前回、ヤッターマンで少々熱くなってしまったが、それはいずこも同じだったようである。
やっぱりあのアニメを見ていた世代には色々と思い入れがある様で、オタク以外にも色々な人がブログに書いている様だ。
で、あたしが敬愛してやまないkoshiさんやわかばさんも書いていたのだが、わかばさんがその後に以下の記事をお書きになった。
「いろんなところで、今回のオープニングに対する批判を読んだが、心底そう思って丁寧に真面目に書いている文章もあれば、明らかに調子に乗ってここぞとばかりに罵詈雑言を書いていると思われるものもあった。いや、「明らかに」というのは私の主観だけれども、一言「ダメだ」とか「ガッカリ」とか「出直してこい」とかいうのはそう捉えても構わないと思う。ダメならダメでどうダメなのか、それを書かないものには何の価値もない。」(わかばの日記 1月16日記事「批評と批判」)
あたしも幾つかのインターネットサイトで批評を書かせて頂いているが、このわかばさんの意見は少し乱暴な気がしたので、コメントを付けさせて頂いた。
「批評と批判については本当に難しい所です。
あたしは批評と批判は紙一重だと思っています。
たった一言「残念」「駄目だ」等とかいたとしても、直接的な感想であり、批評の一番初期的な表現だと思うからです。あたしも映画や漫画の批評サイトに書き込ませて頂いていますけど、中に物凄く短い言葉でコメントを残す方が居るのですが、それが物凄く直接的な表現ながら、その言葉が非常に伝わる場合があり、あたしはそれを立派な批評だと考えています。」(わかばの日記 1月16日記事の三景のコメント)
それにたいして、わかばさんがあたし宛にお書きくださったコメントが以下の通りである。
「さて、批評と批判についてですが、やはり私はたった一言感想を述べたようなものを「批評」と呼ぶには抵抗があります。やっぱりそれは「感想」でしかなくて、三景さんが書かれているような「批評」と思えるケースはごく特殊なのではないかと思います。つまり、この人はそういう書き方をする人なのだというような予備知識が必要で、どこの誰ともわからない人が同じことを直接的な言葉で表現していたら「なんだこれは」ということになるのではないかと思うのです。
批評というのは、そこに対象を正当に評価しようという意思があるかどうかが問われると思います(感想はそんなもの無くても心情の吐露でいいわけで)。そういう意思があった上で、これはダメだと思えば、その人の書く批評は批判的なものになるでしょう。それは構わないと思います。でも批判的な意見というのは、書き方に十分な注意が必要だと思うのです。理由も何もなく「ダメだ」とただ一言書かれた文章からは、不快と怒りしか生まれない。実際、私がもしそう書かれた当事者だったとしても、何をどうすればよいのかちっとも判らない。何の参考意見にもならないのです。
これが逆に、「良い」という一言ならば、そこにはなんの問題も起こりません。比較してみると判るように、否定の言葉というのはものすごく強いもので、それに触れた人の気持ちに何らかの波を起こすものだからこそ、言葉を選びつつその意味を十分説明する責任があるのではないでしょうか。批判をするにも、優しさとマナーは必要です。ましてや、不特定多数の目に触れるネット上のことなのですから、悪影響を受けて「ああ、こういうの書いてもいいんだ」と煽られる人が多数出てくることを危惧します。」(わかばの日記 1月16日記事の三景宛のわかばさんのコメント)
実際、わかばさんの仰っている事は正論なのである(笑)。
では、何故に三景がそこまで批評にこだわるのか?
そもそも”批評”とは何か。
批評(ひひょう)ー(名)スル事物の善悪・優劣・是非などについて考え、評価すること。(三省堂提供「大辞林 第二版」より)
常日頃評論について、世間一般が固く考え過ぎではないか、とあたしは思っている。説明が出来ればその説明自体がおかしくとも批評になるのか?難しい事を説明出来なければ評論じゃないのか?
人間の純粋な感情表現は喜怒哀楽である。それが素直に現れる、それがあたしは批評の第一歩だと思う。
かつてある映画評論家がいった。
「子供たちの顔こそが一番の批評になる」
その人曰く、映画を見ている子供の表情こそが一番判りやすい映画の面白い所、つまらない所などの参考になる、というものだった。
何となくそれを納得させる様な話を以前聞いた事がある。アニメ映画「ドラえもん」で、本編の映画は真剣に見ている子供が、同時上映のドラえもんが沢山出てくるミニ映画の時は館内を走り回っている子供たちが多かったという事だ。つまり、彼等が映画の面白いもの、つまらないものを見分ける力量を十分に備えているという事だ。
もし、こうしたドラえもんの映画を見ていた子供たちが批評をする際にどんな言葉を使うのだろう?おそらくあたしたち以上に理知的な批評をしてくる子供もいるだろう。だが、多くの子供たちが全て理知的な批評を出来る訳ではない。こう考えたときに、あたしに見えてきたのは、批評する事の原点は「良い」、「悪い」、「面白い」、「つまらない」「駄目」「がっかり」等といった、単純な言葉だったのだ。批評を難しく考える必要は無い、素直に出てきた単純な言葉こそが大事であるように思う。
では、わかばさんの仰る、「批判的な意見というのは、書き方に十分な注意が必要だ」という意見については間違っているのか?これも間違いではない。
インターネット等、匿名性の高いメディアにおいては、匿名である事を良いことに、掲示板の"あらし"や個々の利用者の"暴走"などからブログの"炎上"などという事態も発生する。ちょっとした言動がこうした事態を招く可能性は否めない。
但し、これは世間に公開する文章全てに言える事であり、何も批評だけに限った事でもない。また、批評や文章のひとつの手法として敢えて酷い言い方をするケースもある。わかばさんの仰るような、明らかに罵詈雑言を浴びせているコメントというのは本当に判断が難しい所で、あたしは罵詈雑言もひとつの意見と捉えている(勿論、はらわたの煮え繰り返るようなコメントもあるのですが・・・)。
批評はどんな人がどんな表現方法を使うか判らない。場合によっては辛辣に聞こえるものもあるだろう。しかしながら、それゆえに批評された側は真摯に受け止めるべきだと思うし、加えて言えば、作られた文章が必ずしも作者の意図通りに読まれない可能性があることも自覚しなければならないだろう。同時に批評する側も同じ立場に置かれていることを自覚しなくてはいけないのではないだろうか。
あたしは、どんな文章を書くにも、公衆の面前にさらされる文章には自身に責任があると考えている。故に、ブログにもコメントの余地をつけているし、頂いたコメントに対しては、全て読ませて頂いている(悲しいかな、勧誘コメントもだ(笑))。勿論、これはあたしの文章の出ている所が自身のブログにしか無いのと、このブログ自体が読まれている数が少ない事もあるのだが、ありがたくなるようなコメントも、辛辣なコメントも、全てがあたしに向けられた何かしらのコメントであるという事を見直すためにも重要だと考えている。但し、これが本当に正しい行為かどうかは、あたしには判らない。今はそれを信じて書き込みを続けるしかないのだ。
とか書いておきながら、辛辣な意見は滅入る事が多いのは事実だったりする(笑)。
おしまいに、
この文章を書きながら、お笑い芸人、キングコングの西野ブログをちょっと思い出した。
彼のブログは彼自身の不用意な発言から何かと話題になっている。昨年末あたりに2ちゃんねる掲示板に対する2ちゃんねらー一部の批判をしているようだが、同時に彼自身はブログにコメント、トラックバック等のつけず、反論の余地を与えて居ない事が、2ちゃんねらー達からのバッシングに繋がった様だ。
まぁ、有名人だからコメントつける余地なんて作ったら、大炎上するのは間違いないから付けないのはわかる。しかしながら、彼自身はブログ内で"人を否定する事で自分の存在を確かめる奴"と書いているのだが、本人がその一人になっている事に自覚が無い。
彼は評論する勇気は無いと書いているが、彼の2ちゃんねるに対する書き込みが評論になっている事に気付いていないのだ。
「そこで思う評論のルールとして、マナーとして。
最低でも反論を受け付けるステージを設けるという事。表に立つという事。
それがTV出演だったり、逆に評論される立場になる作品制作だったり。
そのステージを設けていないうちに評論してしまうと、つまりそれは『2ちゃんねる』のそれと同じ生き方になっていると思うんだ。」(キングコング西野のブログ「西野公論」より)
折角、こんなに格好良い言葉を紡いでいるのに、自身が批評される事については一切入り口を閉ざしてしまっていて、何のマナーか判らない。彼自身は表に立っていると自覚しているようであるが、反論を受け付けるステージを閉ざしている事には変わらない。彼自身は文句があるなら、事務所に直接手紙を出せとか言いたいのかもしれないが、であれば、所属事務所の住所やメールアドレスを提示するべきだろう。それこそ、最低限のマナーじゃなかろうか?
※今回の書き込みにあたり、ブログの参照を快く受けてくださった、わかばさんに感謝いたします。
やっぱりあのアニメを見ていた世代には色々と思い入れがある様で、オタク以外にも色々な人がブログに書いている様だ。
で、あたしが敬愛してやまないkoshiさんやわかばさんも書いていたのだが、わかばさんがその後に以下の記事をお書きになった。
「いろんなところで、今回のオープニングに対する批判を読んだが、心底そう思って丁寧に真面目に書いている文章もあれば、明らかに調子に乗ってここぞとばかりに罵詈雑言を書いていると思われるものもあった。いや、「明らかに」というのは私の主観だけれども、一言「ダメだ」とか「ガッカリ」とか「出直してこい」とかいうのはそう捉えても構わないと思う。ダメならダメでどうダメなのか、それを書かないものには何の価値もない。」(わかばの日記 1月16日記事「批評と批判」)
あたしも幾つかのインターネットサイトで批評を書かせて頂いているが、このわかばさんの意見は少し乱暴な気がしたので、コメントを付けさせて頂いた。
「批評と批判については本当に難しい所です。
あたしは批評と批判は紙一重だと思っています。
たった一言「残念」「駄目だ」等とかいたとしても、直接的な感想であり、批評の一番初期的な表現だと思うからです。あたしも映画や漫画の批評サイトに書き込ませて頂いていますけど、中に物凄く短い言葉でコメントを残す方が居るのですが、それが物凄く直接的な表現ながら、その言葉が非常に伝わる場合があり、あたしはそれを立派な批評だと考えています。」(わかばの日記 1月16日記事の三景のコメント)
それにたいして、わかばさんがあたし宛にお書きくださったコメントが以下の通りである。
「さて、批評と批判についてですが、やはり私はたった一言感想を述べたようなものを「批評」と呼ぶには抵抗があります。やっぱりそれは「感想」でしかなくて、三景さんが書かれているような「批評」と思えるケースはごく特殊なのではないかと思います。つまり、この人はそういう書き方をする人なのだというような予備知識が必要で、どこの誰ともわからない人が同じことを直接的な言葉で表現していたら「なんだこれは」ということになるのではないかと思うのです。
批評というのは、そこに対象を正当に評価しようという意思があるかどうかが問われると思います(感想はそんなもの無くても心情の吐露でいいわけで)。そういう意思があった上で、これはダメだと思えば、その人の書く批評は批判的なものになるでしょう。それは構わないと思います。でも批判的な意見というのは、書き方に十分な注意が必要だと思うのです。理由も何もなく「ダメだ」とただ一言書かれた文章からは、不快と怒りしか生まれない。実際、私がもしそう書かれた当事者だったとしても、何をどうすればよいのかちっとも判らない。何の参考意見にもならないのです。
これが逆に、「良い」という一言ならば、そこにはなんの問題も起こりません。比較してみると判るように、否定の言葉というのはものすごく強いもので、それに触れた人の気持ちに何らかの波を起こすものだからこそ、言葉を選びつつその意味を十分説明する責任があるのではないでしょうか。批判をするにも、優しさとマナーは必要です。ましてや、不特定多数の目に触れるネット上のことなのですから、悪影響を受けて「ああ、こういうの書いてもいいんだ」と煽られる人が多数出てくることを危惧します。」(わかばの日記 1月16日記事の三景宛のわかばさんのコメント)
実際、わかばさんの仰っている事は正論なのである(笑)。
では、何故に三景がそこまで批評にこだわるのか?
そもそも”批評”とは何か。
批評(ひひょう)ー(名)スル事物の善悪・優劣・是非などについて考え、評価すること。(三省堂提供「大辞林 第二版」より)
常日頃評論について、世間一般が固く考え過ぎではないか、とあたしは思っている。説明が出来ればその説明自体がおかしくとも批評になるのか?難しい事を説明出来なければ評論じゃないのか?
人間の純粋な感情表現は喜怒哀楽である。それが素直に現れる、それがあたしは批評の第一歩だと思う。
かつてある映画評論家がいった。
「子供たちの顔こそが一番の批評になる」
その人曰く、映画を見ている子供の表情こそが一番判りやすい映画の面白い所、つまらない所などの参考になる、というものだった。
何となくそれを納得させる様な話を以前聞いた事がある。アニメ映画「ドラえもん」で、本編の映画は真剣に見ている子供が、同時上映のドラえもんが沢山出てくるミニ映画の時は館内を走り回っている子供たちが多かったという事だ。つまり、彼等が映画の面白いもの、つまらないものを見分ける力量を十分に備えているという事だ。
もし、こうしたドラえもんの映画を見ていた子供たちが批評をする際にどんな言葉を使うのだろう?おそらくあたしたち以上に理知的な批評をしてくる子供もいるだろう。だが、多くの子供たちが全て理知的な批評を出来る訳ではない。こう考えたときに、あたしに見えてきたのは、批評する事の原点は「良い」、「悪い」、「面白い」、「つまらない」「駄目」「がっかり」等といった、単純な言葉だったのだ。批評を難しく考える必要は無い、素直に出てきた単純な言葉こそが大事であるように思う。
では、わかばさんの仰る、「批判的な意見というのは、書き方に十分な注意が必要だ」という意見については間違っているのか?これも間違いではない。
インターネット等、匿名性の高いメディアにおいては、匿名である事を良いことに、掲示板の"あらし"や個々の利用者の"暴走"などからブログの"炎上"などという事態も発生する。ちょっとした言動がこうした事態を招く可能性は否めない。
但し、これは世間に公開する文章全てに言える事であり、何も批評だけに限った事でもない。また、批評や文章のひとつの手法として敢えて酷い言い方をするケースもある。わかばさんの仰るような、明らかに罵詈雑言を浴びせているコメントというのは本当に判断が難しい所で、あたしは罵詈雑言もひとつの意見と捉えている(勿論、はらわたの煮え繰り返るようなコメントもあるのですが・・・)。
批評はどんな人がどんな表現方法を使うか判らない。場合によっては辛辣に聞こえるものもあるだろう。しかしながら、それゆえに批評された側は真摯に受け止めるべきだと思うし、加えて言えば、作られた文章が必ずしも作者の意図通りに読まれない可能性があることも自覚しなければならないだろう。同時に批評する側も同じ立場に置かれていることを自覚しなくてはいけないのではないだろうか。
あたしは、どんな文章を書くにも、公衆の面前にさらされる文章には自身に責任があると考えている。故に、ブログにもコメントの余地をつけているし、頂いたコメントに対しては、全て読ませて頂いている(悲しいかな、勧誘コメントもだ(笑))。勿論、これはあたしの文章の出ている所が自身のブログにしか無いのと、このブログ自体が読まれている数が少ない事もあるのだが、ありがたくなるようなコメントも、辛辣なコメントも、全てがあたしに向けられた何かしらのコメントであるという事を見直すためにも重要だと考えている。但し、これが本当に正しい行為かどうかは、あたしには判らない。今はそれを信じて書き込みを続けるしかないのだ。
とか書いておきながら、辛辣な意見は滅入る事が多いのは事実だったりする(笑)。
おしまいに、
この文章を書きながら、お笑い芸人、キングコングの西野ブログをちょっと思い出した。
彼のブログは彼自身の不用意な発言から何かと話題になっている。昨年末あたりに2ちゃんねる掲示板に対する2ちゃんねらー一部の批判をしているようだが、同時に彼自身はブログにコメント、トラックバック等のつけず、反論の余地を与えて居ない事が、2ちゃんねらー達からのバッシングに繋がった様だ。
まぁ、有名人だからコメントつける余地なんて作ったら、大炎上するのは間違いないから付けないのはわかる。しかしながら、彼自身はブログ内で"人を否定する事で自分の存在を確かめる奴"と書いているのだが、本人がその一人になっている事に自覚が無い。
彼は評論する勇気は無いと書いているが、彼の2ちゃんねるに対する書き込みが評論になっている事に気付いていないのだ。
「そこで思う評論のルールとして、マナーとして。
最低でも反論を受け付けるステージを設けるという事。表に立つという事。
それがTV出演だったり、逆に評論される立場になる作品制作だったり。
そのステージを設けていないうちに評論してしまうと、つまりそれは『2ちゃんねる』のそれと同じ生き方になっていると思うんだ。」(キングコング西野のブログ「西野公論」より)
折角、こんなに格好良い言葉を紡いでいるのに、自身が批評される事については一切入り口を閉ざしてしまっていて、何のマナーか判らない。彼自身は表に立っていると自覚しているようであるが、反論を受け付けるステージを閉ざしている事には変わらない。彼自身は文句があるなら、事務所に直接手紙を出せとか言いたいのかもしれないが、であれば、所属事務所の住所やメールアドレスを提示するべきだろう。それこそ、最低限のマナーじゃなかろうか?
※今回の書き込みにあたり、ブログの参照を快く受けてくださった、わかばさんに感謝いたします。