史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

魏志:卑弥呼と台与

2019-09-30 | 魏志倭人伝
日食の形と名称(国立天文台公開)卑弥呼の死と日食の一致更にこの両年の日食を特別なものにしているのは、正始八年のそれは日没と共に太陽が浸蝕される日食なのに対して、正始九年のそれは日出と共に太陽が復活する日食であり、恐らくはこの二つの日食とほぼ時を同じくして女王卑弥呼が世を去っていることです。また既に暦法の確立されていた漢土では、正始八年と九年の日食の間隔は一年半になりますが、日食の起きた時期がそれぞ . . . 本文を読む

魏志:卑弥呼の死

2019-09-18 | 魏志倭人伝
卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩。徇葬する者百余人。更えて男王を立てるも国中服さず。更に相誅殺し、時当に千余人を殺す。復た卑弥呼の宗女壹與、年十三なるを立てて王と為す。国中遂に定まる。張政、檄を以て壹與に告喩す。卑弥呼は已に死んでおり、径百余歩の大きな塚が作られていた。百余人が徇葬された。改めて男王を立てたが国中が服さず、互いに相誅殺して、当時千余人が殺された。そこで再び卑弥呼の一 . . . 本文を読む

魏志:卑弥呼と卑弥弓呼

2019-09-06 | 魏志倭人伝
其の八年、太守王頎、官に到る。倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭載烏越等を遣わして郡に詣り、相攻撃する状を説く。塞曹掾史の張政等を遣わして、因って詔書・黄幢を齎し、難升米に拝仮し、檄を為りて之を告喩す。正始八年、太守の王頎が帯方郡に着任した。倭の女王卑弥呼は、狗奴国の男王卑弥弓呼と平素より不和であった。(女王は)倭の載烏越(人名か)等を郡に遣わし、(載烏越等は)相攻撃する状を説 . . . 本文を読む

魏志:魏と倭国の交流の真偽

2019-08-31 | 魏志倭人伝
正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁を遣わし、詔書・印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮し、並びに詔を齎し、金帛・錦罽・刀・鏡・采物を賜う。倭王、使に因って上奏し、詔恩を答謝す。其の四年、倭王、また使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木□・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。其の六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮授せしむ。正始元年(二四〇 . . . 本文を読む

魏志:司馬懿と四郡

2019-08-28 | 魏志倭人伝
明帝の決意と司馬懿登用次いで、楽浪・帯方の二郡へ太守が赴任して来たのは、果していつ頃だったのかという問題があります。尤もこれについては意外と早い時期だったと見てよいでしょう。本来『魏志』内にその年月が明記されていればよいのですが、同書にはただ「景初中」とあるだけで、景初年間のいつの時点なのかについては全く触れられていません。前記の通り両郡を制圧したのは、司馬懿率いる討伐軍ではなく別働隊の水軍であり . . . 本文を読む