史書から読み解く日本史

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衛青と霍去病

2019-02-26 | 有史以前の倭国
将軍衛青による第一回目の匈奴遠征が行われたのは、武帝の即位から十二年目の元光六年(紀元前一二九年)のことで、以後衛青は元狩四年(前一一九年)までの約十年の間、甥の霍去病と共に幾度となく匈奴へ出陣し、北狄に対して前例のない戦果を挙げることになります。
尤も匈奴征伐そのものは、衛青が遠征を開始する四年前の元光二年(前一三三年)にも一度計画されており、この時は匈奴が信用しそうな者に内応を演じさせ、容易く一県が手に入ると偽って単于を誘い、話に乗って出て来たところを包囲する作戦だったのですが、敵がこれを悟って撤退してしまったことで徒労に終っています(馬邑の戦い)。

莫大な国費を使って大軍を動かしておきながら、一戦も交えずに引き揚げるという失態に武帝は落胆し、この作戦の責任者を更迭すると、硬直化していた官軍の改革に着手します。
文景両帝が余り兵を用いなかったこともあって、当時の漢の軍制は高祖の頃のままの旧態然としたもので、将校も世襲が多く、敢て誰も手を付けようとしないまま年月を経ていました。
それでも漢軍がそれなりに強力だったのは、偏にその規模の大きさ故であり、逆に言えば予算や人員ばかりが無駄に多く、それに見合った戦力は期待できない集団になっていた訳です。
その骨董品のような官軍を武帝は、自らの政治方針にも堪え得る組織に再編することを望んでおり、そうした一連の改革の中で抜擢されたのが衛青でした。

五十年以上にも及ぶ武帝の治世の中で、衛青の登場は特に衝撃的な出来事の一つと言えるでしょう。
もともと衛青は武門の家系はおろか兵士ですらなく、姉の衛子夫が武帝の寵妃(後に皇后)だった縁故によって、殆ど実戦経験もないままに将軍となった人物です。
また必ずしも当時の漢軍に人無しという訳ではなく、李広や程不識といった内外に名の知れた武将も少なくありませんでした。
にも拘らず俄に将軍となった衛青の名声が一際輝きを放っているのは、皇后の身内という幸運も然る事ながら、やはり対匈奴戦での戦功が群を抜いているからでしょう。
何しろ十年余にも及ぶ匈奴征伐にあって、敗戦らしい敗戦は唯の一度もなく、出陣すれば必ず戦果を得て凱旋し、遂には長年の大敵であった匈奴を遥か遠方へ追い遣ってしまったのです。

実際に衛青の存在が武帝の治政、延いては祖国の方向性に及ぼした影響は甚大なもので、もし彼の活躍がなければ、後世の我々が知る漢帝国は有り得なかったと言っても過言ではないほど、武帝にとっては掛け替えのない武臣でした。
しかし当の衛青はというと、その戦功によって大司馬大将軍という臣下の最高位にまで登り詰めた後も、職務自体は生涯を通して北部方面専門の将軍であり、遊牧民との戦争以外には目立った実績もなかったため、皇后の実弟という身分にありながら(加えて後年は武帝の実姉である平陽公主と再婚しており、実質的な帝室の一門となっていた)政治的な活動などは殆どしておらず、彼自身が朝廷内で何らかの権力を行使したという形跡もありません。

もともと武帝は即位当初から朝廷の変革を志していたようで、やがて親政の条件が整うと積極的に改革を断行して行きました。
そして親政を始めた帝の真っ先に取り組んだ政事が、内政面では黄老の思想を退けて儒教を国学に据えること、外政面では匈奴との条約を破棄して再び外敵として扱うことであり、この二事こそが帝の政治理念を明示したものだったと言えます。
ただその改革が武帝にとって、果して朝廷内の環境を変えたかっただけなのか、或いは漢帝国そのものを根底から改変したかったのか、或いは始めから東亜全体を一変させようと意図していたのか、その辺りの帝の真意は定かではありません。
しかし当時の東亜世界にあって、漢は突出して最大最強の国家であり、武帝はその元首でしたから、帝の気宇の大小如何に拘らず、その強固で明確な意志による言動が帝国全土は元より、その周辺諸国にまで波及するのは自然の流れでした。

儒教については後述するとして、匈奴との関係について言えば、確かに漢と匈奴の間に不平等な条約があったのは事実にしても、果してそれが漢にとって全くの不利益だったのかというと、必ずしもそうでなかったことは既述しました。
例えば漢は数十年に渡って毎年匈奴へ金品を贈っていた訳ですが、これを無駄な出費として捉えるか、それとも平和のための必要経費として割り切るかによって、自然と取るべき道も変ってくる訳です。
とは言えその負担が一体いつまで続くのかも分からない上に、漢の方がどれほど誠実に約定を守ったところで、受け取る匈奴の方には漢への感謝の気持ちなど更々なく、むしろ下位者から上位者への当然の上納という程度の認識しかないとなれば、貴重な血税を無条件に北狄へくれてやることが、次第に馬鹿馬鹿しくなってくるのは無理のない話ではあります。

また外交上の両者の上下関係が、匈奴が兄で漢が弟となっていた点についても、漢帝と単于が同席する機会など金輪際ない訳ですから、所詮は外交上の儀礼に過ぎないという面は確かにありました。
但しそれはその関係が、漢の朝廷と単于の帷幄という限られた世界の中だけで完結している場合の話であって、漢が支那大陸の統一国家であり、匈奴が遊牧民の覇者である以上、事がそれだけで済む筈もないのは当然でした。
そしてこれは右記の問題についても言えることで、漢と匈奴では匈奴の方が強者であり、皇帝と単于では単于の方が上位であり、それが故に漢が匈奴へ金品を上納していることは、漢領内の民衆や匈奴傘下の遊牧民のみならず、東亜の全民族が承知していたことだったので、それによって漢が被る外交上の不利益は莫大なものでした。
尤もそれを国損として認定するかしないかは偏に漢朝の姿勢次第であり、国内の平安を優先する分には特に問題もなかった訳です。

そもそも武帝がなぜ従来の方針を一転し、再び匈奴と敵対する道を選択したのかについては不明な点も多く、詳しい動機などは余りよく分かっていません。
ただ白登山の戦いから数十年の時を経て、漢が当時とは比較にならないほど国力を増大させていたのに対して、匈奴の方には既に冒頓単于の頃のような威勢はなく、もはや潜在的な漢の戦力が匈奴を遥かに凌駕していることは、匈奴へ派遣した使者や辺境の守備に当たっている部隊からの情報によって、次第に明白になっていたものと思われます。
そうした状況の中で、まるで裕福な家庭に恵まれて武芸にも秀でた偉丈夫が、自分よりも貧しくて弱小な荒くれ者に小銭を強請られるように、漢がその強大な力を敢て行使しようともせず、曾祖父の代に結ばれた条約を馬鹿正直に守り続けることに対して、若い武帝が何ら意義を見出せなかったのは、むしろ自然な話だったかも知れません。

一つだけ確実に言えることは、対匈奴戦の勝利がなければ、武帝の改革の多くは実行に移せなかったか、もしくは途中で頓挫していただろうということです。
武帝が親政を始めた頃にもなると、恵帝以来続いていた無難第一の政治姿勢を疑問視する臣下も増えていたとは言え、依然として引続き文景の路線を支持する勢力も強く、若い武帝が時代の岐路に立たされていたことは既述しました。
そうした中で武帝は、ある意味で父祖の道を否定し、多くの分野で先代とは真逆の政策を採用した訳ですから、それには帝自身の理念を正当化するための目に見える実績が何としても必要でした。
要はそれが匈奴だった訳です。

実際に武帝が従来の漢朝の方針を一転させたことに対して、内心では批判的だった皇族や重臣達でさえ、対匈奴戦の圧勝という有無を言わさぬ現実の前には、その意見を上申する機会すら奪われてしまったのでした。
そしてこの戦功によって武帝は、改革に反対する身内や臣下に対しても遠慮なく自分の主張を通し、その所信に基づいた親政を行うことが可能となったのであり、帝にその権力を齎してくれたのが衛青だったのです。
そして衛青が他将と共に第一回目の匈奴遠征に出陣した翌年、衛士夫は皇子を出産したことで晴れて皇后に立てられており、言わば今まさに新しい時代へ羽搏こうとしたその時に武帝は、最愛の女性と最大の功臣という二つの人宝を同時に手に入れたのでした。

衛青には皇后となった衛子夫の上に二人の姉がおり、次女の衛小児は霍某という者との間に男子を儲けていました。
これが霍去病です。
衛青同様に生まれながらの権門ではありませんが、皇后の甥ということで厚遇され、十八歳で叔父の衛青に従って匈奴征伐に参加すると、元狩二年(前一二一年)には驃騎将軍に任ぜられて遠征軍を指揮し、翌々年には戦功により衛青と並んで大司馬に昇進するなど、二十代前半で位人臣を極めるまでに栄達します。
尤も去病がこれだけ破格の抜擢を受けた背景には、外戚の身内という出自に加えて、彼自身が将としての類い稀な資質を有していたのは当然にしても、君主である武帝が新たな時代を担う有能な人材を渇望していたという事情もありました。
しかし将来を約束されていた霍去病は、元狩六年(前一一七年)に二十四歳という若さで病没し、稀代の雄将の栄光は僅か数年で幕を閉じることになりました。

この悲報に宮廷内は沈痛に覆われたものの、彼の活躍の場であった匈奴戦線はその二年前に一応の収束を迎えており、短命とは言え人生の絶頂期に生涯を終えたのは救いだったと言えなくもありません。
と言うのは卑賤の身から三公にまで栄達した衛青が、大功を成し遂げた後も謙虚さを失うことなく、戦場では常に部下と苦楽を共にしていたのに対して、若くして出世を極めた霍去病は世間を知らなかったため、日常では身分相応の豪奢な生活を当然のように享受し、戦場では兵士の辛苦を察することができないなど、(その是非はともかくとして)多分に貴族的な面があったと伝えます。
そうした彼の性向が、いずれ趙活や李信と同じ轍を踏まないという保証はなく、また武帝は臣下の功績に惜しみなく報いる反面、失敗は容赦なく罰したので、特に晩年の病的な言動を見る限り、むしろそれが去病にも及ばない可能性の方が低かったかも知れません。

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