史書から読み解く日本史

歴史に謎なんてない。全て史書に書いてある。

魏志:親魏倭王

2019-08-21 | 魏志倭人伝
景初二年六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣り、天子に詣りて朝献せんことを求む。太守劉夏、吏を遣わし、将送って京都に詣らしむ。
 
其の年の十二月、詔書して倭の女王に報じて曰く、「親魏倭王卑弥呼に制詔す。帯方太守劉夏、使を遣わし汝の大夫難升米・次使都市牛利を送り、汝献ずる所の男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉り以て到る。汝が在る所踰かに遠きも、乃ち使を遣わし貢献す。是れ汝の忠孝にして、我甚だ汝を哀れむ。今汝を以て親魏倭王と為し、金印紫綬を仮し、装封して帯方太守に付して仮授せしむ。汝、其れ種人を綏撫し、勉めて孝順を為せ。汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路に勤労す。今難升米を以て率善中郎将と為し、牛利を率善校尉と為し、銀印青綬を仮し、引見して労賜し、遣わし還す。今、絳地交竜綿五匹・絳地縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹を以て、汝が献ずる所の貢直に答う。また特に汝に紺地句文綿三匹・細班華罽五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録授し、悉く以て汝が国中の人に示し、国家の汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり」と。
 
 
景初二年(西暦二三八年)六月、倭の女王は大夫難升米等を郡に派遣し、天子へ朝献することを求めた。太守の劉夏は役人に送らせて洛陽に到らしめた。
 
その年の十二月、詔書して倭の女王に報いて言うには、「親魏倭王卑弥呼に詔を下す。帯方郡太守劉夏が使者を遣わして汝の大夫難升米と次使都市牛利を送り、汝の献じた男生口四人・女生口六人・班布二匹二丈を奉って到来した。汝の居る所は遥か遠いというのに、使者を遣わして貢献した。これは汝の忠孝であり、私は甚だ汝を愛おしむ。今、汝を親魏倭王に封じ、金印紫綬を与え、装封して帯方太守に託して授けさせる。汝は国人を安んじいたわり、勉めて孝順を為すがよい。汝の使者の難升米と牛利は、遠きに渡り道中の労を勤めた。今、難升米を率善中郎将に任じ、牛利を率善校尉に任じ、銀印青綬を与え、引見して労い、遣わして還す。今、絳地交竜綿五匹・絳地縐粟罽十張・蒨絳五十匹・紺青五十匹を以て、汝の献じた貢の直に答える。また特に汝には紺地句文綿三匹・細班華罽五張・白絹五十匹・金八両・五尺刀二口・銅鏡百枚・真珠・鉛丹各々五十斤を賜い、皆装封して難升米・牛利に託す。還り到ったならば録して授かり、悉く汝の国中の人に示し、国家(魏)が汝を愛おしんでいることを知らせるがよい。故に鄭重に汝に好物を賜うのである」と。
 
 
景初二年は三年の誤りか
続いて倭人伝は魏倭両国の交流を記した箇所に入り、まず景初二年(西暦二三八年)の六月に倭の使者が帯方郡を訪れたという話から始まります。
但しこの景初二年というのは、様々な状況から見て景初三年が正しいのではないかとする説が古くからあって、発刊されている解説書の中には「三年の誤り」と断定している本もあります。
その根拠とされるのは、唐代に成立した『梁書』では景初三年となっていること、『日本書紀』に「魏志に云はく」と称して明帝の景初三年六月とあること、司馬懿率いる魏軍が公孫淵を滅ぼすのは景初二年の八月なので、その年の六月に倭王が使者を派遣する筈がないということ等が挙げられます。
また倭人の来朝を受けて、景初二年の十二月に詔書が下されていながら、その詔書と印綬を奉じた倭国への使者が遣わされたのは、翌々年の正始元年(二四〇年)であり、当時の状況を顧みれば驚くほどの遅延ではないとは言え、確かに少しく間が空き過ぎている感は否めません。
そこで景初元年以降の一連の流れを略年表にしてみると、大体次のようになります。

 

 景初元年の頃の幽州十郡(帯方郡は新設)と一国


景初元年(西暦二三七年)
魏の明帝は幽州刺史の毌丘倹を通じて公孫淵に出頭を命じ、毌丘倹は州兵と烏桓兵を率いて遼東郡境に布陣する。公孫淵は上洛を拒否。

同年七月
呉が魏領に侵攻して江夏郡を包囲する。これに呼応する形で公孫淵は魏に叛旗を翻して挙兵、長雨による遼河の氾濫等もあって魏軍は一時撤退する。公孫淵は自立して燕王を称し、年号を紹漢と定める。また鮮卑の単于に玉璽を与えるなど周辺諸民族への懐柔策を取り、魏に対する戦線を強化して行く。

景初二年正月
明帝は蜀の北侵に備えて関中に赴任していた大尉の司馬懿を洛陽へ召還し、遼東征伐を命じる。

同年春
司馬懿は四万の軍勢を率いて出陣。

同年六月
司馬懿が遼東に到着。公孫淵は数万の兵士を動員して遼隧で魏軍を防がせる。しかし遼隧の防御が強固と見た司馬懿は、これを避けて国都の襄平へ軍を進める。燕軍は首都防衛のため遼隧を捨てて反転したが各地で魏軍に敗退、司馬懿は襄平を包囲する。

同年七月
再び長雨となり遼河が増水するも司馬懿は襄平の包囲を解かず、天候の回復を待って攻撃を再開する。襄平は城内の食が尽き、魏軍の攻撃と飢餓により夥しい数の死者を出す。公孫淵は幾度か司馬懿の元へ使者を派遣し、人質を差し出すことで講和を申し入れるが司馬懿に拒絶される。

同年八月
襄平陥落。公孫淵は息子や数百騎の護衛と共に落ち延びようと計るが魏軍の追討を受けて斬首され、その首級は洛陽へ送られた。襄平へ入城した司馬懿は、公孫淵の一族や廷臣の大半を誅殺したのみならず、禍根を断つという理由で十五歳以上の男子数千人を処刑して京観を築く。

同年九月
魏は公孫氏を滅ぼして遼東、玄菟、楽浪、帯方の四郡を平定する。

同年秋頃
この遼東征伐に前後して明帝が病に倒れる。

同年十二月
明帝重篤。帰路の途中にあった司馬懿に洛陽からの急使が到り、急ぎ帰京を命じる勅旨を伝える。

景初三年正月
司馬懿、早馬を飛ばして帰還。
魏の明帝、大将軍曹爽(曹真の子)と大尉司馬懿に後事を託して崩御。皇太子斉王曹芳即位。

翌年
正始と改元。
 
 
細かいところでは史料によって多少の誤差もあると思いますが、大まかな動きとしては上記のようになっています。
こうして見てみると、景初二年六月というのは、司馬懿率いる魏の主力が遼東へ到着して、まさに公孫氏との戦闘を始めた頃ですから、その時期に倭の使者が帯方郡を訪れて魏帝への拝謁を求めたというのは、理屈から言えば辻褄が合わないようにも思えます。
前出の新井白石もまた著書『古史通或門』の中で、「魏使(志)に景初二年六月倭女王其大夫をして帯方郡に詣りて天子に詣りて朝献せん事を求む。其年十二月に詔書をたまはりて親魏倭王とすと見へしは心得られず。遼東の公孫淵滅びしは景初二年八月の事也。其道未だ開けざらむに我国の使人帯方に至るべきにもあらず」と記して、これを否定しています。
確かにこの論調は一読すると筋が通っているように見えますし、姚思廉を始めとして景初三年を支持する論者の多くは同様の趣旨によるものです。
 
景初三年の根拠
しかし『梁書』がこれを景初三年としているのは、こうした理屈を踏まえて編者の姚思廉が独断で年を書き替えたものであり、前出の「光和中」と同じく唐代に入ってから新たな資料が発見されたとか、『魏志』とは別の信用できる史書が存在したという訳ではありません。
『日本書紀』が神功皇后摂政三十九年の項で「明帝の景初三年六月」としているのも、同書の編者が同じ理由で『梁書』の判断を支持したからであり、しかも景初三年六月は既に明帝ではなく曹芳の代です。
また『梁書』とほぼ同時期に成立した『晋書』には、「宣帝(司馬懿)の公孫氏を平げるや、其の女王は使を遣わして帯方に至り朝見す」とあり、やはり倭の女王が使節を送ったのは遼東平定後としていますが、これは司馬懿の軍功によって倭国の朝貢が実現したという晋朝の始祖礼賛に過ぎないものであって、特に前後の意図があるような文ではありません。
 
言わばこれ等の書物に於いて、事の順序としては公孫氏の滅亡が先にあり、幽州東部が魏の統治下に置かれたことで各郡に太守が赴任し、それを受けて倭人が使者を派遣したのだという主張の根拠となっているのは、魏晋時代の公文書やそれを基にした史書などではなく、あくまで後世の推測に過ぎないということです。
そしてその多くは現場を知らない文人なので、得てして事実よりも論理を優先したり、無暗に整合性を求めたりする傾向があります。
しかし史書上の年月などというのは、同じ事柄を扱っていても書物によって年や月が異なっている例も多いし、一見すると前後の流れが合わないというのも珍しい話ではありません。
 
また東夷伝の序文に「景初中、大いに師旅を興して淵を誅し、また軍を潜ませて海に浮かび、楽浪帯方の郡を収め、而して後海表謐然、東夷屈服す」とあることから、これを根拠とする向きもありますが、ここで言う東夷とは、後漢末に度々諸郡と揉め事を起こしていた高句麗や韓地方を指したもので、そもそも倭人は漢人との間に古来何の諍いもなかったのですから、改めて屈服も何もありません。
ただ楽浪や帯方が魏の領土となったことで、魏倭両国の間に国交が開けたことは紛れもない事実です。
 
景初二年再考
では実際の倭人の来訪が、果して景初二年だったのか、それとも同三年だったのかとなると、当然ながら今となっては知る由もない訳ですが、然したる証拠もないままに、紙面の状況分析だけで「三年」と決め付ける姿勢はいかがなものでしょうか。
少なくとも魏と倭人との関係について、全文が現存する書物の中で、最も信を置けるのは『魏志』なのですから、そこに景初二年と記されている以上は、あくまでそれに基づいて歴史を読み解くべきでしょう。そして倭人の来訪が「景初三年であるべき理由」については、既に多くが語られていることと思われるので、ここでは逆に「景初二年である可能性」について少しく検証してみることにします。
ただその前に、とある事柄を理解しようとする時は、やはり身近な話題に譬えるのが最も分かり易いと思われますので、まずは日本史の中でこの遼東征伐によく似た事例を示すところから始めようと思います。それは豊臣秀吉の北条征伐です。


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