ここまでくると女王の境界の全貌が見えてきます。即ち当時の女王圏というのは、首都の邪馬台が畿内にあって、対馬から山陰を経て畿内に至るまでの、西日本一帯に及んでいたことが分かります。ただ後の日本史を知る我々は、首都が畿内に置かれているということに違和感を覚えないので、仮に王都邪馬台が畿内にあって、そこから女王が西日本を統治していたと聞いても何ら疑問を抱かないのですが、これは考古学的に見ると実に興味深い事実を含んでいます。と言うのも、西日本一帯を領土とする国家の首都が畿内というのでは、余りにも首都が東に偏り過ぎているからです。 . . . 本文を読む
この計算式を不弥以降にも当てはめてみると、もともと不弥から邪馬台までは日数で表されているので、不弥以前とは逆に日数を里数に換算する作業になります。すると不弥から投馬までは水行二十日ですから里数にして四千里、投馬から邪馬台までは水行十日陸行一月ですから里数にして五千里という解答が得られます。そこで改めて狗邪韓から邪馬台までの行路を方位と共に見てみると、まず狗邪韓から末蘆までは南へ水行三千里、不弥から投馬を経由して邪馬台までは水行と陸行で九千里となり、末蘆から不弥までの陸行の横移動はほぼ無視できますから、狗邪韓から邪馬台までは南へ一万二千里という結論が導き出される訳です。 . . . 本文を読む
戸数について見てみると、孤島の一支(壱岐)でさえ約三千家、王都の邪馬台は七万余戸などとなっていますが、当時の日本列島の人口からして、やはりこれも有り得ません。これは倭人伝に限らず、既に後漢から晋の頃になると、支那では早くも中世に入っているので、後の日本や西洋の中世と同じく、こうした数字というのは総じて実数からは程遠いものとなります。魏の例で言うと、たといそれが正史に記されたものであれ、魏軍(曹軍)が勝利した際の敵の戦死者や捕虜の数は、実態の十倍にして表現するというのが慣例だったといいます。
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