史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

垂仁天皇:天之日矛

2021-01-15 | 古代日本史
続く天日槍を見てみると、日槍の出自は第四代新羅王脱解尼師今の子とされ、この脱解王は新羅人ではなく渡来人であり、日本出身とする見方が有力です。
朝鮮の正史である『三国史紀』によると、脱解の故国は倭国の東北一千里にある多婆那国で、賢者として知られたことから二代新羅王南解次次雄の目に留まり、その娘を娶って遂には太輔の地位を任されるまでになったといいます。
つまり天日槍は、父親が多婆那人、母親が新羅の王女という血統です。
南解王の次は嫡子の儒理尼師今が王位を継承し、その死後は儒理王の遺命により脱解が四代王として即位しました。
しかし先代娘婿の脱解の王位はあくまで一時的なものだったようで、その死後は三代儒理王の子の婆娑尼師今が五代王として即位し、王位は再び男系に戻されています。
従って天日槍は王子でありながら王位継承から外れており、そこで新羅を捨てて父の祖国である日本に渡って来たのだといいます。

では垂仁帝と天日槍という、古代日本史の主要人物二人は、果して同じ時代を生きていたのでしょうか。
『三国史紀』では、斯蘆(新羅)の建国即ち初代斯蘆王赫居世居西干の即位を漢宣帝の五鳳元年、甲子(干支の最初)の年とします。
これを西暦に直すと紀元前五七年となり、赫居世の孫娘婿である四代脱解尼師今の在位期間は、紀元五七-八〇年となっています。
しかし当然ながらこうした数字は、現実的には到底有り得ないものであって、これは朝鮮半島と斯蘆の歴史を誇称せんがために、歴代の王の年齢や在位期間を実年よりも長く見積るなどして、その起源を故意に遡らせようとした後世の造作であることが既に解明されています。

そしてそれは日本にしても似たようなもので、『日本書紀』に記された歴代天皇の年齢や在位期間を基に年代を遡ると、初代神武帝の即位は紀元前六六〇年ということになり、これが所謂皇紀元年です。
その皇紀に従えば垂仁帝の在位期間は紀元前二九年-紀元七〇年となり、『三国史紀』の脱解尼師今の在位期間と一致する訳です。
従って『日本書紀』の編者が天日槍の来朝を垂仁紀に入れたのは、恐らくこの計算に拠るものと思われます。
尤も日本の史書の場合は、後世の意図的な造作と言うよりも、言伝えによる天皇の年齢や在位期間を、そのまま活字にしてしまっただけの話なのですが。
因みに邪馬台国の女王卑弥呼の時代というのは、皇紀では神功皇后の摂政期に当たるため、正史の『日本書紀』はこの時系列に従い、魏と邪馬台の交流については神功皇后の項で触れています。

仲哀帝の皇后として、夫の死後に新羅遠征を断行した神功皇后こと気長足姫は、天日槍の血を引く王族の一人で、彼女の母方の祖父の多遅摩比多訶が、田道間守と同じく天日槍の玄孫に当たります。
そして仲哀帝は垂仁帝の曾孫なので、田道間守が垂仁朝に仕え、その兄弟(もしくは同世代の親族)の孫娘が垂仁帝の曾孫に嫁いだ訳です。
しかし面白いことに、神功皇后が兵を率いて渡海した時の新羅王というのは、第五代婆娑尼師今(書紀では波沙寐錦)であり、この王は天日槍の父である脱解尼師今の義理の甥なので、日槍とは同世代なのです。
言わば天日槍の玄孫の孫娘に当たる気長足姫が、日槍と同世代の新羅王を臣従させたということになっている訳です。

更に『日本書紀』垂仁紀では、天日槍の子孫にまつわる次のような話を載せています。
垂仁帝の八十八年、群卿に詔して言うには、新羅の王子の天日槍が初めてやって来た時、持って来た宝物が今は但馬にあり、国元の人々に貴ばれて神宝になっているという、朕もその宝物を見てみたいと。
そこで使者を遣わして、天日槍の曾孫の清彦に詔すると、清彦は勅を奉じて自ら神宝を捧げて献上したといいます。
この但馬清彦の出自について、紀では天日槍の曾孫で田道間守の父とし、記では清日子を天之日矛の玄孫で多遅摩毛理の弟としますが、いずれにしても日槍の三世乃至四世の子孫であることに変りはなく、とても同じ主君に仕えられるような続柄ではありません。

従ってこうした矛盾を読み解いて史実に近付こうとするとき、そこから導き出される結論は、史書の中で朝鮮半島からの渡来神天日槍と呼ばれているのは、もともと世代の異なる二人の足跡が一つになったものだということです。
仮にそれを新旧二人の日槍とすると、古い方の日槍というのは、田道間守や気長足姫の祖先としての日槍で、垂仁帝に神宝を献上した清彦の曾孫に当たる気長足姫が、垂仁帝の曾孫である仲哀帝に嫁いでいるのは、系図的にも世代が一致しているので、ここはある程度史実と見做して問題ないでしょう。
また清彦と田道間守が共に日槍の玄孫だったとしても、田道間守が常世の国に遣わされたのは垂仁帝の最晩年であり、帝との間には親子ほどの年齢差があったとも考えられるので、やはり皇室と但馬氏の世代数は一致します。

そして天日槍は田道間守の高祖父ですから、これに従えば古い方の天日槍は垂仁帝よりも三世代ほど前の人物ということになります。
要は崇神帝の祖父の世代であり、時代的には女王卑弥呼とほぼ同時期です。
またこれを仄めかすような伝承もあって、例えば『播磨風土記』によると、渡来した天日槍と絡んだ日本側の人物は国神の葦原志許乎であり、大和の天皇は登場しません。
この葦原志許乎というのは大国主命と同義なので、日本の土着神と半島からの渡来神という構図が見て取れます。
そもそも渡来神の名称が「天」で始まること自体不可解なのですが、これは日槍本人もしくはその祖先が、故国の山頂に天降ったと自称していたからだともいいます。
ともあれ現実的に考えれば、既に人代に入って久しい垂仁朝期の帰化人に対して、天日槍などという神名が与えられることは有り得ません。

次に新しい方の日槍とは、第四代新羅王脱解尼師今の王子としての日槍で、父王の死後に三代儒理王の子の婆娑尼師今(日槍の従兄弟)へ王位が継承されたため、新羅を捨てて父の祖国である日本へ渡って来たとされます。
時代的には日本で統一国家が誕生し、朝鮮半島との交流が活発になり始めた四世紀の後半頃と思われ、やがて神功皇后と武内宿禰の率いる日本軍が、その婆娑王の治める新羅へ攻め入るという展開は、とても偶然とは思えぬほど時期が一致しています。
仲哀帝の熊襲征伐から皇后の新羅遠征に至るまでの経緯について、史書では一貫して神託に導かれたとしていますが、もしそこに父親が日本人で母親が新羅の王女という出自を持つ前新羅王の子が深く関わっていたとすれば、或いは記紀に語られる文言の中からも今までとは全く違う世界が見えてくるでしょう。

要するに記紀のような書物のみならず、西日本の各地で伝承の残る天日槍という人物は、女王卑弥呼の生きた時代とほぼ同じ頃に渡来して、但馬周辺に土着した人物(もしくは集団)と、仲哀帝や神功皇后の時代に新羅から帰化した人物が、史書の中で意図的に同一化された存在だと考えられる訳です。
但し『風土記』や神社等に伝わる日槍像は専ら前者であり、後者はむしろ前者と同一化させることで歴史の表舞台から消し去られたようにもみえます。
その点では素戔嗚尊や大国主命に通じるものもありますが、なぜ後者の日槍の存在を消さなければならなかったのかについては、成務帝から仲哀帝、そして応神帝へと続く皇位継承の中にその真相を解く鍵があると思われるので、それについては後述します。


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