史書から読み解く日本史

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四夷と中国

2019-02-28 | 有史以前の倭国
地上のあらゆる場所へ棲息圏を広げた人類は、その辿り着いた土地が灼熱の砂漠であれ酷寒の氷原であれ、そこで生き抜くために最善の方法を見出すことで、いかなる環境にも適応して来ました。
現代に生きる我々は、衣食住を初めとして、(文明国に限れば)世界中のどこに居ても同じ生活を送ることができますが、それはあくまで産業革命以降に実現したものであって、近代以前には有り得ない話でした。
そしてこの地上のいかなる場所に於いても、年間を通して平穏無事などという例はなく、必ずその土地に応じた季節の厳しさがあり、毎年のように襲来する天災があり、受け入れなければならない風土があります。
従ってその土地で生きる術を知らない者は、ただその場所に留まることさえ難しく、ましてや四季を通して五体を保つことなどできません。

これが分隊単位のような小人数ならば、仮に未知の土地へ迷い込んだとしても、何とか飢えを凌いで生き抜くことができるかも知れません。
しかしそれが万を超えるような大人数で、しかも軍隊のように自らは何も生産しない集団であれば、たとい戦闘によって直接命を落とさなくとも、そこにいる全員の生命を全うすること自体が甚だ困難な作業となります。
もともと勝手の分からぬ土地へ進軍した際に最大の敵となるのは、相手の兵力ではなく敵地そのものである場合が多いからです。
逆に迎撃する側にしてみれば、住み慣れた土地がそのまま戦力ともなる訳で、本来自領を戦場とするのは兵法から外れますが、これを有効に用いれば遥かに強大な敵を撃退するのも可能となるため、古来過酷な環境で生活する者にとっては基本的な戦術になります。

例えば白登山の戦いでは、漢兵の十人に三人は凍傷で指を失ったと伝えますが、恐らく匈奴で指を落した者など百人に一人もいなかったでしょう。
同じく後年唐の太宗が高句麗へ親征した際にも、冬の猛吹雪で多くの兵士を殺してしまいましたが、高句麗では吹雪による死者など少ないものでした。
似たような例は近世以降にもあって、ナポレオンとナチス・ドイツは共にロシア遠征を強行し、共に壊滅的な損害を出して敗退しましたが、共に敗戦の原因となったのは彼我の兵力ではなく、途方もなく広大なロシアの大地と、西欧では経験しないようなロシアの冬でした。
そして唐は隋による高句麗遠征の失敗を間近に見ており、ドイツもまたナポレオンの敗因を研究しておきながら、結局どちらも同じ徹を踏んでしまうのです。

また呉の孫権は、東海上にあるという夷洲と澶洲へ一万の兵を渡航させ、現地の風土病でその大半を失いました。
当然これだけの規模の航海ともなれば、十分な薬を携行して軍医も乗船させているとは言え、そもそも漢人の薬は風土病には効きませんし、数千人が一度に罹患してしまえば医師としても手の施しようがありません。
尤もこれは前の大戦中に東南アジアへ進出した日本軍も現地で同じ目に遭っています。
同じく元のフビライは、艦隊による日本への遠征を強行させたところ、九州の沖合で低気圧の直撃を受け、一夜にして十数万の軍勢が戦闘不能になりました。
これも元軍が始めから季節の天災を想定しておらず、大時化に遭遇した際の対処法も知らなかったためです。
と言うより大陸は台風の進路から外れているので、恐らくは(漢人も含めて)その存在自体を知らなかった可能性が高いと言えます。

これが南方の越や西南への派兵となれば、季節を問わず感染症や害虫等の危険があり、西方の高原や砂漠への行軍となれば、高山病や水の確保に腐心することになりますが、いずれも現地の住民にとっては生まれながらの日常なので、苦しむのは常に文明国の方です。
そしてこれは現代でも同様であって、世界最強の戦力を有する米軍は、ベトナムのジャングルで泥沼の長期戦を強いられて遂にベトコンを破ることができず、圧倒的な火力でアフガニスタンへ侵攻したソ連軍は、地形に拠って戦う軽装のアフガン兵の前に敗退しています。
確かにベトコンの背後には中国とソ連があり、アフガニスタンの背後には米国がいて、それぞれ武器や物資を提供していた事実はあるにせよ、戦場だけを見れば米軍はベトナムの密林に、ソ連軍はアフガニスタンの高地と砂漠に敗れたのです。

装備についても同じことが言えて、もともと古今東西を問わず近代以前の軍備というのは、あくまで歴史と文化を共有する者同士の戦闘に適した形で発展したものなので、そうした共有する背景を持たない他民族との戦争は想定していない場合が多くなります。
例えば日本の伝統的な甲冑や日本刀は、国内の戦闘の歴史の中で完成した武具であり、もし日本の武士団が国内と同じ装備で越人や遊牧民の土地へ出兵しても、普段と同じ働きをするのは難しいでしょう。
そしてそれは軍の編制についても当て嵌まることで、やはり近代以前の軍制というのは、歴史と文化を共有する者同士の内戦を基準に制定されていたので、そうした背景を全く異にする他民族との戦争では、余り通用しないことも多かったのです。

従って古来文明国の軍隊では、文化圏の異なる他民族の土地の奥深くへ攻め入り、そのまま現地で長期滞在するというのは、甚だ困難なことでした。
無論文明国の方が、他者の土地へ生息圏を広げたような場合は別で、春秋戦国時代にも秦は巴蜀へ、燕は遼東へ、楚は南越や西南へといった具合に未開地へ進出し、現地人を従えて自国民を入植させています(実際には個々の入植者の方が先で、国家はそれを後追いする形の方が多いのですが)。
そうして移住した新天地で生活し、且つその植民地を統治して行く上で必要なのは、入植した文明人の方もある程度は現地の文化を受け入れることであり、またそうしなければ未知の世界で生きて行くことができません。

言わば先進地域からの移住者が、後進地域へ高度の文化を齎す代りに、先住民からは現地で生きる術を学ぶことで共存し、それを繰り返すことで人類は地上のあらゆる場所へ居住圏を広げ、全世界へ文明を普及させて来たのでした。
但しその帰結として生まれる社会は必ずしも同一ではなく、例えばラテン人の入植した中南米のように、ラテン人と先住民(場所によってはそこにアフリカからの移民が加わる)が数代を経るうちにすっかり混血して、双方の歴史と伝統を融合した独自の文化が形成された例もあれば、北米やロシアのように入植者と先住民が同じ土地に同居はしつつも、結局は溶け合うことなくモザイク状に分離したまま共存している例もあり、近代の西欧人が世界各地で築いた植民地のように、入植者が先住民を駆逐してその土地を奪うか、或いは支配階級となって現地人を支配したような例もあるなど、決して一様ではありません。

ではなぜ隋唐は幾度も高句麗に跳ね返され、米国と中共はベトナムに、ソ連はアフガニスタンに、何年にも渡る長期戦の末に敗退したのかと言えば、やはり基本的には目的そのものが中途半端で、開戦の大義も確たる戦後の展望もないまま徒に大軍を動かしたからだと言うほかはないでしょう。
そもそも制圧した土地を自国へ併呑するつもりで進軍するのと、単に敵地で敵軍を撃破することだけを目的とするのとでは、国策レベルでの外交戦略は無論のこと、現地での個々の戦術も全く異なるものです。
従って(現代の国際情勢からすれば現実的には不可能ですが)もし米国が始めからベトナムを五十二番目の州にするつもりで、同じくソ連がアフガニスタンを連邦内の自治領に編入するつもりで開戦していたら、恐らくは全く違った展開になっていたと思われますが、どれほどの大軍であろうと戦闘だけを想定して敵地へ侵攻すれば、自領に拠って戦う現地兵に苦戦するのは目に見えています。

そしてこの失敗を教訓とした米国は、後の湾岸戦争やイラク戦争では開戦と同時に敵軍と戦闘するような真似はせず、隙のない経済封鎖と徹底した空爆によって、相手が地の利を活かせないような状況まで事を進めてから、ようやく地上部隊を投入しています。
一方のイラクにしてみれば、もともと米国との間には圧倒的な戦力格差があるため、侵攻してきた米軍を自国領内で迎撃する以外に戦う術がありませんし、現にイラン・イラク戦争ではお互いにそうだったのですが、そんな戦争をする気がない米軍の前には何もできませんでした。
恐らく武帝の代に行われた漢と匈奴の戦争にしても、匈奴の方は従来通りの戦闘で雌雄を決するつもりだったのでしょうが、漢側の戦略は始めから一方的な掃討戦であり、言わばその前提となる認識と、それに基づく作戦の相違が勝敗を分けたとも言えるでしょう。

そして自分達が生まれ育った土地とは全く異なる場所で住み暮すことができないのは、文明人ばかりではなく四夷にしても同じことで、逆に彼等の方は黄河や長江流域の農耕地帯で生活したいとか、ましてや文明国を征服しようなどとは夢にも思っていませんでした。
仮に辺境の異民族が一時的な勢力で近隣の城を落とし、農地や村邑を奪うことができたとしても、所詮文明を知らない者には国を統治する能力などないので、収穫物や様々な物品を手当り次第に略奪した後は、元来た道を引き返して故郷へ戻るのが常となります。
むしろどこに何があるかも解らぬ未開人の土地へ文明人が攻め入るより、目に見える場所に財産のある文明人の土地を未開人が襲うことの方が、遥かに簡単だったとも言えます。
後に中原を制圧する北狄にしても、遊牧民の生活様式や行動原理のままでは、農業を基盤とする文明国に長期滞在するとか、遂にはそのまま移住してしまうというのは無理な相談でした。

例えば紀元前七七〇年に周朝は、犬戎(西戎)の襲撃を受けて首都鎬京を追われ、故地の関中を捨てて東の中原へ落ちざるを得なくなりました。
事の発端は、時の君主である幽王の度重なる失政に加えて、何の落度もなかった正室の申后と太子の宜臼を廃したことから、申后の父である申候の恨みを買い、申候が犬戎を引き込んで謀叛を起こしたというものです。
過去に幾度となく臣下や諸侯を欺いてきた幽王は、既に周囲からの信頼を失って久しく、急を報せる烽火を見ても諸侯は誰一人として馳せ参じなかったといいます。
無論申候の方はそれを見越して挙兵したのであり、臣下に見捨てられた幽王には援軍もなく、ここに武王以来十二代続いた周朝(西周)は一度滅亡しました。

戦後に申候と諸侯が廃太子の宜臼(平王)を擁立し、形の上では周朝(東周)を復興させましたが、鎬京は犬戎によって破壊されていたため、周はそのまま雒邑(後の洛陽)へ遷都することになりました。
しかし関中を失った周王家が往年の威望を取り戻すことは二度となく、時代区分としてはこの東遷を以て春秋時代の始まりとします。
後に戦国時代を終らせて史上初の天下統一を成し遂げた秦は、この東遷の際に周の平王を護衛した功により、時の領主であった襄公が周の故地である岐に封ぜられ、これを機に諸侯の列に加わったのが国としての起点となっています。
そして平王の即位から約五百年後、八百年三十七代続いた周朝は、その秦によって滅ぼされることになる訳ですから、何とも皮肉と言うほかはありません。

因みに周王家を関中から追い出した犬戎はと言うと、その肥沃な土地に留まるでもなく、戦後は当然のように故郷へと引き揚げて行きました。
恐らく遊牧民である彼等にとって、農耕民の土地になど何の魅力も感じなければ、何の価値も見出せなかったのでしょう。
もともと文明国の人々が禽獣に等しいと言って四夷を蔑視していたように、遊牧民は地べたに這い蹲って野良仕事をしている農耕民を見下しており、家畜を従えて自由に生活している自分達の方が高貴な存在だと信じて疑いませんでした。
言わば遊牧民にとって農耕民は略奪の対象でしかなく、農耕民の興した文明から何かを学んで自分達の社会に活かそうとか、農耕民の土地へ移住して文明人の仲間入りをしようなどという気は更々無かったのです。

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