史書から読み解く日本史

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武帝の功罪(酷吏と粛清)

2019-03-09 | 漢武帝
またこの時代を象徴する職種に、「酷吏」と呼ばれた僚吏がいます。
尤も正規の官名ではなく、読んで字の如く余り良い意味を持ちませんが、法を笠に着て人を罪に陥れ、それを容赦なく処罰した役人に対して、多分に蔑称として用いられた言葉です。
また私情や個人的な意見の対立等から、正義の名を騙って政敵や邪魔者を貶めようとした例も多く、酷吏が政争の道具に使われるのも日常茶飯事でした。
司馬遷は『史記』の中に酷吏伝を設けて、十一人の酷吏について扱っており、一口に酷吏と言ってもその個性は様々ですが、たとい相手が誰であろうと憚らずに法を適用し、その罪状が明確であれば厳罰を以て臨んだことで、法と行政に対する威信を回復させて、主君や上司から全幅の信頼を得ると共に、皇族や高官からも恐れられたという点では共通しています。
一方でその人格や信念は決して一様ではなく、法の執行者らしく本人も清濁併せ持っているのが常でした。

そうした酷吏の中でも著名な人物の一人に、文景両帝に仕えて、特に景帝からの信頼が厚かった郅都がいます。
郅都が一躍その名声を高めて、以後出世街道を驀進する契機となったのは、景帝の命により済南郡の太守に赴任した時でした。
当時の済南郡には瞯氏という有力豪族がいて、在地では傍若無人の振舞いを繰り返しており、一門の数が多く勢力も強大だったことから、歴代の太守も下手に手を出せないような状況が続いていました。
しかし郅都は着任するなり、瞯一門の中でも特に悪質だった一派を捕えると、迷うことなくその一族を皆殺しにしてしまったため、それを目の当りにした他の瞯一門はその措置に驚愕し、以後同郡の治安は目に見えて改善されたといいます。

この瞯氏の一件は景帝の治世の話ですが、似たような豪族はその後も帝国全土に跋扈しており、前後両漢代を通じて時に朝廷は、弾圧とも言えるほどに豪族の摘発を行っています。
しかし実際に漢帝国の末端にあって、治安や雇用を担っていたのは紛れもなく諸豪族であり、朝廷としても一方では彼等を適度に抑制しながら、もう一方では彼等を統治の道具として利用しており、その関係は後漢末まで延々と続いて行くことになります。
またこの事例のように在地の豪族は、赴任して来た地方官と対立することも多かったのですが、必ずしも為政者の方が正義という訳でもなく、時には豪族側の主張が通って役人の方が罷免されることも多々ありました。

因みに郅都は、情実や収賄が当り前の朝廷にあって、汚職とは無縁の潔癖な勤務姿勢と、功臣や皇族にさえ遜らない気概を景帝に愛され、その後も帝の腹心として活躍したものの、過ぎたるは猶云々と言うが如く、謹厳実直の度が過ぎて、遂にはそれが身を亡ぼす原因となりました。
景帝は数多くの子女を儲けていましたが、長男を劉栄と言い、初め嫡子として太子に立てられていたのはこの長男でした。
劉栄は穏やかな気性で、景帝の実母である董皇太后からも愛されており、彼自身は何ら落度のない後嗣だったのですが、生母の罪に連座する形で廃嫡され、異母弟の劉徹(後の武帝)にその座を奪われています。
そして郅都が転落する契機となったのは、法務官として劉栄の違法行為を担当したことでした。

劉栄は太子を廃された後、臨江王に封ぜられていた(母方の栗一族は景帝の意を受けた郅都によって誅滅させられていました)のですが、宗廟の建設予定地に宮殿を建てるという失態を犯し、景帝の命で長安に召喚されることとなりました。
そこで郅都の苛酷な取調べを受けた劉栄は、無実の釈明文を書くための刀筆を要求しても拒否されるなど、元皇太子という身分さえ全く考慮されないような扱いを受けたといいます。
かつて栄の傳役だった竇嬰が、これを見兼ねて刀筆を差し入れたところ、郅都による執拗な尋問に憔悴し切っていた劉栄は、釈明文を記した後にその刀で自刎してしまいました。
郅都はこの一件で董皇太后の怒りを買い、初めは彼を庇っていた景帝も、次第に皇太后の凄まじい追及を抑え切れなくなり、やがて郅都は主君である景帝の命で処刑されています。

酷吏が最も重用されていたのは、景帝の後半から武帝にかけての頃で、その背景には目に余る綱紀の乱れがありました。
まだ景帝の代には匈奴が健在だったとは言え、既に国家の命運を賭けるような外敵との戦争が終って久しく、やがて武帝が最大で唯一の脅威だった匈奴を駆逐して戦争の心配がなくなると、まるで緊張が解けたかのように内部の膿が噴出し始めたのです。
またその過程で凄まじい経済発展と、時代を一新するような社会変革が同時に進行したため、言わば上は朝廷から下は百姓に至るまで、誰もが律すべき規範を見失ってしまった時期だったとも言えます。
しかし不良作物をいくら間引いたところで、土壌そのものが浄化されなければ何の解決にもならない訳ですから、所詮綱紀粛正は一時的なイタチごっこの休戦でしかありません。

酷吏について言えば、郅都のように権勢に阿ることなく公務に精励する官僚は、保身や蓄財しか考えていないような輩には疎まれますが、怠惰や不正を憎む上官には好まれるので、部署や上司等の環境に恵まれさえすれば、酷吏として振る舞うことが出世の糸口にもなり得ます。
かつて高祖は能力のある者に破格の抜擢を許すことで天下を得ましたが、その漢も国家として安定してくると、どれほど個人に意欲と資質があっても、縁故のない者はそれを活かす地位に登ることすら困難であり、運が悪ければ宰相の才を持つ逸材が小役人のまま一生を終えるような世になっていました。
そんな完成された組織にあって酷吏は、野心のある若い官僚が自分の強い意志と能力によって出世できる数少ない手段であり、その点では平安初期の「能吏」ともよく似ていました。

但しそうした酷吏の特徴は、一面では非常に危険な要素も孕んでいて、例えば郅都は自身の職務を全うするために決して賄賂は受け取りませんでしたし、武帝に仕えて同じく酷吏と呼ばれた張湯にしても一切の蓄財をしませんでした。
しかし一度酷吏という風評が立てば、それを恐れた人々から賄賂が集まるのは当然の成り行きなので、法治主義という正義を利用して私腹を肥やすことも可能になってきます。
つまり一方では無慈悲に法を振りかざしておきながら、もう一方では袖の下を求めるといった、悪代官のような酷吏も出てくる訳です。
すると出世と蓄財のために法を学ぶといった、本来の法家の思想からすれば本末転倒な風潮が主流となり、遂には酷吏が社会の悪を正すというよりも、むしろ酷吏の方が悪人という観念が定着してしまったのは,真の酷吏にとって甚だ無念だったでしょう。

そして世は下って二十一世紀の昨今、漢帝国の子孫が建てた大国の最高権力者が、自身の就任から僅か数年の間に、反腐敗の名目で百五十万人以上の同志を処分したとして話題になりました。
無論処分の対象となった者のうち、公職追放や拘束にまで至ったのは極少数でしょうし、いかに世界最多の人口を誇る国家とは言え、党員だけで百五十万という数字は流石に尋常ではありません。
従ってこれを腐敗の深刻さとして観た場合、不正を働いた者が百万人以上もいたというのではなく、基本的には誰もが同じことをしており、たまたま処分されたのが百五十万人だったと理解するほかはないでしょう。
少なくとも重箱の隅を突いて数字のノルマを達成させたというのでもない限り、処分対象者の選出基準や個々の罪状が、甚だ曖昧であろうことは想像に難くありません。

それ以上に世間が驚いたのは、当の権力者やその側近達が、恰もそれを功績だと言わんばかりに誇示したことです。
そもそも貧困から犯罪に走った者を片っ端から牢にぶち込んだところで貧困はなくなりませんし、貧困そのものを終らせない限り収容所を何棟増築したところで犯罪は減少しないのと同じで、不正を働いた者に腐敗の烙印を押して何百万人と処分したところで、汚職を生み出す土壌そのものを除染できなければ、却って「民免れて恥ずること無し」を助長する結果にしかなりません。
従って本来の政治の功績とは、弾圧や粛正をする必要のない社会を創ることであって、仮に一時的な恐怖政治で臭い物に蓋をしてみても、やがてそれは爆発という形で更に汚物を拡散させるだけの話なのです。

ただ恐らくその程度のことは、二千年前の漢の朝廷であれ現代の中国共産党の上層部であれ、理屈としては十分過ぎるほど承知していたでしょう。
しかし皇帝制にしろ一党独裁にしろ、円錐型の一極支配であることに変りはなく、例えば男子が立身出世を志す場合でも、漢であれば皇帝の臣下、中共であれば共産党員になる以外に道はありません。
また時の権力者が入れ替ることはあっても、体制そのものが交代する訳ではないので、根本的な社会構造は革命以外の方法で改革することができません。
従ってこうした専制統治の国家に於いては、政治とは即ち革命を未然に防ぐことであり、天下に少しでも危険な兆候が見えたら、大きく育つ前に全て摘み取ることで後顧の憂いを絶ち、体制の延命を図るのが権力の座にある者の職責なのでした。

また支那大陸は余りにも広大であって、日本や英国のような王国と異なり、一度社会がある方向へ動き出してしまうと、人間の力で抑えられるのも甚だ限られてきます。
それは黄河の流れを止められないようなもので、無理に堰き止めようとすれば氾濫を招きますし、利根川のように河口を変える治水もできません。
従って今も昔も中国のような大国の政府にとって統治(治水)というのは、いずれ訪れる次の革命までの間、その緩やかな大河の流れを維持し続けることであって、権力による社会の微調整が困難となり、人民の怒涛の流動を制御できなくなった時が、新たな体制への序章となる訳です。
そしてこれが米国のように選挙制を採用する大国の場合は、有権者が自分達を制御できなくなった時に、国家の終章が始まります。
何故ならその時に国民が選出しているのは、やはり自分を律することのできない指導者だからであり、恐らくはその指導者が任命する高官もまた、自律自制を苦手とする者達でしょう。

人類が最初の文明を興してから数千年が経ち、東亜に限れば周の建国から三千年の月日が流れましたが、結局のところ人間のやることは古今東西同じもので、人間が人間である以上これから先も変りません。
そして「温故知新」という言葉の通り、過去を学ぶことによって現在にも気付くことがあるならば、その逆もまた真なりで、近代を読み解くことによって見えてくる歴史もまたあるでしょう。
しかし天は人間に対して、予め未来を知る能力を与えていませんから、どれほど今の世に精通し、且つその成立ちを勉強したところで、それによって来るべき世界を予見することはできませんし、今現在自分達がしていることの歴史的な意味すら分かりません。
なればこそ我々は、現在過去未来のうち、唯一知ることのできる過去を探求し、その蓄積によって導かれる叡智を、更に未来へと紡いでいかなければならないのでしょう。

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