその風俗等を解説します。
書名の「山」は国内の山々を、「海」は海外を差し、東周の首都洛陽から四方へ連なる山岳について記した「五蔵山経」、周文化圏の外へと続く四海について記した「海内経」「海外経」「大荒経」など計十八巻から成ります。
尤も地理書とは言うものの、全編を通してそこで語られているのは、希少な金玉や神仙の草木に始まり、実在しない禽獣虫魚、凡そ人とは思えぬ容姿をした異民族、鬼神や怪物といった殆ど空想上の世界であり、決して実用書ではありません。

『山海経』の各経は、「海内北経」や「大荒東経」といった具合に、それぞれ東西南北等によって更に分けられていて、実在の地名や地形等についても収録されているとは言え、あくまで同書は専ら前記のような魑魅魍魎の類を描くために作成されたものであり、作者が伝えたかったのも当然後者になります。
従って地理書と言うよりは、むしろ壮大な神話集とも言うべき書物ですが、太古の人々の思想を知る上では貴重な資料でもあり、世代を超えて多くの識者が同書の世界観に魅了され、日本の物語等へも少なからず影響を与えています。
しかも全くの虚構かと言えばそうでもなく、個々の挿話の中には周代の史実もまた含まれていて、そうした虚実入り混じった神秘性こそが『山海経』の魅力であり、奇書としての扱いを受けながらも、散逸することなく後世に伝えられた所以でもあるでしょう。

『山海経』の世界は、最も古いとされる「五蔵山経」を中心に、「海内経」「海外経」「大荒経」の三経が、(部分的に重なる場所もありますが)ちょうど射撃の的のように幾重にも円が連なるような形で構成されており、それは周王即ち天子を中心に、諸侯・外藩・四夷といった諸人がそれを囲むように配された周朝の世界秩序をそのまま表現したものと言えます。
従ってその編修の過程としては、まず周代の山岳信仰が源流とされる諸山の峰谷にまつわる神話や伝説があって、そこへ諸侯国を介して収集した外界についての些か幻想的な伝承等を振り分ける形で進行したものと思われます。
或いはその過程の中で、本来の主題であった地理解説と、付録的な趣向であった空想部分との比重が逆転したのかも知れません。

但しこの『山海経』は著者不詳の書であり、成立の年代もまた不明とされていて、恐らくは一人の作者の手によるものではなく、その根幹となる部分(山経)が戦国期に形成された後、複数の編者によって加筆修正を繰り返されながら、漢代中期頃に初版が完成したものと推定されています。
著者については一説として、最終的に同書を纏め上げたのは漢代の高名な学識者で、その内容が余りに奇抜であったが故に自らの官姓名を公表せず、敢て匿名で世に送り出したのだとも言います。
確かにこの『山海経』に集録されている情報の量は膨大なもので、これ等を編集して書籍化するのは並大抵の労力ではなく、やはりそれなりの地位と財力がなければ厳しいと言えるでしょう。

例えば周代より伝わる書物の多くが(孔子に代表されるように)民間で作成されたのに対して、漢代初期に成立した各書はその大半が権力に近い場所で編纂されています。
これは長引く戦乱も然る事ながら、秦の行った焚書によって周代の貴重な書群が尽く失われてしまったため、災禍を免れた諸文書を公権力によって再び全国から収集しなければならなかったからです。
そして『山海経』のような書物が作成された背景には、劉氏の漢による天下統一の後、呂氏の専横や呉楚七国の乱等を経て世の中が安定すると、それぞれ別個に存立していた周代の書群を編集して、各分野毎に一個の体系として確立させようという機運がありました。

広く知られているところでは、司馬遷の『史記』や淮南王劉安の『淮南子』等もまた『山海経』とほぼ同時期の成立であり、やはり同じ時流の中で生み出されたものだと言えます。
これを日本に譬えてみれば、平城京遷都後に『古事記』『風土記』『万葉集』『日本書紀』といった各書が編纂され、明治後半から大正の頃になって江戸時代が見直されたのと同じようなものでしょう。
従ってそうした観点から『山海経』を見てみると、言わばこれは江戸時代に全国各地で語り継がれてきた昔話や迷信の類を、文明開化もかなり落ち着いた頃に書籍化したようなものですから、少なくとも漢代に『山海経』が発刊された時点で已に、その内容を信じている者など(著者も含めて)誰もいなかったということです。

但しそうした事実は必ずしも同書の価値を下げるものではなく、却ってその多種多様な描写は春秋戦国期の文化の重厚さを反映するものであって、決して虚説の一言で片付けられるべきものではありませんし、
仮に『山海経』を蔑み嗤う者があるとすれば、それは恐らくその人間の中身の方が空虚なのでしょう。
と言うのも極めて高度で偉大な文化の下にあっては、一方で諸子百家の世界があれば、もう一方で山海経の世界もあるのが常態だからであり、常識的な現実主義者ほど得てして誰よりも理想家であるように、むしろそれは至って健全な精神の帰結なのです。
従って他に類を見ないほど思想や学問が栄えた時代(国)には、必ずその半面世界としての山海経があり、逆に山海経の世界も持たぬような国(時代)には、元来まともな文化もないと思ってよいでしょう。

そしてこれは西洋でも同じであって、古代ギリシャの高度な哲学や数学は、神話の世界を信奉する社会で生み出されたものなのです。
従って元来はギリシャやローマにも山海経と同様に無数の空想世界が存在した筈であり、地理的にそれは地中海全域を覆うほどの規模だったと思われるのですが、途中キリスト教の普及により信仰が一変したことも影響しているのか、残念ながら民族の起源や建国にまつわる一部の神話を除いて、その多くは後世に伝承されませんでした。
こうした事実から見ても、そもそも『山海経』のような書物が編纂され、且つそれが散逸することなく後世に伝えられたこと自体が奇跡に近く、洋の東西を問わず人類の貴重な文化遺産だと言ってよいでしょう。
しかしその一方で支那では、人代の史実を重視する余り、他の文明発祥地では必ず伝承されている建国神話の方を殆ど亡失してしまっており、その点ばかりは返す返すも残念ではあります。

その『山海経』の海内北経という巻に「倭」が登場し、次のように書かれている。
 
蓋国在鉅燕南倭北倭属燕
朝鮮在列陽東海北山南列陽属燕

蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り、倭は燕に属す
朝鮮は列陽の東海、北山の南に在り、列陽は燕に属す
 
もともと『山海経』は互いに脈絡のない小文の集合体で、この二十五文字の文章にしても巻内の前後の内容とは殆ど関連性がなく、他巻にも倭やその周辺に近いような挿話は特に見受けられないので、これが同書内での倭に関する唯一の記録ということになります。
そして一読すれば分かる通り、ここでの主語はあくまで蓋国と朝鮮であり、倭と列陽はその両者の位置を説明するための材料として、燕に属していたという立場から登場しているに過ぎません。
従って実のところ倭について何が書き記されている訳でもなく、燕の東方にある地名として、他の三者と並んで紹介されているだけの話なのですが、現存する書物の中では「倭」という言葉が初めて使用された例であり、日本人にとって貴重な資料であることに変りはありません。

但し(もともと実用書ではないのですが)実用的な価値となると余り期待はできず、例えばここに記された蓋国や列陽、それに隣接するという倭や朝鮮が、果してどこに位置していたのかという根本的な問題にしても、実のところ海内北経のこの記述だけでは、(地理書でありながら)地理的に肝心なことは殆ど何も分からないと言えます。
特に蓋国と列陽という聞き慣れない名称については、『山海経』以外に一切その存在が確認されないことから、実在そのものを疑問視する向きも多く、そもそも架空の地名(国名)である可能性も否定できません。
無論この海内北経の記事を頼りに、それぞれの所在地を比定しようとする試みは行われていて、蓋国を例に取れば確かに「蓋」と名の付く土地はいくつか見受けられるので、そこから蓋国の候補地を挙げることはできても、まず国として存在したことが立証されなければ、そうした研究も意味がないまま終ってしまうでしょう。

また『山海経』は全巻を通して個々の記事に時間という概念が無いに等しく、果してそれがいつの時代の話なのかも一切不明なので、その時間と場所を完全に一致させるのは甚だ困難な作業となります。
ただここでは燕のことを「鉅燕」と呼んでおり、「鉅」は「巨」と同じく「大きい」の意で、転じて尊貴な相手に対する敬称でもあることや、その燕の領土が遼東付近にまで及んでいなければ前記の位置関係が成り立たないことなどから、時代としては燕が強大であった戦国後期と見るのが妥当かと思われます。
しかし只でさえ燕は他国に比べて史料が少なく、周文化圏に属していない勢力との関係などについては殆ど伝承がないので、いかに燕が天下有数の大国とは言え、燕側の記録から倭や朝鮮との接点を見出すのは殆ど不可能に近いと言えます。

戦国七雄の一国でもある燕は、周公旦や太公望と並ぶ周建国の功臣で、武王から康王までの四代に仕えた周の元勲召公奭を始祖と伝える国で、始め魯国(周公旦を祖とする。孔子の故国)にも近い山東半島の奄に封じられ、成王の代に現在の北京近郊に移封しています。
国府の薊は後の北京に当たり、国土は晋の東、斉の北にあって、春秋後期から戦国期には北方の雄として支那大陸の東北地方一帯に勢を張りましたが、その歴史の前半については余りよく分かっていません。
もともと中原から遠く離れた北の地にあって、諸国間の紛争にも関ることが少なかったため、独立独歩を享受できる者ほど自家の歴史に頓着しないように、燕の国史自体が(他国と絡んだ事を除けば)殆ど後世に伝えられなかったという事情もあります。
そうしたところは遣唐使を廃止して他国との接点がなくなると、忽ち国史が編纂されなくなった平安時代の日本と似ていなくもありません。

また固有名詞という点から見れば、蓋国を除く三者については特に国という記述もないので、当時の燕人が漠然とそう呼んでいた地域や人種に過ぎない可能性もあります。
無論戦国時代の燕人の語彙など今となっては知る由もないので、それが後世に用いられる場合と同じ地域や人種を指しているとは限りません。
例えば日本人にも馴染みの深い「倭」と「朝鮮」という名称を時間軸に沿って見てみると、単語自体はかなり古い時代から確認できるようで、名詞としての本来の語義は、「倭」は民族名(=倭人)、「朝鮮」は地名となります。
ただ単語そのものは古い(と推測される)にせよ、この両名詞が目に見える形で使用されるようになるのは漢代であり、『山海経』の成立も同じく漢代ですから、果して燕人の語彙の中に倭や朝鮮という言葉が含まれていたかは不明であり、仮に文語の中には存在していたとしても、語義の通りに認識されていたという保証はありません。

倭と列陽が燕に属すと記されている点については、地理的に見れば燕と倭の間に蓋国がある訳ですから、蓋国を飛び越えて倭が燕に属しているというのも少々おかしな話で、続く列陽と朝鮮の位置関係と比較しても、本来蓋国が燕に属していた方が自然だと思われるのですが、その辺についてもよく分かりません。
ただこれとよく似た事例がない訳ではなく、後の魏と邪馬台との国交を例に取れば、朝鮮半島南部の韓や濊が魏の楽浪郡や帯方郡と争っている間に、倭人は韓を飛び越えて魏へ使者を送り、邪馬台の女王が魏帝から冊封を受けたりしています。
或いは蓋国だけが国と呼ばれているところを見ると、蓋国というのは他の三者と異なり独立した小国だったと見ることもできるでしょうか。

因みにここで言う「属す」というのは必ずしも両者の主従関係を示している訳ではなく、意味としては「通じている」といった程度のもので、どちらかと言うと中華思想から来る一種の外交用語に近いものです。
例えば後の『魏志』東夷伝にも、夫餘と高句麗は玄菟郡に属していたとか、三韓と倭人は帯方郡に属していたなどという表現が用いられていますが、これとて諸民族が魏の州郡に従属していたという意味ではなく、要は民族によって外交を担当する郡が決まっていたという事実を表したものです。
同じくかつて楽浪郡に属していたが今は玄菟郡に属しているなどという記述があれば、それは担当する郡が代ったということであり、ある民族が某郡に帰属を求めて来たとあれば、それはその郡を通しての交流を望んだという意味になります。

国連が当り前の存在として機能している現代では、たとい相手がどれほどの小国であっても外交を担当するのは外務省であり、表向き全ての国家は対等ということになっています。
しかし漢や魏のような帝国の場合、朝廷自らが東夷の小国を相手にすることは殆どなく、そうした周辺諸国との外交を担っていたのは辺境の州や郡であり、むしろ郡と東夷が対等のような状態でした。
現代でも大企業の一部署と下請けの中小企業との関係などは、これと似たようなものでしょう。
そして文明国と四夷の関係というのは、文明圏の方が未開人の生息域を侵食せず、未開人が文明圏の領域を侵犯しなければ、お互いに不可侵のまま平和裏に共存するというのが基本なので、国境付近での交流はいつの時代も日常的に行われています。
そこで両者の力量に相当な格差がある場合、弱者が強者に属しているような立場になるのは自然の摂理であり、これは現代の国家間に於いても変りません。

当時の燕は東夷と呼ばれる地域にも勢力を拡大しており、占領した土地を自国の版図へ組み入れていましたが、この頃の燕の北方(或いは東方)進出の形態というのは、早くから文明の開けた中原のように国家がその領内を包括的に統治するというものではなく、まず要所に兵と役人の駐屯する城砦を築き(或いは既に他者によって建築されていた城砦を奪い)、その行軍と物流のための道路を敷設した後、農民を入植させて城の周囲を開拓しただけのものでした。
これは周代初期の都市国家の建設も似たようなもので、言わば燕は各地の城という点と、その点と点とを結ぶ線を支配しているに過ぎず、その点と線の外には文明の及ばぬ土地が一面に広がっていました。

恐らくは前記の倭や朝鮮にしても、そうした燕周辺の未開の土地の一つだったのであり、時代の流れと共に遼東から更に東へと文明が波及して行く中で、独自の文化を保ちながら互いに共存していた集団(地域)だったのでしょう。
そしてここに記された倭や朝鮮、蓋国や列陽が、燕側の資料に出て来ないのは、案外『山海経』の記事の時代からそう遠くない将来に、燕によって併呑されてしまったからかも知れません。
やがて秦が天下を平定する過程の中で、刺客を用いて秦王政(後の始皇帝)の暗殺を謀った燕は秦軍によって蹂躙され、祖国の滅亡後に秦の支配を逃れて朝鮮半島へ亡命した燕人の一派が、同地に史上初の王国である衛氏朝鮮を建てることになりますが、それはまた後の話です。

因みに燕が強国斉を破ってその国土の大半を奪い、南は山東半島から北は朝鮮半島北部にまで領土を広げて、同国史上最大の版図を誇った頃、燕の国主であった昭王が、不老不死の仙人を求めて東方の海上へ使者を派遣したという記録が残っています。
この昭王は「隗より始めよ」の故事でも知られるように、厳しい財政の中でも天下に広く人材を求めて厚遇し、滅亡に瀕していた祖国を建て直して燕の全盛期を築いた名君ですが、古来支那では東の海上に仙人の国があるという信仰があって、不老不死を求めて幾度となく渡航が試みられています。
その最も有名な例が、始皇帝の命を受けて出航し、そのまま帰らなかったという徐福であり、こうした逸話から読み取れるのは、少なくとも戦国から秦代までの支那では、東の海上に倭人の国があるという発想が、殆ど見受けられないことです。

当時の支那人の思考として、東の海上には未知の島々があって、そこには仙人国ばかりでなく、異人の住む島々も点在しているくらいの認識はあったかも知れませんが、所詮それ等は大陸民である支那人にとって知りようのない世界であり、また知ったところでどうなるものでもありませんでした。
しかし『山海経』にはそうした東海についての話も収録されていて、海外東経でも少しく触れられているほか、大荒東経では一巻を割いて東海上の国々について扱っています。
無論そこで語られている内容は、他巻同様に一貫して荒唐無稽なものなのですが、その一方で小人国や黒歯国といった後の史書にも記されたような国も出てきており、正にこの辺りが『山海経』の絶妙な曖昧さであって、それが無意味であると分かっていても、そこに描かれた世界を現実の地理に比定したくなる所以でもあります。

但しその両経に記された国や民の中に「倭」の文字はなく、強いて挙げれば大荒東経に出てくる「従僕民」という民と、同じく海外東経に記された「毛人国」という国が、それぞれ倭人と蝦夷を連想させる表現のようにも思えますが、少なくともこの両者が海内北経に記された倭と同種(もしくは同地)という発想は無かったと言ってよいでしょう。
と言うより前記の如く『山海経』には時間という編修要素が皆無なので、海内北経の原話となった伝承は戦国期のものかも知れませんが、海外東経と大荒東経にある小人国・黒歯国、従僕民・毛人国についての件は恐らく漢代に書き加えられたもので、両者の間にはその内容を比較できるだけの時代の一致はないものと思われます。

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