日本の文化と国際交流と・・・

日本の文化を守る仕事をしながら同時に外国の留学生さん達を沢山受け入れています。すばらしい日本の文化を伝えて行きたいです。

読売新聞大阪本社見学

2015-02-23 19:21:47 | 日記
念願叶って、新聞が出来る迄を見学して来ました。




本社の建物は地上6階・地下6階。
地上階はいろんな部署で特に社会部は殆ど出払って人影はまばらでした。
地下6階は吹き抜けで、ここが印刷所です。
高速輪転機等の騒音の関係で工場が地下に有ります。
地上3、4階は編集局で、取材したニュースや、話題を記事にしたり、紙面をレイアウトする方がいらっしゃいました。
新聞発行所は各発行所の人が集まって記事にしますが、それはテレビ会議をしてどの記事をどうレイアウトするかを決めます。

最後に専門の方達が間違いがないかを一字ずつ肉眼でチェックして、地下の工場に送られます。

新聞にはそれぞれの地区のバーコードがあり、機会が荷造りしてレールにのって各地域の配送場所に出てきます。
それをトラックに積んで配達されるそうです。昔は電車で運ばれていましたが、今はトラックが主流で販売店に運ばれて行きます。

朝刊・夕刊が各家庭に配達される時間帯まで、時間との戦いという事で、ご苦労の多い仕事だなと感動と感謝の気持ちでいっぱいになりました。

因みに、私は読売新聞一筋で54年の読者です。一日約5時間位読んでいます。
深夜になって今日の朝刊を全て端から端まで読み終わって片付けると、翌日の朝刊が届けられます。
いつも素晴らしい紙面、有りがたく感謝しています。

お土産で自分達が載った新聞がいただけます。

翌日には実際の朝刊に記事として載りました。嬉しい(≧▽≦)




連続テレビ小説マッサン~ニッカウイスキー創業者・竹鶴政孝と妻・リタさんの物語~

2015-02-13 19:06:44 | 日記
NHKの朝ドラを毎日一回は必ず見ています。
皆さんはいかがですか?
日本人の政春とスコットランド人のエリーさん夫婦が、日本初の国産ウイスキー造りに挑戦する姿を描いたテレビ小説。



広島→スコットランド→広島→大阪→北海道余市と舞台を移します。
大阪では住吉大社近くに住んでいたそうです。
それで天王寺から浜寺へ行く阪堺電車のボディーにタイトルのマッサンの絵が書かれた車両が走っています。



この電車が友達の家の側を走っているので、停車した時に電車をバックに記念写真を撮ったのを見せてくれました。

そしてカレンダーにしたそうです・・・羨ましいです。

さて「マッサン」は、今年から北海道余市が舞台になっていますね。

最初は京都と大阪を分ける天王山の麓山崎、ここはウイスキーに必要な名水で知られ、千利休も茶室を開いた土地です。
この水質がよくて霧が発生しやすい土地でマッサンも頑張りましたが、鳥井信治郎(元寿屋でサントリーウイスキーの創業者)とは意見が合わず、同じく水の綺麗で霧が発生する北海道余市に移ります。

今マッサンは頑張ってやっと出来たスコットランドのモルトウイスキーを発売しましたが、味が日本人に合わないと嫌われ返品又返品。
当時の日本人は日本酒が基本なので、受け入れがたかったのでしょうね。
借金取りが毎日会社へ押し寄せ、夫婦が頭を下げて哀願しているシーンが昨日2月13日放送されました。

1934年に後のニツカウイスキーを創業する事になるのですが、まだまだ前途多難な様子です。



大地震!!!

2015-02-06 19:15:52 | 日記
 今日、高知県で震度5の大きな地震がありました。


今回は津波もなく、建物の倒壊もなかったようで一安心ですが、南海トラフとの関係が取り沙汰されていますね。
阪神大震災を経験した身としては、南海トラフの話は怖くて仕方ないのですが、大きな震災を経験して尚、一体何を準備すれば安心なのか分らないのが正直な所です。
 
阪神大震災の震度

 
南海トラフの予想震度&記事


 
余震にビクビクして過ごした日々が思い出されます。
 
前回、東日本大震災の拾得現金の話をチラッと書いたのですが、もう少し詳しく…

東日本大震災で福島県の拾得現金は2011年は約12億円!
2010年は1億5700万円でした。
津波で被害を受けた沿岸部の六つの警察署に震災後に届けられた現金は10億2400万円。
全体の85%が沿岸部の拾得物で過去最高と見られています。
そして、この現金の殆どが金庫やリュックサック等に入って泥まみれになっていたそうです。
そのうち86%は既に返還されたと言います。
沿岸部6署では821個の金庫の拾得は計5億5000万円が入っていたそうですが、その内の631個・計5億4700万円は返還されて持ち主に戻っているそうです。
一体、どうやって個人を特定出来たのでしょうか?
その後、残りは引き取られたのでしょうか?

この記事を読んで、もし大都会に津波が来たら、流された金額はもっと少なかったのではと思いました。

都会の人は大体家に大金や貴重品は置かず、銀行等の金融機関に預けていて、手元にそんなに大金は置いてないように私は思います。
日常で高価な買い物等はカード払いか振込みにするでしょうから、金庫はともかくリュックサックに大金を保管されているのにはびっくりしました。

それでは、詰める程持っていない私は、せめてリュックサックに防災用品を入れて大金持ちになる夢でも、見て寝る事にします。

国産カレー粉 薬の町から

2015-02-02 19:18:15 | 日記
大阪の道修町と言えば、昔から製薬会社村と言われる位、各メーカーが集まっていました。



でも、一時期東京に本社を移すしていたので、大阪人寂しく思っていましたが最近になって大阪に帰ってくるケースも増えて来ました。
その道修町で家庭でお馴染みのカレー粉が日本初で誕生したのをどれだけの人が知っていたでしょうか?
因みに私は全く知りませんでした。
1903年、道修町で薬種問屋を営んでいた今村弥兵衛が漢方薬を保管していた蔵からカレーに似た匂いがするのに気付いたのがキッカケでした。
蔵には香辛料のウコンや唐辛子があり、弥兵衛さんはこれを使ってカレー粉を作ろうと思い立ちました。
当時の英国から輸入されたカレー粉は大変高級品でしたので、彼は香辛料を調合して2年後の1905年に日本初のカレー粉を発売しました。
作業中に窓にとまった蜂が輝いて見えたので、「蜂カレー」と名付けました。
これが社名の由来になっています。





因みにカレールーで国内6割のシェアを持つハウス食品創業者浦上靖介さんも道修町の薬種問屋で修行を積み独立された人です。
また今NHK朝ドラで毎日のように聞く鳥井信治郎さん(鴨井商店の大将)も、この道修町の薬種問屋に奉公し、洋酒の基礎知識を学ばれました。
彼が現在のサントリーの創業者です。

結果、カレーや洋酒は日本人の食文化を変えました。
「道修町とカレー」中々結び付きませんが、私もカレーライス大好きです。
中でも、インドで食べたカレー料理は忘れられません。