奥州亭三景の言いたい放題

あたくし、奥州亭三景が好き勝手な事を話すブログです。
暇と興味のある方は是非、ご覧ください。

店へ行く”たのしみ”

2006年05月21日 14時56分55秒 | Weblog
実は今日も仕事だったりする。
まぁ、いつもの様な喧騒の中、仕事をするよりもこっちの方がありがたい。

実は久々に本屋と電気屋をはしごした。
目的は本一冊とDVDソフト1本、価格にして6000円とちょっと、それだけである。
探した店は仕事前だったので、とりあえず3店、
結果、二つとも見つからなかった。
仕事が終って、店が開いている時間だったら、もう一回探しにいくつもりだ。
この話をするとわざわざ店に行かなくとも、ネットで注文すれば?と言う人も多い。
判ってないなぁ・・・
目的の本を探す為だけなら確かにネットで十分だ。
でも、店に行く事の意味がどういう事なのかを考えないのだろうか?
「一期一会」という言葉がある。

「一期一会」を辞書で調べると、こうある。
 (1)〔茶会に臨む際には、その機会は一生に一度のものと心得て、主客ともに互いに誠意を尽くせ、の意〕一生に一度だけ出る茶の湯の会。
 (2)一生に一度だけの機会。
  (三省堂「大辞林 第二版」)

この言葉を好んで使う人は多いと思うが、実はあたしは、この「一期一会」という言葉を正しい意味で使った事は少ない。あたしの使い方は簡単に言ってしまえば「めぐりあい」の意味である(勿論、そんな使い方は間違ってる)。

目的のものが無ければそれは確かに残念だ。でもその時に偶然出会ってしまう別のものがある場合がある。例えば、今回探していた本とは、以前ハードカバーで出されていた映画関係の本の文庫化されたものなのだが、発行数が少ないのか、新刊にも関わらず、置いてある店が少ないのだ。確かに探すのは困難かもしれない。でも探しているあいだに、ふと、数年前からさがしていた物を見つける、たまたま、自分の興味のあった物を見付け出す、これがあたしの店に出向く理由なのだ。
その結果が決して良いとは限らない。でもそれも「一期一会」なんじゃないかと思う。
結果が大切な訳では無い、行った先でのめぐりあいが大事であって、その結果として
自分自身が喜び、後悔する事が大事なのではないだろうか?

女性だったら、買い物に出かけた先で素敵な服を見つけて喜んだり、でもサイズを確認したら、自分のサイズより小さくて買えなくて残念、という事が似てるんじゃないだろうか?また、買おうと思っていた服のすぐとなりに、もっとデザインの良くて値段の安い服を見つけたら、どうだろうか?買おうと思っていた方を買う、デザインの良い方を買う、財布と相談してちょっと他の遊興費を減らして両方買うなんて事もあるだろう。その時、もうひとつのめぐり合わせに遭遇しているはずだ。勿論財布との、である。

最近では通販を利用する人は多いが、これは本当の事を言えば一番賢いのかもしれない。絶対に自分に併せたものが見出せる筈であるから。でも、店に行った先での楽しみはとてもじゃないが通販では見出す事の少ない(出来ないとは言わない、通販雑誌の中にも「一期一会」はあると思うからだ)ことなんじゃないだろうか?

実は、今日も目的の本とDVDは見つけてないが、既に2冊の本とCDとDVD1枚ずつを買ってる(笑)。
さすがに財布の中身が軽くなりつつあるので、次に行った時はそうそう買うことはないだろう。   なんて言いながら、また余計なものを買うのも楽しいものではあるけど。



演出の妙

2006年05月19日 23時38分59秒 | Weblog
実は、今、仕事の合間である。
今月に入って、全く仕事が忙しくて書く暇が無い。
で、気がついたら19日、これはいかんと思って書き始めた次第。

さて、前にあたしが絶賛した「宇宙のスティルヴィア」を改めてレンタルして見ている。前には書かなかったが、ストーリー構成の良さと言う意味では、最近のアニメの中でもかなり上質なんじゃないかな。
で、特に今見て心に残ったのが19話の「なきんぼ おこりんぼ」と言う回の話だ。
前回の話からしないといけないのだけど、主人公が世界を救う鍵となるロボットに乗ることになり、そのロボットに同乗する恋人の能力に圧倒され、そのギャップに自分が”置いていかれた”と感じ始め、さらに親友達の妬みや過度な期待によって、自分ひとりが取り残されてしまった様に感じてしまったという所から始まる。塞ぎこんでしまった主人公を親友達が励まそうとするが、それが返って逆効果となり、挙句の果てには親友同士の中まで気まずくなってしまう。
この回はそんな少女達が無事に仲直り出来るか、主人公は立ち直れるか、というのが主題になる。
凄く判りやすいシチュエーションだが、それを表現するキャラクターが10代であるから、同年代には受け入れやすく、10代以降の人が見ると、過去の経験から非常に共感しやすい様に描かれている。

下世話ながら、結末を言うと、主人公と親友の一人が感情を剥き出しにして喧嘩を始め、その際に投げつけようとした袋から金平糖(実は主人公は金平糖の入った壜を大切にしている)が散らばり、主人公は自分がどれだけ大切にされていたか、また、孤独ではない事に気付き泣き出す。つられるように喧嘩していた親友と喧嘩を止めに入った友人達まで泣き出してしまうという所でシーンがフェードアウトする。

凄く単純ではあるけど、”泣かせ”としては上手い脚本だと思う。
よくよくこのアニメを見ると、結構”泣かせ”のシーンが多い、物語の最初の主人公と家族が別れるシーン、母子で互いに強がりを言ってわかれるのだが、その直後、地面に水滴が落ちる、母親が泣くシーンなのだが、そのシーンのすぐ後に、もう一度地面に水滴が落ち、そこで主人公も泣いていたという事に気付かせる。そこには喧嘩しながらも子供の事を思う親の姿と、親に素直になれない子供の気持ちを上手く表現している。

このアニメ、非常に萌え系のキャラクターなんでそういう方面に偏ってしまいそうなのだが、実は改めて見て非常に出来の良いアニメであると思う。
SF設定はしっかりしてるし、脚本も面白い、それでいて設定が学園物でありながら、その実、かなりハードコアなSFなのだ。面白いと思うのだけど、世間の評判ではSFというと、ガンダムSEED、SEED DISTINYだったりする訳だ。

SF好きには絶対お勧めですよ~
まぁ、あたしが宣伝した所で、何のバックも無いのだが(笑)

キリコの軍歴

2006年05月01日 00時43分20秒 | Weblog
実の所、体調崩して二日程ダウン状態。今日も実は家で何もしないで布団の中です。

 ようやく読み終わりました。わかばさんのキリコ考。
 でもって最初はわかばさんの所へ書き込みと思っていたのですが、もったいないので(笑)ネタにします。
 でもね、正直見事過ぎるんだ。こっちが何か書こうと思ってもあまり書く事が無い。と言う事で、個人的なヘンな人脈と知識を使ってボケます。まぁ、単なる個人的なおあそびとしてご覧頂ければいいですかね。

 さて、ドクターキリコの経歴についてはブラックジャック以上にわからない。まぁ、主役と脇役の関係からすれば当然なんだけどね。わかばさんは彼の軍医経験を年代やからアメリカに居たのではとの推測を立てているが、実の所、あたしはフランスじゃないかと思ってたりする。そう、言わずと知れた外人部隊というやつである。軍医に傭兵なんて居るのかという話があるが、実際軍医として傭兵経験のある人は世界に多数存在する。基本的にフランス外人部隊でも軍医の殆どはフランス人なのだそうだが、居ない訳でもないそうだ。その多くは外科であるが、中には内科、眼科、麻酔科、精神科、歯科等の専門医も参加している。キリコの専門は不明だが、彼の漫画での活躍を考えると、外科か内科の可能性が高い。日本人では自分が知る限りでは傭兵として活躍経験のある医師はいないのだが、戦場で医療活動を行う団体もある。例えば、国境なき医師団である。但し、これは軍属ではないからキリコは自らを軍医と言っていただけに、あり得ない。やはり、傭兵か海外籍での軍医と言う事になる。ちなみに余談になるが、アメリカ軍はアメリカ国籍で無くとも採用するケースが幾つかある。例えば、グリーンカード(アメリカ永住権)の取得や、国防省の外郭団体への募集参加などの方法もある。
 さて、キリコが何かしらの軍医であったとして、では戦場はどこだったか? よくよく考えるとあの時代はあちこちで戦争や紛争があった。フランス外人部隊と言って思い出すのはインドシナ戦争だ。ベトナム戦争の前の事になる。さらに言えばベトナム戦争にも視察と称してフランス軍はベトナムに居た経緯があるのでベトナム戦争もあながち否定は出来ない。アメリカの軍医であれば、間違い無くベトナム戦争が有力になる。国を意識せずに、傭兵と言う事だけに限定すればアフリカ諸国の独立運動(特にローデシアは有名)などもある。但し、アフリカの傭兵事情はアパルトヘイトの関係で白人が殆どであるからこれは問題外かもしれない。日本人は有色人種としてこの手の傭兵の下では蔑まれる事が多い為だ。そして極めつけは中東戦争だ。これには各国の義勇兵が参加しているため、キリコの従軍の可能性は高い。特にパレスチナ側には多くの外国人が参加しているのでこの辺がかんがえられないだろうか。(オチはない)

 余録、戦場の悲惨な経験の中で実は直接戦場に出た者以上に医師への影響は大きいそうだ。勿論、数の上から言えば圧倒的に酷い体験をするのは一般の軍人の方が多いのだが、人の生死に関わる者として、軍医と衛星兵、そして従軍神父、従軍牧師というのは本当に過酷な経験をする事が多いそうだ。その中でキリコの様な存在が出るのもあながち間違いでは無いようだ。安楽死という選択をしないまでも、極限に至ると、負傷者の中から死者の選択を迫られる事があるらしい。あたしは一度だけ、その現場の状況をVTRで見た事がある。阪神淡路大震災の際のある医師の治療状況だ。彼は大量の負傷者を前に究極の選択を迫られたのだ。そこに医師は彼しか居ない。彼は負傷の状況から、治療しても助からないと判断した負傷者よりも助かる負傷者を優先して治療をした、このVTRについて多くの抗議があがったらしいが、あたしはこれを見てその医師に感動すら覚えたのだ。彼は助からない負傷者を優先治療する事で、助かる筈の負傷者を死なせる愚を犯したく無いと判断したのだ。極限の状態でこの医師の判断を攻める事が出来るだろうか? そう考えるとキリコの思考も実はこの医師と同じでは無いかと思えて仕方が無い。それが生者に向けられたか、死に行く者に向けられたかの違いだけであるような気がしてならない。
(こっちもオチは無い)