史書から読み解く日本史

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その後の長城

2019-02-24 | 有史以前の倭国
ここでその後に長城の辿った運命について軽く触れておくと、もともと始皇帝が長城の建設に着手したのは紀元前二一六年頃のことで、その十年後に秦は崩壊し、長城はそのまま漢に引き継がれた訳ですが、秦滅亡後の混乱期に一部侵食されていたのに加えて、漢が白登山の戦いで匈奴に敗れたことにより、長城の存在意義が著しく低下したことは既述しました。
漢としても長城の維持を放棄してはいなかったのですが、その長大な総延長の中に漢が領有を主張できない箇所がある以上、国境としての効力が半減してしまうのは当然の成行きだったでしょう。
以後恵帝から景帝までの漢では、ちょうど現代の日本のように、失った僅かな領土よりも国内の平和と繁栄を優先しており、国境に関しては自国の意思で堅持できるところは防衛し、それが叶わぬところは妥協するといった姿勢で臨んでいました。

やがて高祖の曾孫の武帝が即位すると、漢を属国扱いしていた匈奴に対して攻勢に出て、再び長城を両者の境界とすることに成功したばかりか、漢の版図が西方へ拡張されたことに伴って長城も更に延長され、文字通りの「万里の長城」が完成しました。
しかし既に匈奴が長城を無力化して久しく、長城を挟んで両軍が対峙するような戦場が有り得ない以上、いかに漢が富強とは言え、維持費の馬鹿にならない人口の国境線を敢て復活させ、更にそれを増設するというのは少々奇妙な話にも思えます。
ただ長城が軍事施設として無力であることは、当の武帝や漢の武将達が誰よりも承知していたことで、にも拘らず更に巨大化して復活させたということが、もはや長城に与えられた役割が軍事的な要塞ではないことを物語っていました。

些か逆説的な論法となりますが、武帝が長城の防衛を継続したのは、逆に長城で防衛する意思がないことの表れであり、已に長城は戦場にならないことを明示する行為とも言えました。
実のところ武帝の治世も後半になると、東亜世界で敢て漢帝国に戦争を仕掛けるような外敵は居らず、漢にとって戦争とは外征のことであり、戦場は常に国外だったため、国境防衛は殆ど想定する必要がありませんでした。
これは米国がメキシコとの国境に壁を築いた後、もし同国との間に戦争が勃発したとしても、メキシコ軍を国境で迎撃するような作戦など立てる筈がないのと同じことです。
言わば春秋戦国期の諸侯が国境に長城を築き、自国への敵の侵攻を防ごうとした時代とは、国防戦略そのものが全く変っていたのでした。

例えば建国以来アメリカ合衆国は、他国との戦争で自国内を戦場にしたことが(独立戦争を除けば)殆どなく、戦争は全て国外を戦場にすることで勝利しています。
全世界に展開している米軍にしても、国外で敵を撃破することが絶対の使命であり、そもそも米国には国内で敵を迎撃する準備がありませんし、そのための作戦すらありません。
それは取りも直さず米軍は他国を攻撃できても、その逆は起こり得ないことを意味しており、この一時こそが全世界から米国へ寄せられる信頼の証となっています。
但しその米国が主導する秩序に同調しない国にしてみれば、自分達には到底米本土を攻撃する力がなくとも、米国に敵と見做されただけで自国へ兵を向けられる可能性もある訳ですが、いつの時代も自国が戦場になり兼ねないような国に世界の安全保障は担えないというのが常識ですから、米国を敵に回した時点でそれは覚悟するしかありません。

そしてこれは歴代の支那帝国でも同様であって、東亜世界の宗主国として周辺諸国から絶対の信頼を得ていた帝国は、外征を行うことはあっても、自国を戦場にするような失態は犯しませんでしたし、逆にいくら国主が皇帝を称していても、外敵による自国への侵攻を許しているような王朝は、東亜全域から盟主としての尊崇は得られませんでした。
現代に於けるその好例がロシアで、(旧ソ連も含めた)ロシアが強敵との戦争で勝利したのは、その殆どが自国内に侵攻して来た相手を撃退したもので、確かに(中世の蒙古を除けば)ロシアの大地が他民族に征服されたことはありませんし、最終的に勝利している以上は不敗と言えなくもないのですが、何度も国境を突破されている時点で超大国としては失格であり、間違ってもロシアでは米国のような国際社会の盟主にはなれません。

武帝以後も漢では長城を維持していたものの、王莽による簒奪から後漢建国までの混乱で一時的に管理ができなくなると、王莽の建てた新朝が周辺の諸民族との外交に失敗したこともあって、一部の地域では長城が国境として機能しなくなりました。
後漢朝も初期の頃は長城を維持しようと試みていますが、経年劣化による破損の修復だけでも莫大な負担となるのに加えて、維持費も含めた費用に見合うだけの効果が期待できないこと等から、かなり早い時期に管理を放棄したようです。
また流石に後漢の時代ともなると、武帝の頃に比べて諸民族との関係も変化しており、後漢も敢て辺境の統治には固執せず、既に漢文化を導入していた勢力に対しては、郡県制の枠外での自治や独立を許していたので、もはや長城にもかつてのような存在意義はなくなっていました。

後漢が長城の維持を中止したことにより、魏や晋もその方針を踏襲したため、しばらく長城は史書の中にその名が記されているだけで、人々の生活からは忘れ去られた存在となっていました。
もともと長城は北方の過酷な環境下に築かれているので、補修もせずに放置すれば忽ち使い物にならなくなります。
従って後漢も末期になると、長城とその周囲はすっかり荒廃して、殆ど太古の蜃気楼と化しており、再度の実用化などとても考えられないような状態でした。
従って魏や晋が長城の防衛を視野に入れなかったのは、近隣の諸民族との関係や政治的な方針も然る事ながら、既に長城は遺跡だという判断もあったものと思われます。

次に長城を復活させたのは漢人ではなく、五胡十六国時代を終らせて河北を平定した北魏でした。
五胡十六国期というのは、後の五代十国期と並んで、とても簡単には説明できないような時代なのですが、その最終的な勝者となった鮮卑族拓拔部は、長く続いた戦乱に終止符を打つため、乱世の根源である外因から自国を安定化させる必要がありました。
そして五胡十六国期の特徴とは、匈奴・鮮卑・羯・美・氐の主要遊牧民(五胡)が代る代る旧漢領へ雪崩れ込み、先住者を退けて建国する(十六国)ことの連続ですから、北魏がその民族移動の連鎖を終らせて、河北に恒久の平和を齎そうとするならば、まず塞外からの遊牧民の流入を止めなければなりません。

もともと拓拔部自身は五胡の中でも最も北方に在り、他族の興した短命王朝が相争って疲弊した頃に大挙して南侵し、河北を統一するとそのまま故郷を捨てて塞内に定住してしまった経緯があります。
その拓拔部も魏という漢化した国を興すと、自分達が移動したことで空域となった北の大地に新たな勢力が出現し、今度はそれが南下して自国を脅かすことを案じている訳ですから、些か虫の好い話ではあるのですが。
ただ北魏の再建した長城は、あくまで首都平城(大同)を防衛するためのもので、総延長は冀州と并州の北面上に止まっており、その構造も至って簡易的なものでした。
しかし漢人ではなく鮮卑族が長城を復活させたということは、遊牧民の目には長城がどう映っていたかを再考させられる話でもあり、案外農耕民が思うほど無用の長物ではなかったのかも知れません。

やがて隋が建国されると、高祖文帝は北朝の長城を引き継ぎ、首都大興(長安)防衛のために黄河北面に沿う形で更に延長させました。
しかし南朝の陳を滅ぼして、約四百年ぶりに天下を統一してから僅か十年で隋が崩壊すると、その隋に取って代った唐は長城の防衛を放棄したため、その後は明が再興するまでの数百年間、再び長城は中国の制度から除外されることになりました。
唐が長城を維持しなかった理由としては、やはり隋による大規模な公共事業や外征の負担が、唐の方針にも影を落としていると言えます。
確かに煬帝の暴政と散財については(それが史実であるかどうかは別にして)余りに有名ですが、かつて秦の築いた制度やインフラを漢が引き継いだように、大運河に代表される煬帝の興した事業の多くが、国家の財産として唐の治政を助けている面も少なくありません。
しかし隋の崩壊を目の当りにしていた唐としては、否応無しに煬帝の失脚を反面教師とせざるを得ず、とても長城まで継承するほどの余裕はなかったのでしょう。

但し建国当初はともかくとして、唐がその後も長城を復活させなかった要因の一つに、漢に於ける武帝や宣帝のような、中興の祖と呼べる君主が現れなかったことも挙げられます。
隋朝の有力な家臣だった李淵が、煬帝の子の恭帝から禅譲を受けて建国した唐は、隋が統一の大業を終らせていたこともあって、高祖李淵の子で名君の誉れ高い太宗の代にはほぼ完成しました。
太宗は優秀で忠実な文武官にも恵まれており、その重臣達と太宗とのやり取りを記録したのが、徳川家康の愛読書でもあった『貞観政要』です。
しかし太宗以後の唐は君主に恵まれず、太宗崩御の四十年後には次代高宗の皇后だった武則天による簒奪があり、その高宗の孫の玄宗は寵姫の楊貴妃に溺れ、それが原因で安史の乱を招くなど政変ばかりが続きました。
尤も所詮は朝廷内の権力闘争なので、どれほど政治が不安定でも唐という天下そのものは繁栄していましたが、お世辞にも健全な状態と言えるものではありません。

また唐の玄宗の代にその原型が作られ、後の宋朝にも踏襲された制度に、藩鎮という軍制があります。
この藩鎮とは、唐帝国を幾つかの管区(地域)に分けて、管内の軍事と財政を統轄した組織で、その長官を節度使(観察使とも)と言い、安史の乱を起こした安禄山などは三区の節度使を兼任していました。
要は軍団制度であり、戸籍に基づいて徴兵する従来の符兵制が次第に機能しなくなったことから、各管区毎に兵員の定数を決めて常備軍としたもので、その維持のために財政面での権限も与えられていました。
国軍を軍団(師団)に分けて防衛地域を分担するという方法は、現代の軍隊でも採用されている基本の編制であり、この軍団(藩鎮)による国土全域の防衛体制が確立されたことで、長城のような有形の軍事施設が不要になったという側面もあります。

これが近代軍隊であれば、(一部の特殊な国を除いて)国防予算は中央政府が一括して管理しており、軍隊に財政面での権限など与えられていませんが、当時の管区は独立採算制だったため、藩鎮がそのまま軍閥化してしまう危険が常にありました。
現に安史の乱で唐帝室が衰退すると、もはや朝廷には藩鎮を抑制するだけの力もなく、中には長安への納税を怠る地方も出てくるなど、殆ど独立した節度使による春秋戦国の様相を呈するまでになります。
しかしそんな結末は寸考すれば初めから予測できたことで、にも拘らず唐朝が藩鎮という軍制を選択した経緯については検証すべき点も多いのですが、ここでは省きます。
やがて唐代も末期になると、半ば独立国と化した節度使同士が相争うようになり、それが五代十国時代への引金となっています。
因みに菅原道真の発議により遣唐使が廃止された寛平六年(西暦八九四年)というのは、唐滅亡の僅か十三年前です。

数十年に渡って続いた五代十国を終らせて再び天下を統一した趙氏の宋は、建国以来契丹に幽州を占拠されたまま終に奪還できなかったので、長城云々は初めから論外でした。
宋も三代真宗の時に契丹を幽州から駆逐する機会はあったのですが、戦争を嫌った真宗の優柔不断により千載一遇の好機を逸してしまい、以後は唐と同じく漢の武帝に匹敵する君主が現れなかったこともあり、北の国境に関しては何の進展もありませんでした。
そして北魏以来の長城を復活させたのは他ならぬその契丹(遼)であり、満州から幽州に掛けての土地を領土としていた契丹は、他の遊牧民からの侵攻を阻止するため、満州と蒙古高原の境界を縦断する形で塹壕を掘り、その土を盛り重ねて防堤を築いており、その長城は契丹に取って代った女真族の金にも引き継がれています。
つまり本来は農耕民が遊牧民の侵入を防ぐ目的で築いた長城が、後漢以降は遊牧民の興した国家によって模倣された訳で、その軍事的な効力自体はともかくとして、やはり長城には何らかの心理的な効果があったのでしょう。

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