史書から読み解く日本史

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万里の長城(一)

2019-02-21 | 有史以前の倭国
蝗という虫がいます。
但し常日頃から目にすることのできる固体ではなく、蝗単体で固有種という訳でもありません。
世界中のどこにでもいるバッタ類が、生活環境や個体群密度の変化によって、孤独相から群生相に相異変を起こしたもので、通常のバッタ(孤独相)の飛翔能力が至って短距離であるのに対して、蝗(群生相)は長距離を飛行するのに適した容姿へと変形しています。
この蝗が群を成して飛ぶことを飛蝗、その害を蝗害と言い、空を覆うような大群で飛来して、あらゆる植物を食い尽くしてしまうため、飛蝗の襲来を受けた土地では深刻な飢饉となります。

日本では一般にイナゴの害として知られますが、これは蝗害の少なかった日本で「蝗」を「イナゴ」と読んだもので、本来相異変によって飛蝗型となったバッタ類と、水田などで見られるイナゴとは全くの別種です。
世界中で様々な種類のバッタが相異変を起こしますが、漢語圏で蝗と言えばそれは主にトノサマバッタの群生相を指し、大雨や旱魃の後には決まって飛蝗が発生したことから、古来支那では天災の一つに数えられ、蝗害に関する記録も極めて多く残っています。
そしてこれは何も過去の話ではなく、二十一世紀の現代でも蝗害は各地で報告されており、二〇〇五年には南海省で大規模な飛蝗が発生し、農作物に壊滅的な被害を出しています。

黄河文明と北方の遊牧民との関係もこれとよく似ていました。
もともと遊牧民は、広大な平原に家族単位で放牧をして暮らしており、他の放牧者と出遭うことも稀であるような人口密度の中にあって、農耕民以上に争いとは無縁の生活をしています。
農耕民と遊牧民の関係にしても、農耕民は放牧に適さない土地で農業をしており、遊牧民は農業に適さない土地で放牧をしているので、お互いに生業を営んでいる限り、自然に棲み分けが為されています。
従って両者の生活圏が触れ合うような境域での些細な揉め事を除けば、本来は争う理由など全くないような間柄であり、稀に紛争が起きたところで通常はすぐに収束します。

しかし何らかの条件が揃った時、個別に生活していた遊牧民が突如として集団行動を始め、時にそれは地を覆うような人馬の群となっての大移動と化し、まるで羽が生えたかの如く遠方まで長駆して、行く先々で殺戮と略奪を繰り返すようになります。
そしてしばらく可能な限りに各地を荒らし回ると、まるで嵐が過ぎ去るかのように雲散霧消して、再び平穏な放牧生活へと戻って行くのでした。
農耕民である黄河流域の人々にとって、この遊牧民の習性は蝗害同様に迷惑この上ないものであり、古来その防衛に腐心することとなります。
何より飛蝗にしろ遊牧民の襲来にしろ、果して次はいつどこでそれが起こるのか、殆ど予測できないというのが最大の難点でした。

その遊牧民と周文化圏との関係を象徴するものの一つに万里の長城があります。
所謂長城そのものは古くから存在し、春秋戦国期の諸侯が自国の境界に築いたものが起源と言われ、かつては遊牧民と接する北方の境域ばかりでなく、諸侯同士の国境に造られた長城もありました。
やがて秦が天下を統一すると、そうした諸国間の長城は尽く破壊され、各国が個別に設けてきた北面の長城を繋ぎ合せて、秦帝国の長大な北の国境を東西に横断する万里の長城が建設されました。
因みに今では固有名詞ともなっている「万里の長城」という名称は、『史記』にその長さを「万余里」と記されたのに由来します。

秦が長城を一本化する前に、独自で遊牧民との境域に長城を築いていたのは燕・趙・秦の三国で、秦が万里の長城を完成させるに至った要因としては、既に自国が長城を敷設していたことも大きいと言えるでしょう。
そして今では万里の長城の専売特許のようになってしまった観もある国境の防壁ですが、似たような建造物は古今東西を問わず世界中に例があり、ローマ帝国もまた異民族の侵入を防ぐ目的で、その長大な国境線に長城や防塁を築いていますし、現代のアメリカ合衆国とメキシコの国境にもフェンスが張り巡らされています。
近いところでは合衆国大統領選挙に於いて有力な候補者が、その米国とメキシコの国境に壁を築くと主張して話題になったことは記憶に新しいところです。

但し現存する長城の大部分は明代に建設されたもので、秦代の長城は現在よりも更に北側に敷かれていて、その後も時代によって各地で南北に移動しています。
そして漢の武帝が匈奴を遥か北方へ駆逐すると、河西回廊の防衛のために長城は更に西へと延長され、遂には東の朝鮮半島から西の玉門関までを結ぶ形で完成しました。
言わば文字通り国家の北辺の総延長に人工の国境線を構築した訳で、当然ながらこれほどの建造物は世界的に見ても例がありません。
それは支那史上初の統一帝国である秦と、その秦を受け継いだ漢という空前の大帝国が造り上げた、文字通り夢と現実の狭間に位置するような楼閣でした。
尤も後年それを更に堅牢な形で再建した明(と言うより永楽帝)の思考にも驚愕するのですが。

では東西南北の四方の国境の中で、なぜ北方だけにこのような長城が造られたのかと言うと、唯一北側だけが他の三方のように海や山河といった自然の地形によって国境線を引くことが困難だったからに他なりません。
これは現在の中華人民共和国に於いても同様で、北以外の他国との境界は主に海・山脈・河川といった天然の障壁が当てられており、どちら側から見ても一目で分かる形で線引きが為されています。
そしてそれは国境ばかりでなく、国内の州(省)や郡(市)といった行政単位の境界にも当て嵌まることで、むしろその方が歴史的に見ても自然な形でしょう。

しかし北方の農耕民と遊牧民の境域だけは、草原・砂漠・丘陵といった風景が野放図に広がっており、そこに双方が納得する形で自然の妥協線を見出すことは、現実的に不可能だったと言えます。
まして(現代でさえ)遊牧民の方には国境とか国家の主権などという概念そのものが無い訳ですから、お互いの生活圏を分離して平和裏に共存しようとすれば、領域を分けたい側が誰の目にも見える形で一方的に線を引いて、自国の範囲を主張するしかありません。
そして相手に対して壁という形で境界を見せるということは、小人数での人馬の越境まで規制するのは物理的に不可能だとしても、武装した相応の人数でその一線を越えた場合は、侵入を即宣戦布告と見做すという明確な意思表示でもあり、相手も当然それを意識せざるを得なくなります。

そもそも国境というのは国土の基本であって、国境線が明確でないということは、即ち主権の範囲が曖昧ということですから、そうした国は得てして内政も怪しいと思ってよいでしょう。
同じく国境線を明確にできないということは、政府に自領を主張する能力がないか、もしくは国土防衛の意思が希薄ということですから、そうした国は決まって他国から嘗められます。
もし支那大陸の北の大地と同じように、自然の地形によって双方が共に認識できる境線を見出せない状況にあって、しかも何らかの人工的な防衛線が敷かれていないとすれば、それはEU圏内の西欧諸国や米国とカナダの国境のように、双方が相手の主権を尊重し合うことで防衛の必要が生じていないか、さもなくば中東の砂漠やアフリカの草原に引かれた人工線のように、双方が共に国境の防衛を放棄しているかのどちらかでしょう。

その名の通り城としての長城を見てみると、構造的には延々と続く防壁と要所に点在する櫓から成り、その桁外れの規模の大きさ以外は、別段珍しいものではありません。
但し通常我々が「万里の長城」と聞いて想像するのは、山の峰を走る見事な石造の城壁でしょうが、そうした長城の殆どは明代の建造であり、世界遺産として観光客が多く訪れるのも明代の長城です。
秦漢の時代の長城は、明代のそれに比べると至って簡素なもので、各地に現存する遺跡から推測すると、(場所にもよるが)幅は約三~五メートル、高さは二メートルほどの、城と言うよりは土塁と石垣から成る防堤のようなものでした。
要は馬が越えなければよいという基準で造られており、特に秦代の長城は多くの箇所で既存のものを再利用しているので、基本的には戦国時代の長城の構造をそのまま引き継ぐ形になっています。

それもその筈で、実際に長城建設の作業を担ったのは、秦軍の工兵隊や専門の土木集団などではなく、徭役によって帝国全土から徴集された人夫達であり、言わば土木の素人が土を盛り、石を積んで造り上げたものなのです。
従って所詮は簡易式の突貫工事なので、果してこれは一時的な防波堤として計画されたものなのか、それとも半恒久的な施設として造営されたのか、耐用年数を始めとした実用性をどこまで計算して設計されたのか等、秦帝国が描いていた長城の未来像というのも実はよく分かっていないのが実情です。
尤もこうした防衛線というのは、あくまで平時の国境を守るためのものであり、且つ国境は常に守られているという心理的な安心感を得るためのものですから、本来その条件さえ満たしていれば事は足る訳で、建設費や維持費の負担を考慮しても、必要以上に堅固にする理由はなかったのでしょう。

例えば街の治安を維持しようとするならば、落書きやポイ捨てといった小さな犯罪を撲滅することが最も効果的であるように、隣接する仮想敵国との無用な戦争を回避しようとするならば、不法入国や密貿易といった小さな侵犯を未然に防ぐのが最善の策となります。
仮にそうした個人レベルの犯罪を阻止したことが原因となって、国境付近で両者の間に小さな揉め事が起きたとしても、それがそのまま両国間の戦争にまで発展するようなことは殆どないからです。
同じく平時にあって治安の悪化を招く一番の要因が、文化や価値観の異なる外国人の流入であることは、古今の事例が如実に示しており、前述の米国境に壁を築くという主張もこれに起因しています。

ただ漢人と遊牧民の間の境域というと、得てして遊牧民による漢人の土地への侵攻ばかりを連想してしまうのですが、実は漢人による遊牧民の土地への侵犯も珍しくはなく、漢人の方が一方的に被害者というものでもありません。
その典型的な例を挙げると、遊牧民は季節によって放牧地を移動しながら生活していますが、遊牧民が留守にした土地で漢人が家畜の放牧を始めたり、放牧地を農地に変えて占拠したりして、戻って来た遊牧民と揉めることが度々ありました。
従って北の国境線というのは、そうした戦争の火種ともなり兼ねないような、漢人による遊牧民の土地への流出の方も監視しているのです。 

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