史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

新世界秩序(一)

2019-03-01 | 有史以前の倭国
そして農耕民が遊牧民の土地を占拠しても使い道がないように、遊牧民もまた農耕民の土地に居座ったところで何ができる訳でもないので、古来数え切れないほど干戈を交えてきた両者ですが、あくまでそれは一時的な紛争に過ぎず、お互いの生活圏を奪い合うような戦争ではありませんでした。
要するに遊牧民は農耕民の土地を襲っても留まることはなく、勝敗に関らず事が終れば放牧地へ戻るのが常であり、逆に農耕民が遊牧民の土地へ兵を進めても、目的を達すれば軍を引いたからです。
従って漢と匈奴が出遭う以前の農耕民と遊牧民の争いというのは、万里の長城に象徴される両者の境界域で繰り広げられた一種の陣取り合戦のようなもので、お互いが相手の棲息圏には関与しないことを前提としていましたから、ある意味では平和だったとも言えます。

また白登山の戦いで漢軍は、高祖自ら三十万もの兵を率いて戦地へ臨んだところ、更にそれを上回る数の匈奴軍に包囲されてしまいますが、これも自軍を弱小と見せかけて敵を誘い込むという匈奴の策略に嵌った漢が、その大軍や地の利を活かせない状況へ陥ったところを包囲されたもので、関中へ侵攻した匈奴に首都長安を包囲された訳ではありません。
もともと遊牧民の軍兵は原則として(歩兵を持たないので)一人が一騎であり、更にその一騎が数頭の替馬を連れて移動し、後方には家族と家畜を置いて来ています。
従って匈奴がいかに強大だと言っても、実際にはその全軍を率いて漢土の中心へ攻め入ることなど物理的に不可能なので、この白登山の戦いのように国境付近の郡県を侵犯して漢を挑発し、漢軍が出て来たところを迎撃するのが最も有効な作戦だったのです。

従って武帝以前の漢と匈奴の関係というのは、奇妙な力の均衡の上に成り立っていて、漢は百万の軍兵を養う国力を持ちながら、国内の治安維持や四方の防備でその兵力を分散している上に、軍制面でも遊牧民の土地へ大軍を遠征させるのは困難であったため、その軍事力で匈奴を滅ぼすことができませんでした。
一方の匈奴もまた数十万騎をその配下に収めながら、その騎馬軍の戦力を最大限に発揮できる戦場は同じ遊牧民の土地だけでしたから、やはり文明国である漢を滅ぼすことはできませんでした。
即ち双方共に相手を殲滅するだけの戦力を有しながら、現実にはそれを殆ど用いることができなかったのであり、にも拘らず漢が匈奴の風下に立つことを受け入れたのは、匈奴の都合による自国への侵攻を抑えたいがためでした。

そしてその長年の均衡を破ってしまったのが武帝だったのです。
武帝の代に漢が徹底して匈奴を討伐したことで、漢と匈奴という二大勢力によって保たれていた秩序が崩れ、漢帝国は唯一の超大国として東亜世界で突出した存在になりました。
後に行われた西域遠征にしても、あくまで匈奴征伐の成功があったからこそ実現したもので、もし匈奴遠征が期待したほどの成果を挙げられず、依然として匈奴が北の覇者として健在であれば、西域への出兵などとても叶わなかったでしょう。
但し武帝の治世にあっても、西域は都護を置いて総領したのに対して、北方に関しては長城を復活させるに止まっており、北狄を帝国の支配下に組み込むまでには至っておらず、基本的にそれは明の時代まで変りませんでした。

また武帝による匈奴征伐や西域遠征の成功は、漢の国際的な地位を並ぶ者のない所まで引き上げましたが、同時にそれは危険な一面も孕んでいて、以後の漢と諸民族との関係に於いて何より変化したのは、漢文明に対する意識が四海全域で一様に高まったことでしょう。
そしてそれは匈奴とて例外ではなく、漢に大敗した彼等は、それまで関心もなかった漢の文化を積極的に取り入れるようになり、その対象は次第に漢人の思想や制度にまで及んで行きました。
そうして幾代にも渡って漢人と交流するうちに、自然と文明圏の土地や人民を統治する術を覚えるようになり、もともと持っていた農耕民に対する優越感と、家畜を制御することを生業とする本能から、やがて自分達が支配階級となって農耕民を従属させるという発想が生まれ、遂には漢人の土地で国を興すまでになりますが、それはまた後の話です。

匈奴を駆逐したことで漢は、従来の外交戦略を根本から見直すことになりました。
漢と匈奴が二大勢力として並存していた頃は、周辺諸国や諸民族に対して宥和を第一に臨んでいた漢でしたが、唯一の超大国として東亜の国際社会に於ける責任を一身に負う立場になると、否応なしに新たな世界秩序を構築する必要に迫られたからです。
と言うより匈奴が北の覇者として君臨している間は、たとい他者との間でどんな問題が起きようと、漢の一存だけでは対外政策を決定することも儘ならなかったと言えます。
言わば宥和主義というのは、相手に自分の意思を通すことができない故の妥協策であって、恰もそれが平和共存であるかのように誤解され易いのですが、両者間に現存する問題の根本は何一つ解決されない訳ですから、長い目で見れば一時の武力衝突よりも危険な状態です。

例えば呉楚七国の乱の際に、漢帝室(景帝)に対抗すべく趙王劉遂は匈奴に通じ、呉王劉濞は南越から兵を借りています。
本来宗家を護るべき王族ですらこの有様ですから、これが朝鮮や両越ともなれば尚更で、もし漢が朝鮮を征伐しようとすれば、窮した衛氏は間違いなく匈奴へ助力を求めるでしょうし、同じく漢が両越へ大軍を派遣しようとすれば、透かさず匈奴がその隙を窺うでしょう。
従って漢帝から冊封を受けていたり、漢へ友好的な来訪をする民族に対しては、仮に隣接する郡県との間で揉め事が起きたとしても、大国の鷹揚さもあって多少のことは大目に見ていたのです。
むしろ漢が余りに富強であったが故に、却って周辺諸国が漢に甘えていたところもあって、実のところ四夷による漢領への侵犯や、国境付近での官物の強奪といった悪事は日常茶飯事でした。

しかし匈奴の勢力が衰えたことで、もはや漢にはそうした配慮をする必要がなくなりました。
従って匈奴征伐以降の漢は、それまで友好的に接していた国や民族に対しても明確に自国の意思を示すようになり、相手には当然それを受け入れるよう求めました。
何しろ匈奴が去った後の東亜世界は、大漢帝国とその周辺の小国という図式でしたから、本来ならば漢の意向に逆らえる者などいる筈がありませんでした。
こうした外交姿勢の変化を最も喜んだのは他ならぬ漢人であり、度重なる国境侵犯に苦労していた辺境の郡県や、眼前の敵に対しても攻撃を控えるよう指示されていた兵士、商隊が襲われたり結んだ契約を破られたりしていた商人などは、朝廷による海外への甘い対応に不満を募らせていたのです。

但し漢の方針が変ったからと言って、必ずしも海外の小勢力がそれに承服した訳ではなく、むしろ反発することの方が多かったと言えます。
と言うのも彼等は、漢と匈奴という二大勢力の均衡の中で、その両方から余り干渉を受けないという比較的自由な境遇に置かれており、言わば漢と匈奴の力が拮抗していたが故に、却って小勢力にとっては双方共に脅威ではないという不思議な安泰の中にいたからです。
これは匈奴寄りの立場を取っていた勢力は元より、漢から冊封を受けていたような国々でも同様のことで、彼等の方ではそうした国際情勢を踏まえて領内を統治していましたから、対匈奴戦の勝利以降一転して、周囲の小勢力をまるで臣下のように扱おうとする漢の態度には困惑を隠せませんでした。
ましてそれに甘んじてしまえば自領の体制が崩壊しかねないような勢力ならば尚更です。

しかし漢帝国を中心とした新世界秩序を築くことで、恒久的な平和を実現しようとしていた武帝は、原則として漢の意向に従わない者の存続を認めませんでした。
従って既に周辺の小勢力には、自治を許された上で郡県に組み込まれるか、もしくは属邦として臣従する以外に道は残されておらず、それを拒否すれば待っているのは滅亡でした。
そして当然ながらなまじ独立国の体を成していた者ほど情勢の変化に対応できず、前記の如く衛青の匈奴征伐が一段落してから僅か十年足らずの間に、南越・東越・朝鮮の三国が次々と滅ぼされ、その後も西域や西南へと征伐を重ねたため、遂には漢の周囲には国らしい国が一つもなくなってしまったのです(匈奴は国ではない)。

凡そ目に見える範囲の小国を尽く併呑してしまったことで、漢は東亜世界で最大且つ唯一の国家となり、ここに古代帝国漢が完成しました。
逆に漢が帝国内に編入しなかった地域を見てみると、北はどこまで続いているかも分からぬ草原と砂漠であり、東は朝鮮半島南部から江南沖にかけての島々であり、南は越や巴蜀の奥に広がる山深い密林であり、西は年間を通して山頂に雪が残るような嶺峰の連なる(チベットの)高地であり、或いは大苑の更に西方へと果てしなく広がる(中央アジアの)平原でした。
それ等の地域は漢人の感覚からすれば殆ど人の住めないような土地であり、少なくとも(当時の文明国の基準では)人間として文化的な生活が送れる場所とは見做されなかったのです。
逆に言えば人間が文明と共に活動できる範囲は、ほぼ例外なく漢の統治下に入ったと言えるでしょう。

そうして創り上げられた世界は、漢帝国という世界と、漢ではない世界という、単純に二極化された世界であり、それを象徴する境界こそが万里の長城に他なりませんでした。
そして人間が文化的に生きられるのが漢という世界であり、文明から見放されたのが漢ではない世界ですから、漢帝国即ち中国は人間の住む世界の全てということになり、「漢=天下」という図式が成り立ちます。
これは周代の重層的な世界観とは対極を為すもので、特に呉楚七国の乱以降は、建国以来採用されていた群国制が事実上停止され、帝国全土での郡県制の敷設によって中央集権化が進んだこともあり、天子即ち皇帝こそが全人類の君主という、後々まで続く皇帝制の基礎が出来上がっています。

もともと東亜世界は、文明の発祥地である広大な支那大陸を中心に、草原・砂漠・湿地・大海・密林・山脈・高原といったあらゆる大自然が、その四方を取り囲む形で成立しており、見事なまでに自己完結した世界となっている。そして黄河文明と長江文明を継承する人々にとっては、支那大陸こそが唯一の世界即ち天下であり、古来その天下には天子・諸侯・外藩・土人といった集団が共存していました。
従ってその天下を統一した秦や、その秦を継承した漢にしてみれば、仮に小国の二つや三つを踏み潰したところで、それはあくまで自国と同じ一つ天下での出来事であり、かつては候伯の封ぜられていた国邑が郡県となったように、酋長の占拠していた土地が教化されたに過ぎませんでした。

但し武帝の代に行われた一連の領土拡大政策が、スペイン人による新大陸進出や西洋列強による植民地の争奪、またはロシア人のシベリア開発のように、後の西洋人によって行われた制限のない領土拡大と異なるのは、漢代のそれはあくまで予め現地に存在した勢力を帝国内に取り込んだというものであり、その先の地で平和に暮している原住民の土地を奪って開拓するというものではなかったことであす。
その好例が朝鮮半島であり、衛氏を滅ぼした漢はその故地に四郡を設置しましたが、東端の楽浪郡の更に東方(朝鮮半島南部)へは進出していません。
つまり衛氏朝鮮の国土と、恐らくはその衛氏と交流のあった周辺の諸民族の居住地だけを接収すると、その先へは兵を進めなかったのです

無論そんな未開の土地を押さえたところで、開発の費用ばかりかかって投資に見合った回収など期待できないでしょうから、むしろ限られた人員や資金を四郡の復興に回した方が遥かに建設的だという、至って合理的な判断もあったと思われますが、これが西洋人や遊牧民であれば、その先に土地がある以上、取り敢えず行ける所までは行こうとしていたでしょう。
実際に広大な漢帝国全体から見れば、楽浪郡から対馬海峡までの距離など文字通り目と鼻の先です。
しかし漢は既存の衛氏の跡地を分割して郡県を敷き、それを中央から赴任した太守が引き継ぐだけで済ませていたので、朝鮮半島の南半分を残して実に中途半端な線で漢の国土が終る形となっています。

コメントを投稿