史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

四道将軍

2020-11-15 | 古代日本史
信長との類似点
一通り諸神の祭祀を終えた崇神帝は、周辺諸国の平定に着手します。
即ち大彦命を北陸へ、武渟川別を東海へ、吉備津彦を西海へ、丹波道主命を丹波へ遣わして、伏さぬ者は討てと命じました。
所謂四道将軍です。
これは現代で言うところの方面軍制度であり、日本史上で再びこれをやったのは織田信長一人しかいません。
織田家の軍制下でも、柴田勝家を北陸へ、滝川一益を関東へ、羽柴秀吉を中国へ派遣し、明智光秀には丹波から山陰への国替えを命ずるなど、崇神帝とほぼ同じ将配置となっています。
更に信長は丹羽長秀に四国征伐の準備をさせていましたが、前記の如く記紀に四国遠征の記録はありません。

但し四道将軍というのは『日本書紀』に倣った呼称で、『古事記』では大毘古命を高志(越)道へ、その子の建沼河別命を東方十二道へ遣わして伏わぬ人々を和させ、日子坐王を旦波国へ遣わして玖賀耳之御笠を殺させたとあり、吉備は入っていません。
それぞれの将が派遣された地域と、その意図するところを見てみると、北陸にも兵を進めているということは、既にこの頃の高志には相応の国が存在していたことを示しており、そこには敦賀を始めとして日本海航路の基点となる複数の交易港がありました。
丹波は畿内と山陰を結ぶ山陰道の起点であり、当然その先には大国の出雲を見据えていたことでしょう。
残る東方について言えば、駿河以東を平定したのは日本武尊であり、飛騨が併合されるのは仁徳帝の代なので、ここで言う東海というのは専ら美濃尾張近辺かと思われます。

四将軍の系譜
次に将の配置とその続柄を見てみると、大彦命は崇神帝の祖父孝元帝の皇子で、先代開化帝の異母兄弟に当たり、娘の御間城姫(垂仁帝の生母)は崇神帝の皇后という皇族随一の有力者です。
ただ史書によると大彦命は孝元帝の第一皇子で、開化帝は第二皇子だというのですが、実母はどちらも皇后の鬱色謎命であり、両者は嫡流の同母兄弟なので、この出自設定には少々疑問が残ります。
阿倍臣の祖とされる武渟川別は大彦命の子で、崇神帝とは従兄弟であると同時に義兄弟でもあります。
大彦命と武渟川別の親子がそれぞれ北陸と東国へ派遣されたという点に関しては記紀で共通しており、従って(それが同時であったかどうかはともかくとして)これはほぼ史実と見てよいでしょう。

丹波へ派遣された将について、『古事記』は彦坐王とし、『日本書紀』は丹波道主命としていますが、この両者は親子とされているので、これは単に二世代の功績が記紀で混同されたものでしょう。
彦坐王は開化帝の第三皇子で崇神帝の異母弟に当たり、丹波道主命の娘は後に垂仁帝の後宮に入り景行帝を産むなど、やはり皇族の中でも有力な家系です。
ただ試みに織田家の五将の年齢構成を見てみると、信長と一回りほど歳の離れていた最年長の柴田勝家を筆頭に、一益、長秀、光秀の三人はいずれも主君より年上で、年下は羽柴秀吉一人だけであり、現実的にも崇神帝が甥っ子に一方面を任せたとは考えにくいものです。
従ってこの場合の人選は、正史の『日本書紀』よりも『古事記』の方が正しいように思われます。

『古事記』で触れられていない吉備津彦は(皇家の系図に従えば)孝霊帝の皇子で、崇神帝の祖父孝元帝の異母兄弟に当たる王族です。
当時のことですから世代と年齢が現代ほどには一致しないとは言え、流石にこの設定は些か無理があるのではないでしょうか。
例えば共に智臣として曹操に仕えた荀彧と荀攸は、お互い叔父と甥の関係にある一族ですが、叔父の荀彧が年少で、甥の荀攸が年長です。
確かにこうした事例も稀にあるので、世代という要素だけで史書の記述を否定する理由にはなりませんが、一方で吉備津彦には稚武彦という弟がおり、その子または孫とされる吉備武彦が日本武尊の東国遠征に従い、武彦の娘は応神妃だと言います。
従って後世に吉備津彦と呼ばれた吉備国造の祖先が、大和朝廷の将軍として山陽地方へ赴任した事実はあったにせよ、少なくとも彼を孝霊帝の皇子とする系図は有り得ないでしょう。

方面軍制度から読み解く崇神王朝
実のところ史書というものは、話の前後で辻褄の合わないようなところが多々あって、元よりそれは記紀の中にも随所に見受けられます。
この有名な四道将軍の伝承にしても、もしこれが崇神帝の治世に実行された事業であるとすれば、逆に神武帝の東征以来その子孫が大和を統治していたという設定を頭から否定する結果になってしまうのです。
何故なら十代にも渡ってその土地に根を張っていた勢力が、ある日突然多方面に戦線を広げることなど有り得ないからです。
要するに第十代崇神天皇という帝王が大和に君臨した背景は、どこか別の土地からやって来て大和を征服したか、或いは下剋上によって大和を支配していた主君に取って代ったか、或いはその両方だったと考えられる訳です。

例えば後の戦国時代でも、幾代にも渡って地盤を築いてきた大名が、同時に複数の隣国へ侵攻する形で、放射状に版図を広げようとした例は(織田家を除いて)まず無いと言えます。
これは駿河の今川氏、関東の北条氏、甲斐の武田氏、越後の上杉氏等を見れば分かることで、彼等は前後左右に敵を作るような真似は決してしませんでしたし、一方の隣国と戦をする際には、他方の隣国とは必ず講和を結んでいました。
と言うより利害対立のない大名同士は、和親によって姻戚関係を築いたり、互いに不戦共闘の同盟を結ぶのが常識であり、そうした先祖代々の因果を一方的に全てご破算にして、ある日突然四方を敵に回すなどというのは、とても正気の沙汰ではありません。
無論これは戦国の日本に限らず、春秋戦国時代の支那大陸や近世の欧州など、古今東西を問わずに当て嵌まることです。

日本史上唯一の例外である信長にしたところで、彼が方面軍制度を導入したのは、室町幕府最後の将軍であり当時の主君でもある足利義昭を追放し、右大将として安土を拠点にしてからのことで、尾張の小領主時代は無論のこと、尾張美濃二国を領していた時でさえこんな真似はしていません。
同じく漢土に於ける例として、三国時代の曹操の軍制が挙げられますが、彼が方面軍制度を採用したのも、丞相として後漢朝の実権を掌握してからのことです。
そもそも軍勢を全方面に派遣もしくは駐屯させるということは、当然ながら自国に服従しない者は全て敵ということであり、それは取りも直さず自分と対等の存在は認めないということ、即ち一者による天下統一の意思表示でもありました。

将軍の人選から読み解く崇神王朝
また崇神帝が十代に渡って大和を統治していた王家の血筋ではなく、あくまで新興の勢力だったことを示す好例として、四道将軍の人選が挙げられます。
記紀を問わずに崇神帝が各方面に派遣した将軍は、いずれも従兄弟や異母弟といった近しい身内であり、これは遠征軍の大将を託せるだけの臣下がいなかったこと、つまり崇神帝の家系にそれだけの歴史がなかったことを表しています。
同じことは曹操についても言えて、晩年になると血の繋がらない家臣の中からも将軍を選任していますが、初期の戦場で彼を支えていたのは曹氏や夏侯氏出身の親族であり、その多くは従兄弟やそれに近い同年代の若者達でした。
逆に信長の将軍に織田姓の親類衆が少ないのは、彼の家系が尾張の織田氏の中では支流だったことと、若い頃に家中で「うつけ殿」と陰口を叩かれていた彼には、初めから信頼できる身内など殆どいなかったからです。

武埴安彦の謀叛
但しこの方面軍制度は、兵力の大半を自国の周囲に展開してしまうため、まるでドーナツのように中央が手薄になるという欠点を持ちます。
この虚を衝いた明智光秀の謀叛によって、稀代の英雄織田信長が突然世を去ってしまったのは、日本人ならば知らぬ者のない出来事ですが、同じく曹操もまた幾度となく暗殺未遂に遭っています。
そしてこれと類似の事件は崇神帝の身にも起きていて、帝が各地へ将軍を派遣すると、山背に居た孝元帝皇子の武埴安彦(開化帝や大彦命の異母兄弟、崇神帝の叔父の一人)が謀叛を企てたとあります。
幸いこの時は異変を察した大彦命が、軍を反転させて戻ってきたことで事無きを得ていますが、もし大彦が帰還していなければそれこそ古代版本能寺でした。

この間の経緯について『日本書紀』では次のように記しています。
北陸へ向けて出立した大彦が和珥坂(大和国添上郡:山背との国境付近)まで到ったとき(或いは山背の平坂まで到ったとき)、道端の少女が崇神帝に不吉な詩の歌を口ずさんでいました。
これを怪しんだ大彦が「汝の言っているのは何のことか」と問い質すと、少女は「何も言わず、ただ歌うのみ」と答えて、重ねて同じ歌を詠うと忽ち姿を消してしまいました。
そこで大彦が戻って事の顛末を奏上すると、果して武埴安彦と妻の吾田姫が謀叛を企てており、二人は諸将が国を離れた隙を狙って挙兵し、武埴安彦は山背から、吾田姫が大阪から都を挟襲する手筈になっていました。
崇神帝は先手を打って五十狭芹彦命(吉備津彦)に吾田姫を討たせ、大彦と和珥臣の遠祖彦国茸に武埴安彦を討たせて無事この反乱を防いだといいます。

『古事記』の伝える話もほぼ同じ流れですが、同書では大毘古命と日子國夫玖命に建波邇安王を討たせたと記すだけで、共謀者の妻や吉備津彦の名は見えません。
ただ叔父の一人が惣領を弑して宗家を乗っ取ろうとするというのは何とも生臭い話で、後の武家社会でも何度となく繰り返されてきた典型的なお家騒動です。
要は当時の崇神帝にとって、頼れるのはほぼ身内だけであり、裏を返せば敵となるのもまた身内だった訳です。
これが景行帝の頃になると、次第に功臣の子孫から成る家臣団が形成されて行き、それを受けて皇族が朝廷の中枢を担うことは少なくなり、大臣や大将といった重職は家臣の手に委ねられるようになって行きます。
尤もその家臣連の素性にしても、遡れば王族に端を発している家系が殆どなのですが。


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