奥州亭三景の言いたい放題

あたくし、奥州亭三景が好き勝手な事を話すブログです。
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地震、そのときあたしは・・・

2011年03月23日 07時18分42秒 | Weblog
何とも凄い状況となってしまった。
宮城沖に端を発する東北地方太平洋沖地震である。

あたしはその時、職場に居た。
場所は群馬県桐生市、関東で震度6強を記録した地域のひとつだ。

ちょうど仕事にひと区切りつけてデスクで社内メールのチェック中の事だった。
最初にちょっと何かが動く様な気配、
「ああ、地震だね」周囲のだれもがその瞬間窓の外や天井を見ていた。
数秒緩やかな揺れが続いた。「なんか長いね」そういう話をしていた刹那、
グラッという衝撃、すぐに大きな横揺れ、
みんながデスクの下に隠れようとしていたのを尻目にあたしは椅子に座ったまま様子を見る事にした。
あたしの職場は免震構造のビルで、物が落ちてくるよりも、揺れによって崩れたものが飛んでくる方が危険だと判断したからだ。
揺れていた時間は非常に長く感じた。90秒以上揺れていた感じがする。
窓越しに表を確認。あまり変わった風には見られなかった。
あたしの居たオフィスではそれほど大きな被害は無かった、多少荷物が落ちたりした様だが、いずれも重量物や大きいものでは無かったので、少々安堵。
周りの同僚は一斉にインターネットで状況をチェック。宮城沖地震規模マグニチュード7.9、東北で震度7の揺れという情報が入る。(後に地震規模は修正され、M9.0にまで達する)
その直後に桐生市で震度6強との発表があった。
会社の総務から、屋外への緊急避難指示が連絡、その直後にまた大きな揺れ。但し先程よりは明らかに揺れが少なかったので、フロアの状況を確認する。そして親に電話、しかし既に繋がらない。取り敢えずメールを入れる。
みんな動揺が隠せない表情の中、それでもあたしやあたしの同僚・上司も「今回のはスゲェなぁ」と話しながら揺れの収まるのを待っていた、地震が収まってから、あたしは外に出た。
表に出ると、総務から、帰宅指示が出される。しかしながら、あたしの部署は会社にとどまる事になった、顧客の震災状況を確認する為だ。顧客は群馬南部、埼玉北部、東京、神奈川にある。
営業が一斉に電話、当然ながら殆ど電話が掛からない。同時にインターネットで電話の通信状況や停電状況を確認、驚いた事に前橋、高崎、伊勢崎、太田、館林、藤岡、渋川と群馬の主要な市で停電が発生しているのに、あたしの職場である桐生市とあたしの住処のあるみどり市は一切停電は起きていなかった。
会社で状況を確認している間に家族に電話、しかし当然ながら繋がらない。
会社の誰かが、固定電話から携帯電話には繋がりやすい事に気が付き、掛けてみる。
つながったのは掛け始めて1時間経った所だった。

とりあえず、家族全員の無事を確認。
すると気になりだしたのは、友人達の安否だった。
あたしは仙台に住んでいたことがあり、仙台や東北各地に住む友人が多い。
電話は繋がらないと確信し、次に考えたのはメールだった。
ところが、知り合いの殆どのメールアドレスが判らなくなっている。
仕方なく、東京の友人達にメールを入れてみた。
多分、メールも遅延するとは思ったのだが、そうせずには居られなかった。
次にネットで久しくお付き合いのある、koshiさんのブログにコメントを入れた。
ブログはサーバーが被災地とは別の所にあり、チェックは遅れるかもしれないが、通信回線さえ確保できれば、メールよりも確実に情報が交換できると考えたからだ。

なんだかんだやりながら、気が付くと既に夕方の6時。
明日以降の対応を簡単に打ち合わせして家路に着く事にした。
帰宅途中で実家(無人)の状態が気になり、家に帰る前に確認、
屋根が少々崩れているのと、家の中で花瓶や食器棚ののコップ類が
半分くらい破損しているのを確認(家の中には散乱していなかったのが幸い)。
で、漸く家にたどり着いたのは夜8時過ぎだった。

幸いにもこちらは殆ど被害という被害は無かった。
あたしの持っている本が数十冊、本棚から落ちたぐらいで、
数百冊の本は全くの無事。どうもキャスター付きの本棚に
収納していたのが良かった様だ。
ただし、本棚の配置がちょっと変わっていたが。

東京の友人達からメールが届きだしたのは11時を過ぎた頃からで、
会社に泊まるというのと、仙台の数名には連絡が付いたという報告があった。
しかしながら、岩手の友人達は全くの音信普通との事。

その後、ずっとテレビとラジオに釘付けのまま、朝になった。

ここまでが一日目の話。
実は、この後の話の方があたしにとっては大変だった(今も大変である)。
それはまた、追々話すことにしよう。


既に震災から10日以上経ったが、未だに連絡の付かない友人も居る。
幸いにも、東北在住の友人の殆どは無事だった。
滝沢村(岩手県)の友人とも連絡が付いた。
仙台市若林区に住んでいる友人の弟も無事が確認された。
八戸市の従兄の嫁さんの実家も高台だった為、津波から回避できたと話があった。

困ったのは岩手在住の友人Kである。
彼は県庁職員なのだが、7年前に水沢(奥州市)から連絡を貰ったきりで、
そこから連絡が全く無い。
奥州市に住んでいるのであれば、無事の可能性もあるが、
県職の場合、異動も結構あり、海側に引っ越してる可能性が少なく無い。

他にも、不安な部分もある。
学生の頃の先輩の実家が女川町で、ご両親とも高齢でいらっしゃる。
あたしの叔父の兄弟が松島に住んでいる。仙台に居た頃は何度か所要でお宅にも伺ったことがある。
どちらも、津波の被害が酷かった地域だ。

友人で高校教師のMも心配だ。
高校教師の場合、新任から3~5年で異動となるが、高校の実業科の教師は一度赴任した地をなかなか離れない傾向にあるためだ。また、最初の赴任地を一度離れても、次の異動で、また元の赴任地に戻る場合が結構多いのだ。(特に普通科以外の専科の場合は県内の実業高校数が普通高校に比べ圧倒的に少ないため、その傾向は高い)
そんな彼の最初の赴任地は石巻水産高校である。
もう15年以上会っていないが、彼が海岸沿いの学校に赴任していなければ良いのだが、その辺が非常に気にかかってしまう。


今回、被災されたみなさん。
僅かな年数だけど、東北に住んでいた者として、何も出来ないのが本当に心苦しいです。
世間ではあまり、こういう事を言うのはどうか、とか、こういう言い方は返って悪いとか言われていますが、
あたしとしては、「頑張れ」としか言えないんですよ。
でも、「頑張れ」とは言うけど、絶対に無理は禁物ですよ。
少しでも被災された方が早く元の生活に戻れる事を心からお祈りしたいと思います。

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