史書から読み解く日本史

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天下統一(趙の攻略)

2019-03-30 | 始皇帝
紀元前三四一年、馬陵の戦いで斉軍に大敗し、翌年には秦に黄河以西を奪われるなど、魏が次第に弱体化して行く中で、代って台頭してきたのは北の趙でした。
晋の六卿を独占する六氏の一角を占めていた趙氏は、姓を嬴と言い、秦王室とは同祖だと伝えます。
魏が覇権を失った後の河北では、威王の下で急速に国力を増強させていた斉と、商鞅を用いて法治国家への道を歩み始めていた秦が、中原を挟んで東西に覇を唱えていましたが、趙もこの二強には及ばないとは言え、旧晋領から更に北方へ領土を拡大して着実に国力を蓄えていました。
ただ韓魏趙の三氏が晋を分割して独立した頃には、晋と同じく国内の分裂していた斉が田氏の単独統治によって復活し、西方の弱小国だった秦が絶対王権と法治主義を掲げて急成長を遂げると、分裂したままの三氏は彼等に対して劣勢に立たされることが多くなります。

趙が魏と入れ替わるように強盛となったのは、韓魏両氏と共に諸侯に列せられた烈候から数えて五代目の武霊王の代で、趙が西南北の三方から囲む(東は燕に隣接する)ような形で存続していた中山国を併合するなど、各方面で着実に領土を広げると共に、国内の開拓や殖産にも注力したことで、趙一国で韓魏両国にも匹敵するほどの国土を築き上げました。
但し武霊王自身が王位に即くことはなく、他国の君主が次々に王を称するようになる中で、趙にはまだその資質がないとして生涯趙公で通しています。
従って武霊王という諡号は、初めて趙王を称した次代の恵文王が追贈したものです。
その一方で高台を設けて遠く東方諸国を臨むなど、他国の征服にも野心を持っていたといいます。

趙の躍進を齎した政策の一つに、武霊王の導入した胡服騎射の軍制があります。
胡服騎射とは読んで字の如く、乗馬に適した胡人の服装と騎兵による弓射のことで、スカートのような従来の文明人の軍服と、戦車と歩兵を主力とする軍編成を一新するものでした。
これは遊牧民と広く国境を接している趙にあって、その合理性を認めた武霊王が自国軍への採用を決めたものでしたが、遊牧民を北狄と蔑み、文明人であることを誇りとしていた軍人の反発は大きく、君主自らが根気よく説得してようやく実現しています。
そうした中華意識に加えて、後年武将の等格を配下の騎兵数で表したように、当時は戦車何乗というのが貴族や将軍の待遇を示していましたから、数百年来の意識を改革するのは容易ではありませんでした。

この戦車という乗物は、古くはエジプトやヒッタイトでも常用されており、周文化圏のみならずユーラシア全域に普及していた古代の戦場を象徴する兵器で、その起源は中央アジアの平原地帯と推測され、周へは西方の遊牧民を介して伝わったものと思われます。
要は戦車の方が騎兵よりも先に登場している訳ですが、これは馬具の発達していなかった当時にあっては、乗馬そのものが甚だ困難だったためで、やがて馬具が進歩して乗馬による騎馬の制御が容易になると、遊牧民の間では悪路の走破性に難を持つ戦車に代って、機動力に優れた騎兵が軍備の主力となって行きます。
そして趙が戦車から騎兵への転換を断行し、その効果が実戦の場で証明されると、他国も趙に倣って騎馬軍を創設するようになり、戦車は次第に戦場での主役の座を失って行きました。
言わばこの一事もまた、当時の支那大陸が周文明という既存の枠を超えて、東亜という単一世界へ向けて動き出したことを如実に表すものだったと言えるでしょう。

また武霊王の代に隣国の燕と秦で王位を巡る混乱があり、東の燕では名君願望の強かった燕王噲が、堯瞬に倣うと称して宰相の子之に譲位するという珍事が起き、これに反発した太子平が挙兵したため一時君主不在の内乱となりました。
武霊王は趙の後ろ盾で公子職を新王に立てようとしましたが、混乱に乗じた斉が軍を送って燕を制圧してしまい、斉に服属することを条件に職が燕王として即位しました。
これが燕の全盛期を築いた昭王です。
一方西の秦では、子がないまま武王(孝公の孫)が事故で急逝したため、王位を巡って後継者争いが起こりましたが、武霊王は趙に滞在していた公子稷(武王の異母弟)を秦に送って即位させました。
これが天下統一の礎を築いた昭襄王です。
そして後年斉は自ら王位に即けた昭王によって滅亡寸前にまで追い詰められ、趙もまた昭襄王に首都邯鄲を包囲されてしまうのですから、何とも皮肉な話ではあります。

武霊王が築き上げた趙の国威も、続く恵文王の代には早くも陰りが見え始めました。
但しこれは趙が衰退したと言うよりも、趙の成長を遥かに超える速さで時代の方が先行してしまったとでも言うべきもので、特に昭襄王の下で急成長を遂げていた秦は、西方の覇者として黄河以東への野心を露にしており、武霊王亡き後の趙にとって秦との外交は最も厄介な問題でした。
幸い恵文王は、藺相如、廉頗、趙奢といった有能な臣下に恵まれたことで、三十年余にも渡る治世を大過なく終えており、趙の民衆も然程戦禍を憂うことなく過ごしていますが、秦との関係だけは終始緊張の連続でした。
この昭襄王と恵文王が対峙していた頃の秦と趙を巡っては、「完璧」「刎頸の交わり」といった故事に代表される有名な逸話が数多く伝わっており、表向き平穏に見えても趙にとって試練の時代であったことは間違いありません。

もともと韓魏趙三国の国土は、三氏が智氏を滅ぼして旧晋領を分割した際に、他氏の領地を分け合って独立しているので、他国のように一カ所に纏まった範囲ではなく、各地で互いの所領が入り組んだままの歪な形で成立しています。
中でも趙氏の領土は、旧晋領のほぼ北側三分の一を占有する形で分国しており、周王室の首都洛陽を囲むように配置された韓魏領に比べて、僻地を割り当てられた感は否めませんでした。
しかし後年は却ってそれが幸いし、四方を他国と接する韓魏両国が、早くから領土拡大に限界が生じていたのに対して、北方に文明圏を持たない趙は(反面遊牧民には苦慮することになりますが)、外へ向けて版図を広げる余地が残されていました。
従って趙の国主が、諸侯の盟主になろうなどという無謀な野心を持たず、主に国境の南方で繰り広げられる諸国間の覇権争いにも係ることなく、自国の繁栄だけを考えて国家を運営することができれば、それこそが趙国民にとって最も冀う世界だったでしょうし、それは東隣の燕にしても同じだったでしょう。

趙の国土を見てみると、晋時代の趙氏の本領が、晋の中心から遠く離れた東域だったこともあり、趙の首府は初め鶴壁、次いで邯鄲と、いずれも国土の東端に置かれており、それは版図が拡大した後も変りませんでした。
邯鄲は魏領とほぼ国境を接している上に、斉との国境にも近く、この一事は初期の趙にとって最も警戒すべき相手が魏と斉であり、基本的に東方重視の国政だったことを示しています。
戦国後期の趙の地形を見てみると、本領である東の平野部が政治と文化の中心地で、その西側には広大な国土の中央を何本もの山脈が走り、地形の大半を占める山岳とその合間に広がる盆地を本領で背負うような形になっています。
言わば後年最大の宿敵となる秦に対しては、常に背を向けた格好になってしまっている訳で、黄河以東への進出を画策する秦が、この状況に食指を動かさぬ筈がありませんでした。

恵文王が薨じて太子が即位(孝成王)した頃には、前王の治世を支えた功臣の多くが老いて一線を退いており、趙は新王と共に臣下もまた新たな人材を求められていました。
しかし余りに有能で大功のある家臣が長く重職にあると、得てしてその下では然るべき世代交代が起こり難くなり、功臣達が去った後に一時的な人材不足となってしまうのが世の常で、孝成王の治世もまた一抹の不安を抱えての始動でした。
そしてその不安は現実のものとなり、孝成王の即位から間もなく韓と秦との間で紛争が起きた際、図らずも趙が漁夫の利を得る形でそこへ絡んでしまったことから秦との関係が悪化し、これが長平の戦いを招くことになりました。
長平の戦いについては、余りに有名な戦争なのでここでは省きます。
ただ広く知られているように、この戦場で趙が失ったものは余りに大きく、幸い秦が国内の権力闘争に絡んで兵を撤退させたため、この時点での滅亡だけは免れたものの、実質的には亡国にも等しい大敗であり、百年を要しなければ回復しないほどの被害を出しています。

もともとこの戦争に際して趙は、強勢な秦の侵攻を防ぐために可能な限りの兵士を動員して前線に送っており、史書によるとその数は四十万人とも言われ、もしこの数字が事実ならば、辺境防衛等の残留部隊を除く趙のほぼ全軍と言ってよいものでした。
しかしその結末は悲惨なもので、約半数の二十万余の兵士が戦死もしくは食料の尽きた城内での餓死、残る二十万は抗戦を諦めて降伏したものの、秦軍の方も長引く戦陣に疲弊しており、とてもそれだけの捕虜を養う余裕がなかったため、投降兵の大半が坑殺されてしまったといいます。
趙側の死者数については諸説ありますが、この二十万という数字を疑問視する向きもあって、やはり十万単位の人間を一夜にして抹殺するというのは俄かに信じ難いもので、そもそも一国の全軍に等しい数の将兵が一カ所に籠城していた筈もありません。
従って秦軍による趙兵の坑殺が行われたのは事実にしても、その数字はかなり誇張されて後世に伝わったものと思われます。

ただ動員された兵士の大半が戻らなかったのは事実であり、当然この兵士達というのは、戦時にあっては軍の中核となる戦力であり、平時にあっては生産の中心となる世代だったので、まさに趙は国家の未来を担う人材を一瞬にして失ってしまった訳です。
長平の戦いの後、一度は秦との間で和議が結ばれたものの、これが一時的な休戦に過ぎないことは誰もが知っていたことで、早くも翌年には兵士を休息させた秦が再び趙へ侵攻しましたが、前年の戦場で将校の多くを亡くしていた趙にはもはやこれを防ぐだけの力はなく、瞬く間に全土を制圧されて首府邯鄲を包囲されました。
しかし秦に対する趙人の恨みは凄まじく、上下一体となって邯鄲を死守している間に、孝成王の叔父(恵文王の弟)の平原君が魏と楚からの援軍を呼び寄せて何とか秦軍を撃退しましたが、既に趙の弱体化は誰の目にも明らかとなっていました。

長平の戦いの後も趙は三十年ほど存続しました。
実のところ秦で呂不韋が自刎し、嬴政が新政を始めて以降、韓の滅亡前にも秦は幾度となく趙への進攻を試みているのですが、その都度趙の将軍李牧によって撃退されていました。
李牧は始め雁門で匈奴防衛の任に就いており、燕との紛争で武功を挙げたことなどが認められて将軍に抜擢され、対秦戦線での司令官となっていた人物です。
言わば後年蜀漢に於いて、五虎将軍が世を去った後に姜維が登場したように、恵文王下で長く趙を支えた功臣連を引き継ぐ形で、末期の趙に突如として現れた救国の名将でした。
しかしその最期は無情なもので、秦の仕掛けた離間の計に嵌った幽繆王(孝成王の孫)が、謀反を疑って彼を解任してしまい、それを不服として従わなかった李牧は誅殺されました。
秦軍による邯鄲の占領は、李牧の失脚から僅か数カ月後だったといいます。

邯鄲陥落は韓滅亡の翌々年に当たる紀元前二二八年のことで、これを転機として秦の統一事業は一気に加速して行きます。
かつて始皇の曽祖父に当たる昭襄王が西帝を称して以来、秦の河北進出を阻んでいたのは常に趙でした。
零から一までの距離は、一から十までより遠いの譬え通り、秦の覇業に於いて趙は、最初の難関であると同時に最大の障壁であり、現に趙一国の征服に四代数十年を要したのに対して、実質的な天下統一となる楚の滅亡は、趙の消滅から僅か五年後です。
これが孝公と商鞅の時代であれば、秦にとって最大の敵は中原の強国魏であり、国防と外交の最優先課題は魏の弱体化でした。
しかし秦が黄河以西という枠を超えて、天下という未踏の世界に覇を唱えようとするならば、まず最初の通路となる中原の北を覆う趙を無力化する必要があり、それが叶わなければ更にその先の世界への進路が開けない訳ですから、趙攻略こそは秦の長年の悲願と言えるものでした。

2 コメント

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Unknown (島のじいさん)
2020-10-20 11:45:12
はじめてお便りします。古代燕を調べているうちにこちらへもおじゃまいたしました。じつに見事に秦と趙の関係を説明されており、痛く感激いたしました。
宮城谷さん以来長く趙とは離れていましたが、このまえから馬に絡んでおりまして
久しぶりに胡服騎射を思い出していたところです。
記事にあります直接騎乗(うまのり)は馬具の各種がでそろうまで結構時間がかかったようですが、鐙が発明されて一気に騎馬戦術が高度化して、匈奴も一気に強大化していったようです。武帝に敗れて遠く西方に散っていった多様な騎馬の人々は後に鐙をつけてシャルルマーニュと闘い(アバール)やっと西洋人は鐙をしたとのことです(スラブ史・興亡の世界史)。
今後ともすばらしいブログを期待しております。
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Unknown (sansui-ou)
2020-10-22 22:23:23
島のじいさん様。
コメントありがとうございます。人間どこでどうつながっているか分からないとよく言いますが、世界史もまた同じことだという訳ですね。馬具や遊牧民についてはまだまだ勉強不足なので、これからも色々と調べていきたいと思っています。気まぐれの不定期ブログですが、また暇つぶしにでも目を通していただけると幸いです。
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