史書から読み解く日本史

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万里の長城(二)

2019-02-22 | 有史以前の倭国
秦漢の長城が至って簡易式だったのは、まだこの時代には遊牧民の脅威と言っても突発的な侵入に限られていて、後世のように黄河文明の発祥地である中原が、長期間遊牧民に支配されるような経験もなかったので、基本的には国境を可視化したに過ぎなかったからでしょう。
遡れば西周は首都鎬京に犬戎の侵攻を許し、時の幽王が殺されるという事態を招いていますし、諸侯の一人である衛公が狄人に殺戮された例もありますが、所詮それ等は一時的なものであり、事が終れば遊牧民は引き揚げています。
それに対して千数百年後の明は、蒙古人の元による屈辱的な支配を受けての建国であり、元という国が滅びた後も蒙古そのものは北の大地に健在だったことや、永楽帝以降は首都が遊牧民の土地に近い北京だった(蒙古の南下に備えて敢て北京に都したとも言えますが)こと等が、あの途方もない城壁の造営に繋がっているのでしょう。

同じく秦漢の長城が単純な構造だったのは、千数百年後の明代に比べて産業力が未熟だったという事情もあります。
確かに秦漢の建設技術そのものは西のローマと並んで極めて高度なものであり、その国力と技術力を示す遺跡も数多くあります。
但しそうした建造物の殆どは首都咸陽(長安)とその近郊に集中していて、それを担ったのは軍内の優秀な工兵と全国各地から集められた熟練工でした。
しかし都市部から遠く離れた地での作業ともなれば話は別で、もし辺境にあっても首都と同レベルの仕事をしようとすれば、当然それには単純な技術力ばかりでなく、資材の調達(生産力)や輸送力といった国全体の工業力、知識や技能に於ける全国共通の民度といった問題も絡んでくる訳で、流石に秦漢の水準では後の明代のようにはいかなかったのでしょう。

そして今では「無用の長物」の同義語にも扱われる万里の長城ですが、あくまで本来の目的は人工の国境線であって、その主要な役割は平時の国境を守って紛争を未然に防ぐことですから、むしろ昼行灯なくらいで有難いとも言えます。
軍事施設として見た場合、始めから長城に大した防衛能力はなく、配備されていた人員にしても、点在する物見櫓に軽装の守備兵が置かれたくらいでした。
そしてその兵士達の職務というのは、無論平時にあっては国境の守備であり、有事の際には狼煙を揚げて隣接する櫓隊へ異変を伝え、その狼煙を伝送して本隊へ敵の襲来を報せることでした。
つまり守備兵には必ずしも長城防衛の義務はなく、どちらかと言うと偵察隊としての責任の方が重要だった訳です。

それも当り前の話で、支那大陸を東西に横断する長大な北の国境にあって、いつ来るか分からぬ敵を長城で防ぐために常備兵を配置しようとすれば、それこそ帝国中の男子を徴集しても足りるものではありません。
従って長城に「有用」を求める方が本来的外れなのであり、むしろそんな事態にならない方がいいに決まっているのでした。
ですがそれを差し引いても長城の存在的な評価が低いのは、莫大な国費と労力を投じて建設しながら、実のところ殆ど機能することがなかったからでしょう。
ただ国庫や人材の浪費という観点から見た場合、もともと長城は最大の仮想外敵に備えて築かれたものですから、建設に要した費用や労力云々を言うならば、それはあくまで遊牧民と戦争になった際の戦費や戦時動員数との比較でなければなりませんし、その維持費にしても国防費全体から論じなければ意味がありません。

つまり長城の建設にどれほどの予算を割いたとしても、戦時の軍事費が国内総生産に占める割合に比べれば甚だ安いものですし、一旦戦争ともなれば戦中ばかりか戦後の復興も莫大な出費になります。
同じく帝国全土から徭役で何万人を徴集し、過酷な労働条件で多くの人夫が命を落としたなどと言っても、徭役と徴兵を比べて後者を選ぶ者などいませんし、そもそも戦死者の数は過労死の比ではありません。
加えて国内が戦場になれば女子供を含めた非戦闘員の犠牲者も急増します。
また平時の維持費にしたところで、帝国の軍事費の総額からすれば十分負担できる程度のものであり、どちらの経費にしても巷で酷評されるほど巨額でもなかったのです。

また完成以来殆どその役割を果たして来なかったことについて言えば、確かに結果だけ見れば建設してもしなくても同じだったのは間違いないのですが、それは初めから無用な代物を造ったというよりも、計画が立てられた時点では一応その必要性が論じられていたものの、その後の状況の変化によって完成する頃には已に不要だったと言うべきでしょうか。
同じような結末を迎えた計画はそれこそ無数にあって、恐らくは人類が人類である限り、この先も幾度となく出現するでしょうが、よく似た近代の軍事施設に限ってみても、長城と同じく「無用の長物」の烙印を捺された建造物に、フランスのマジノ線があります。

第一次世界大戦で国内に甚大な損害を被ったフランスが、国土防衛の一環としてドイツとの国境に築いたマジノ線は、莫大な国費を投じて建設された無類の要塞郡でした。
しかし前大戦の戦場(主に塹壕戦)を想定して造られたマジノ線は、その後の著しい機動力の進歩に対応しておらず、実際に第二次世界大戦が始まると、マジノ線を迂回して国境を越えたドイツ軍によってフランスは呆気なく占領されてしまい、結局ただの一度も仕事らしい仕事をすることなく、竣工から十年を待たずして早や遺跡となってしまいました。
尤もマジノ線の本来の目的は、あくまでフランス本土を戦場にしないことですから、そういう意味では結果として役に立ったと言えなくもないのですが。

これは長城についても同様のことが言えて、もし長城が戦場に於いてその効力を発揮する機会があるとすれば、敵が攻めて来ることを予め知っていて、それを迎撃する準備が十分整っていたか、或いは国内に攻め入った敵兵を一旦追い出した後、改めて国境に戦陣を張るといった具合に、長城を挟んで敵軍と対峙する形になった場合でしょう。
対峙戦に持ち込むことさえできれば、馬を越えさせない長城は騎兵や戦車に対して十分な防御力を持っており、むしろ(工兵隊を含む)身軽な歩兵の方が突破力に勝っている面もありました。
従って春秋時代の諸侯のように軍の主力が馬曳きの戦車で、かつ当時の戦争準備や行軍に要する時間からして、よほど諜報を怠らない限り国境での迎撃の布陣が可能であれば、少なくとも諸国間に築かれた長城は、簡易的な城壁くらいの役割は果たしていたと言えます。

一方これが対遊牧民の場合だと、実のところ匈奴が台頭する以前の遊牧民には、それほど大規模な動員能力はなく、後世のように万を超える騎馬軍が組織的に侵攻して来るという事態は、余り想定する必要がありませんでした。
つまり春秋戦国の頃までは、遊牧民の襲来と言っても国境付近の村邑の略奪程度のものが多く、それを受けて三軍が出動するというのが常でした。
しかし匈奴が遊牧民の覇者となると、騎兵の運用に革命とも言える進化を齎し、騎馬軍の機動力を飛躍的に向上させたため、国境は数万(或いは数十万)もの軍勢によって瞬く間に突破され、その大軍が国内を一気に蹂躙してしまうので、長城での対峙戦に持ち込むことすら困難になりました。
そして要塞としての長城は、その軍事的な役割を終えることになったのです。

貴重な国富の浪費という点で言えば、無論似たような建造物は日本にもあって、今では死語となってしまったかも知れませんが、かつて霞ヶ関界隈で使われていた言葉に「昭和三大馬鹿査定」という隠語があったといいます。
これは大して役にも立たない代物に途方もない予算を付けてしまい、その支出に見合うだけの結果を得られなかった事例を揶揄したもので、通常「三大」のうち二つまではお決まりになっていて、昭和の二大馬鹿査定としてよく引合いに出されたのは、戦艦大和と青函トンネルだったといいます。
但し後世に「馬鹿査定」などと言われるような事案は、初めから反対意見も多いのが実情で、むしろそれを止められなかったこと自体が問題の根本となっている場合が多いのですが。

大艦巨砲主義の象徴でもある大和は、帝国海軍の持つ技術の粋を集めて建造された、当時としては世界最強の戦艦でした。
しかし大和が進水する頃には已に戦艦そのものが時代遅れとなっており、結局その戦闘力を殆ど発揮することなく撃沈されてしまったことは、日本人ならば誰もが知るところです。
また世界最長の海底トンネルとして、実に四半世紀もの年月を費やして建設された青函トンネルは、やはり開通する頃には航空機やフェリーの発達によってその存在理由がなくなっており、高額な維持費の問題から、実用化せずに破棄すべきとの意見まで出てくる始末でした。
そして改めて言うまでもないことですが、大和を造る予算で空母と戦闘機を配備し、青函トンネルを掘る費用で青森県と南北海道の交通網を整備していれば、後年どれほど有用だったか計り知れないものがあります。

そして世は平成に変って四半世紀が過ぎた今、東日本大震災の被害を受けた東北で、恐らくは後の世に平成の馬鹿査定と評されるであろう税金の垂流しが、壮大な環境破壊を伴いながら復興という正義の名の下に進められています。
美しい奥州の海岸線を総延長四〇〇㎞にも及ぶコンクリートの壁で覆い尽そうというスーパー防潮堤計画がそれで、四〇〇㎞と言えば秦漢に倣って一里を四〇〇m(江戸時代は一里=三十六町なので約四㎞)として計算すると、ちょうど千里になります。
しかもこの現代版千里の長城は、奥州ばかりでなくその南の関東の海岸線でも堤防の嵩上げ等が行われるので、実際の総延長は更に長くなります。

既に多くの紙面等でも報道されているので詳細は省きますが、そもそも数百年に一度の災害に備えて防衛線を築くこと自体が無意味ですし、恐らく次に同規模の天災が発生する頃には、今造られている設備の大半は劣化して使い物にならなくなっているか、その遥か以前に跡形もなく取り壊されているでしょう。
現地で被災した人々の声に耳を傾けてみても、地元住民の大半は海が見えなくなる壁など望んでいませんし、工事現場となる自治体の要請を受けての建設でもないとすれば、一体これは誰が何のために散財しようというのでしょうか。
実のところ堤防などに大金を費やすくらいなら、その予算を気象予測や災害対応の向上に回した方が、遥かに建設的だというのは誰にでも分かることなのです。

むしろこの防潮堤そのものには初めから大した意味はなく、それなりに理由の付く形で被災地に公金を投入して、復興の起爆剤にすること自体が目的だとするならば、似たような経緯で造られた無数の廃墟が示す通り、今から解体の費用も引き当てておくべきでしょう。
尤もいつの時代も常軌を逸した査定が罷り通る背景には、意思決定機関の構成員による責任逃れの悪習が蔓延っているのが常ですから、案外万里の長城に代表される歴史上の壮大な無用物にしても、責任者不在のまま実行に移してしまったことで却って歯止めが効かなくなっただけなのかも知れません。
願わくは被災者とその子孫のために建設されている千里の長城が、完成する頃には(或いはその前から)取り壊す計画が持ち上がるなどというような事態にはなって欲しくないものです。

またこれ等の建造物が厄介なのは、必ずしもそれ単体で計画された事案ではないことでしょう。
つまり他にも数多くの工事が同時に実施された、複合的な公共事業の一環だったのであり、その事業全体が余りに巨大であったが故に、個々の事例の中に稀代の蛇足を内包してしまった訳です。
例えば奥州のスーパー防潮堤の場合も、本来これは震災復興事業のほんの一部でしかなく、復興計画の総予算から見れば、防潮堤の建設費用などは微々たるものと言えます。
それは万里の長城もまた同様であって、そもそも長城は秦建国に伴う壮大な土木事業の一環として築かれたものであり、どちらも平時であれば決して裁可の下りないような事案なのは、冷静に考えれば誰にでも分かることでした。

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