史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

魏志:魏と倭国の交流の真偽

2019-08-31 | 魏志倭人伝
正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁を遣わし、詔書・印綬を奉じて倭国に詣り、倭王に拝仮し、並びに詔を齎し、金帛・錦罽・刀・鏡・采物を賜う。倭王、使に因って上奏し、詔恩を答謝す。其の四年、倭王、また使大夫伊声耆・掖邪狗等八人を遣わし、生口・倭錦・絳青縑・緜衣・帛布・丹・木□・短弓矢を上献す。掖邪狗等、率善中郎将の印綬を壱拝す。其の六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜い、郡に付して仮授せしむ。正始元年(二四〇 . . . 本文を読む

魏志:司馬懿と四郡

2019-08-28 | 魏志倭人伝
明帝の決意と司馬懿登用次いで、楽浪・帯方の二郡へ太守が赴任して来たのは、果していつ頃だったのかという問題があります。尤もこれについては意外と早い時期だったと見てよいでしょう。本来『魏志』内にその年月が明記されていればよいのですが、同書にはただ「景初中」とあるだけで、景初年間のいつの時点なのかについては全く触れられていません。前記の通り両郡を制圧したのは、司馬懿率いる討伐軍ではなく別働隊の水軍であり . . . 本文を読む

魏志:遼東征伐と倭人

2019-08-24 | 魏志倭人伝
一方で倭人の最初の来訪が景初三年では、逆に辻褄の合わなくなってしまうこともある訳で、その一つに倭王から魏帝への献上品があります。その内訳は前出の詔書の中に書かれていて、それによると難升米等が魏帝に献上した品々は、「男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈」です。しかし倭王の方から朝献を求めておきながら、その持参品が生口十人に布二匹というのは、いくら何でも有り得ないでしょう。班布については諸説ありますが、この場合は(綿布ではなく)粗い麻布のような生地だったと思われ、いずれにせよ国家間の贈答に使用するような代物ではありません。 . . . 本文を読む

魏志:親魏倭王

2019-08-21 | 魏志倭人伝
この景初二年というのは、様々な状況から見て景初三年が正しいのではないかとする説が古くからあって、発刊されている解説書の中には「三年の誤り」と断定している本もあります。当然ながら今となっては史実など知る由もない訳ですが、然したる証拠もないままに、紙面の状況分析だけで「三年」と決め付ける姿勢はいかがなものでしょうか。少なくとも魏と倭人との関係について、全文が現存する書物の中で、最も信を置けるのは『魏志』なのですから、そこに景初二年と記されている以上は、あくまでそれに基づいて歴史を読み解くべきでしょう。 . . . 本文を読む

魏志:倭国の周辺

2019-08-17 | 魏志倭人伝
そもそも倭国は江南の東にあると考えられていて、その風俗もむしろ南方系に近いと見られていましたから、本来倭人が朝貢すべきは中原の魏ではなく江南の呉の筈なのです。その呉は夷洲と澶洲への遠征に失敗して兵を失い、魏は艦隊を派遣することなく同じ海上の民である倭人の朝貢を受けた訳ですから、まさにこれは遼東征伐の成功に伴う外交上の大勝利であり、同時にこの遼東征伐こそは三国鼎立の終焉を告げる出来事だったと言えます。そして倭の女王が魏帝から殊の外厚遇されたのは、やはり最大の敵である呉を牽制するという意味合いが強いものでした。 . . . 本文を読む