史書から読み解く日本史

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新世界秩序(二)

2019-03-02 | 有史以前の倭国
そして武帝の代から約千五百年後、明の太祖(朱元璋)が子孫への遺訓に「不征の国」を示し、遠路の出兵を戒めています。
そこで征してはならない国として挙げられているのは、朝鮮、日本、琉球、台湾、東南アジア諸国など十数国で、不征とすべき理由は、兵を派遣したところで補給が続かないことと、平定したところで現地人を使役できないことでした。
言わば中国にとっては何の得にもならない国々なので、敢て相手にしなくてもよいと諭した訳です。
明の外臣だった朝鮮を別にすれば、不征の国は日本を始めとする東の海上の島々と、越南からインドまでの間に存在した南方の国々に分かれており、地理的に東と南に偏っているのは、明そのものが江南から興った国で、当時の首都が南京に置かれていたからでしょう。

太祖洪武帝の遺訓に見える明の対外方針は、基本的に漢の武帝の時代から殆ど変らないもので、国家に組み入れることのできない土地や、組み入れても仕方のないような民族は、中国に害の無い限り捨てておくという姿勢は一貫しています。
これも後の西欧人による植民地経営と違うところで、そうした後進地帯を征服して搾取しようとか、本国とは別に入植地を作って富を奪おうなどという発想が、秦漢による統一以降の漢民族には殆ど見受けられないのです。
無論それが漢民族の世界進出を阻んでいたと言えなくもありませんが、やはり支那大陸はその始めから十分過ぎるほど大きく豊かだったので、春秋戦国期の諸侯や近代の西欧諸国のように、海外へ土地と富を求める必要がなかったのでしょう。
何しろ四大文明発祥の地に、その後も絶えることなく常に世界有数の大国が存在し、且つそれが現代まで継承されている場所など、世界的に見ても例がないのです。

また洪武帝が東海上と東南アジアの国々を「不征」としたのは、元による日本と越への遠征の失敗という教訓もあったと思われますが、やはり基本的にはこれ等の国々の方もまた、中国に対して不征だったことが大きいと言えるでしょう。
確かに建国間もない明と日本との間には、倭寇という厄介な問題があって、当初は洪武帝も日本に対して征伐を示唆していますが、遠征に要する莫大な費用を考えれば到底割に合わないため、結局は日本国王に倭寇の取締りを要請することで落ち着いています。
この倭寇の問題は、その後も日明両国の間の懸案事項となっているものの、所詮倭寇は豪族単位の密貿易業者であって、日本が国を挙げて中国へ襲来する可能性は、歴史的に見ても限りなく低いことに変りはありませんでした。

有史以来日本は、支那大陸に現れたいかなる帝国にも支配されたことがなく、(賊による辺境の侵犯を除けば)支那からの侵攻を受けたことさえ二度の元寇くらいのものなのですが、通常その理由として挙げられるのは、国土が海上であることと、隣国の朝鮮半島が緩衝地帯になっていたことです。
またそれ以外の要因としては、日本の方も支那へ侵攻しなかったことと、宋代以前は支那帝国の政治の中枢である首都が、日本から遠く離れていたことがあるでしょう。
例えば前漢の国土の東端が楽浪郡で止まっているのは、その首都が遥か西方の長安だったからで、漢の朝廷から見れば朝鮮自体が既に最果ての地だったのです。
一方で唯一日本への遠征を行った元の首都は、日本からもそう遠くない大都(北京)であり、かつて「倭は燕に属す」とも伝えられた燕の故地でした。

これ等を理解していなかったのが豊臣秀吉であり、彼は明に攻め入るという野望を実現すべく朝鮮に出兵しましたが(文禄・慶長の役)、大帝国への侵攻が自国にどう跳ね返ってくるのかということを、まるで考えていなかったのです。
幸い明領には殆ど損害を与えずに撤退したことと、戦後も李氏朝鮮が国家として存続したことで、引続き日本は大陸の脅威から逃れることができましたが、仮に渡海した日本軍が朝鮮を踏み越えて明本土を蹂躙するような事態になっていれば、恐らくその時点で日本に対する不征の伝統は効力を失っていたでしょう。
言わばこの戦役以後も明や清で日本征伐が発議されなかったのは、日本の侵攻した範囲が朝鮮内に止まっており、直接中国に害を為した訳ではなかったことが大きいと言えます。

恐らく秀吉は、国防を明に頼っている朝鮮には然したる防衛能力がないこと、また宗主国である明の内情が芳しくなく、朝鮮を平定してしまえば北京までは大した障壁もないということを、信頼できる情報として様々な経路から入手していたものと思われますが、果して秀吉の本心が初めから明を攻略することだったのか、それとも朝鮮を併合することだったのかについては不明な点が多いと言えます。
確かに当時の明は既に末期状態だったので、もし秀吉が日本を統一した頃のような才覚で事を進めていれば、戦国後期の日本の戦力からして、或いは帝都北京を陥落させることくらいはできたかも知れません。
しかし仮に北京とその周辺を占領したとしても、当然それだけで大明帝国が秀吉の支配下に入る訳ではありませんし、そもそも当時の日本人には明の大地を運営する能力はなかったでしょう。

これは日中戦争時に支那本土へ進出した旧日本軍も経験したことですが、あの途方もなく広い国を日本人の感覚で治めようとしても、まず十中八九失敗すると思ってよいでしょう。
例えば支那大陸に興った歴代の大帝国の中で、敵兵や征服した土地の民衆に対して最も無慈悲な態度で臨んだのは、モンゴル人の建てた元と女真族の建てた清です。
それがどのくらい凄まじいものだったかと言うと、清については今も東亜各地にその残虐ぶりが語り継がれているほどで、これがモンゴル人となると文字通りユーラシア全域で数百年来の伝説となっています。
両者の支配に共通しているのは、まず始めに徹底して相手に恐怖を植え付け、その後は服従した者に限って自治を認めるという方法であり、必ずしも支配者自らが統治に携わった訳ではありません。
尤も粛清と圧政という点で言えば、明や中共も北狄に負けず劣らず酷いものなのですが。

元よりそれくらいでなければ、恐らく他民族との抗争を勝ち抜いて東亜全域に君臨することなど不可能なのであり、島国育ちでお人好しの日本人には到底無理な芸当だと言えます。
因みに前の大戦中に旧日本軍が、投降した数万の敵兵を捕虜として遇せずに虐待したとか、武装した兵士の去った都市で市民数十万人を虐殺したとか、植民地では若い女性を性奴として徴集したとかいう話が広く出回っているらしいのですが、遂に日本人もそこまで冷酷になれたのかと感心するまでもなく、九割方は後日世界各地の偽善者や負け犬が捏造したデマであることが露見しています。
ただ如何せん戦争中のことですから、日本軍による非情な行為が全くなかった訳ではありませんし、日本兵の中にも愚か者は紛れていたので、嘘八百のうち八百全てが嘘ではないというのが、せめてもの救いと言えるでしょうか。

二度に渡る朝鮮出兵は秀吉晩年の愚行と言われることが多く、失敗に至った原因として挙げられるのは、計画が甚だ杜撰(と言うより殆ど無計画)だったこと、本陣を日本国内に置いたため現地で総指揮を執る大将が居らず、渡海した各将が個々に戦功を争っていたこと、明と朝鮮との関係を考慮していなかったこと等です。
しかし文禄の役の前年(西暦一五九一年)には、愛新覚羅氏のヌルハチ(清の太祖)が東満州を統一し、明が日本への対応に忙殺されている間に女真内での勢力を拡大するなど、当時の(と言うより現代に至るまで)日本人は殆ど知らなかったでしょうが、日本の朝鮮出兵が明やその周辺民族に与えた衝撃はかなり大きいものでした。
ヌルハチによる後金(清の前身)の建国は一六一六年のことなので、もし秀吉が朝鮮併合に成功していたら、或いは日本人と女真族が戦場で相見えるようなことになっていたかも知れません。

一方的に朝鮮を侵犯しておきながら、秀吉の死後は一転して海外不進出の立場を取った日本は、徳川幕府による鎖国政策の下で長く国内の平和を謳歌することになります。
ただ二百数十年にも及ぶ天下泰平については、その功罪にも賛否両論あって、未だ評価は一定していません。
世界的に見ても例のないような平和と安定の時代を築いた徳川家の功績は、日本人でなくとも誰もが認めるところであり、現代まで続く日本独自の文化や、日本社会を成立させている諸々の価値観は、その大半が江戸時代に生育まれているように、幕藩体制の恩恵は計り知れないものがあります。
しかし周知の通り鎖国を選択したことによる弊害もまた多く、その最たるものは社会(特に産業)の停滞(緩やかには進歩しているが)であり、日本人が独り安眠に耽っている間に、西洋から大きく遅れを取ったことでしょう。

今も西欧諸国の社会には、近世(或いはそれ以前)から続く伝統の文化が、日常の生活の中で当り前のように近代文明と融合しています。
それは住居であったり、衣服であったり、毎日の食事であったり、様々な年間行事であったりする訳ですが、それ等が文明の発展と共に忘れ去られることなく、幾代にも渡って変らずに伝えられているのは、彼等自身が近代の創始者であるからにほかなりません。
翻って日本人は、戦国時代に始まる独自の近世をそのまま近代へ昇華させることができず、自力で近代へ離陸することができなかったため、江戸時代から現代に至るまでの途中で、従来の日本文化とは全く異質の文明を導入せざるを得ない状況に迫られました。

従ってその文明を摂取する過程で日本人は、特に明治維新と戦後の高度経済成長期を頂点として、江戸時代から継承していた筈の伝統を数多く脱ぎ捨てて来ました。
現代の日本の社会が、近代文明発祥の地である西欧と比べて、伝統と先進の共存に於いて至る所で齟齬を来しているのはそのためであり、言わば国家や社会を一本の木に譬えれば、根と幹と枝の三位が一体化されていないようなものなので、それが日本人の精神を甚だ不安定なものにしています。
その不安定な現代日本人の社会と精神が、かつて奈良時代から平安初期の文明輸入期を経て、やがて平安中期から鎌倉期にかけて日本独自の文化が花開いたように、この国の遺伝子と近代文明とを完全に同化させて、更に高次元の新生日本を出現させるには、もう少し時間がかかるでしょう。

西欧発の近代文明と伝統的な日本文化の間に生じる違和感は、恐らく日常的にかなりの数の日本人が感じていることであり、歴史に「タラレバ」は意味が無いと承知しつつも、もし日本が西洋と並存する形で独自の近代化を達成していたら、どれほど今とは違った歴史を歩んでいたろうかと考えてしまう所以でもあります。
但しその際に主要人物として名前の挙がるのは、ほぼ例外なく織田信長であり、多くの識者は彼が暗殺されることなくあと十年長生きしていたら、まず間違いなく日本を統一して海外へ目を向けていただろうと指摘します。
確かに信長が中世から近世への移行期に現れた稀代の改革者であることは紛れもない事実ですが、果して織田家のやり方で天下統一が成し遂げられたかどうかとなると、これは少々疑問と言えます。

と言うのは世界的に見ても似たような例があるからで、例えば魏の曹操が建安十二年(二〇七年)に烏丸を討伐し、幽州を平定して河北一帯を掌握した直後に死亡していたら、恐らく後世の史家は、彼があと十年生きていれば天下は統一されていたと主張したでしょう。
しかし曹操はおろか魏の曹家はその後も江南と巴蜀を遂に攻略できず、再び国家が統一されたのは魏の建国(二二〇年)から実に六十年後の晋の咸寧六年(二八〇年)のことです。
同じことはナポレオンやヒトラーについても言えて、実のところ信長の急死を惜しむ声が多いのは、彼がまさに人生の絶頂期に忽然と姿を消してしまったからですが、仮に信長が暗殺を逃れて生き残ったとしても、織田家の命運がその後も上昇傾向だったという保障はなく、むしろ情勢からして既に運気は下降気味だったと見るべきでしょう。

従って西欧に遅れを取らずに日本が海外へ飛躍した夢を見ようにも、まず信長を含めて織田家では考えられず、豊臣家は実行に移して失敗し、それを遠因として滅亡しており、国内の安定を優先した徳川家が海外へ進出するとも思えないので、結局のところ天下布武から鎖国へ至る一連の流れは、ある程度は歴史の必然だったと言えなくもありません。
そこで日本が明治維新よりも遥かに早く近代国家への道を歩むためには、果して何が必要だったのかと考えてみると、やはり国内の活動だけでは力の絶対量が足りないので、些か他力本願となってしまいますが、幕末の黒船同様に海外からの強い圧力が欠かせなかったと思われます。
つまり清による日本遠征です。
 
凡そ日本を除く東亜の殆どを支配下に置きながら、明同様に清もまた敢て日本を臣従させようとはしなかった訳ですが、もし清朝が最盛期を迎えようとしていた十七世紀中頃から十八世紀初頭に、元寇以来の日本遠征を実行していたら、仮に日本列島を占領できないまでも、日本社会を根底から覆すに十分な衝撃を与えたことは間違いないでしょう。
もともと幕藩体制は、鎌倉幕府と同様に他国からの侵攻を想定していないので、恐らくこれを機に徳川幕府は倒壊し、折しも当時の日本は朱子学全盛でしたから、二百年早い王政復古が実現していたかも知れません。
尤も建武の中興という悪しき前例もあるので、必ずしも王を担いでの改革が成功するとは限らないのですが。

無論こんな妄想が無意味であることは言うまでもなく、過去をどう夢見たところで歴史の何が変る訳でもないのですが、過去の分岐点と今現在との因果を考察することで、未来へ向けて日本の取るべき道が明示されることもあるでしょう。
例えば世界地図を広げてみて、シベリア・ポリネシア・オセアニアの三地域が日本語圏であるという世界を考えてみます。
少なくとも二十一世紀の今も続く欧米主体の世界秩序など、そこには存在する余地もない筈です。
そしてそれを時既に遅しと諦めて、未来永劫名誉白人の地位に甘んじるか、或いは今からでも十分実現可能だと考えるかによって、この国の未来もまた変って行くでしょう。
そしていつの日か日本が、まだ見ぬ新世界秩序を全人類に向けて提唱し、且つその意思を実行に移すだけの国力を得られるならば、西欧の後塵を拝した過去もまた、天命の必然だったと言えるでしょうか。

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