日本の文化と国際交流と・・・

日本の文化を守る仕事をしながら同時に外国の留学生さん達を沢山受け入れています。すばらしい日本の文化を伝えて行きたいです。

東京都の成立

2015-05-25 19:24:47 | 日記
1868年9月(慶応4年7月)江戸幕府の所在地であった所へ、京都から遷都しました。



明治前期は関西の東方にある都で(トウケイ)とも言われ、それが東京に改称されました。
因みに、「東京」と改称したのは大久保利道さんです。



1878年(明治11年)に府制施行。
1889年、これを15区にわけて東京市としました。
1932年、隣接の町村を併合して35区と改め、1943年に府・市を廃して、都制をしき東京都 が生まれました。 (つまり都構想ですね。)
今から72年前の事です。
1947年、23区を特別区、及び市、郡、支庁、の区画を定めた。
特に23区の地域を東京都と呼ぶ事もあります。



現在、東京と言えば日本の政治経済の都です。



世界から“日本と言えば東京‘’と言われています。
必ず外国の立派な人が来日されたら東京に降り立たれます。




そして関西に来ずそのまま帰国される・・・何故?
旅行客も嬉しいが、世界的にお偉い人も来て欲しいです。
そして私欲、名誉だけで生きてる高官さんに会って欲しいと思っていますが・・・

大阪都構想決着!

2015-05-18 19:23:05 | 日記
賛成69万4844人、反対70万5585人。



当日の有権者数は210万4076人で投票率66,83%でした。
合計が投票数と一致しないのは、会場にいきながら投票せず持ち帰った人もいたとか・・・
大阪市にとって、今までもこれからも無いかもしれない大事な事なのに、行かない人もあるし(゜Д゜)

昨日、大阪市内で2人のおばさんの会話「あんた行くの?なんか解らんから行かへんわ・・」
説明会は毎日大阪市内のどこかで行われていたし、解る人に聞けば良いのに・・・
他の選挙と違い、この機会はもう無いかも?



他県から来た人が本当に大阪の事を良くしてくれるかな?
市は市。府は府で高いビルを建てて活用せず。
「大阪にオリンピックを!」といって埋め立てた島は、草だらけにしたまま東京へ帰ってしまった?

このままの大阪なら大企業の本社は、これからも東京へ行ってしまいます。
東京はやっぱり国際都市で、外国からも魅力あるっていう事ですね。
会社が移ると人も移ります。
大阪の税収も減り、市民の要望も実現難しくなるのでは・・・

最近、東南アジアから旅行者が沢山来て下さいますが、大阪の魅力がもっと増えなければと危惧します。
橋下さんには、まだまだ宿題が残されていると思うと惜しいです。



「言う(湯)は風呂屋」

実行力のある人を次も現れて欲しいです。

次回は東京が都になった経緯を書きたいです。

高野山開創1200年記念法要

2015-05-11 19:22:33 | 日記
前夜の雨も上がって良い天候に恵まれ、久し振りに高野山へお参りに行って来ました。



この日、5月10日は弁天宗の信者及び縁者が全国から約7000人集い、管長猊下の御導師の行列を見ようと集まりました。
何しろこういう行事は高野山でも普通50年に一度の大行事で、1150年には前管長もご導師を務められました。
なんと親子二代続けての事だそうでびっくりです!



境内は日曜日であって、家族づれや外国人も沢山参拝されて居ました。



南海の特急券も取れず、電車内もギュウギュウで疲れました(-_-;)



先ず両親の供養で我が家の菩提に参り、供養のお経とお説教も聞いて、金剛峯寺からの行列について金堂(高野山の総本堂・高村光雲作の薬師如来が安置されている)の外の前庭で本堂に入り、儀式。
次に外で西本智実さん指揮でイルミナート合唱団と弁天宗合唱団によるベートーヴェン(交響曲第9番・いろは歌)を聞き、法要終了。
後、沢山ある建物の内、根本大塔(弘法大師が高野山開創にあたり、真言密教の根本道場として建立され、高さが約48.5m。四面が23.5m。の偉容を誇っている。)



それと、御影堂(大師の御影を祀っている)、大門(高野山の総門で現在のものは1705年の再建で両脇の金剛力士像は江戸時代の物。)
この大門と金剛峯寺と奥ノ院は高野山を代表するものです。

因みに金剛峯寺は弘法大師が名づけられた高野山真言宗3600ケ寺・信徒1000万人の総本山の名称です。

気分はスッキリ!身体はヘトヘト!!・・・でも、ありがたい一日でした(^^)/

仁徳天皇陵

2015-05-01 19:24:36 | 日記
何回か私のブログに登場する地元の仁徳天皇陵は百舌鳥耳原陵とも言われています。




この名の由来は仁徳天皇が、ある日御陵を築城するのにどこか良い場所はないかと狩猟の帰りに立ちよったところ、一頭の鹿の耳から「百舌鳥」と言う鳥が飛び出しました。
これをご覧なった仁徳天皇がこの地を”百舌鳥耳原陵”と命名されたそうです。



叉、土地の名から大仙陵古墳とも言われていますが、天皇が亡くなられてから仁徳天皇陵と呼ばれるようになりました。
日本最大は勿論のこと、エジプトでも最大のクフ王ピラミッドや中国の秦の始皇帝の墓よりも大きく、世界最大と言われています。






でも未だに世界遺産と認められていません。



仁徳天皇は人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し]、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られています。
でも一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれています。






秦の始皇帝は中国史上最初の統一国家を築き、自ら皇帝と称した人で万里の長城の建設や、等身大の兵馬俑で知られる秦始皇帝陵の建設などを、多くの人民に犠牲を払わせつつ行いました。





クフ王は国民の苦しみも顧みずに大規模な土木事業を繰り返した暴君とされていますが、実際にはこの事業がしばしばおこったナイル川の氾濫で一時的に職を失った農民のための失業対策であったともされています。しかし、この大事業が代々繰り返されたことで国力は疲弊し、古王国時代は終焉を迎えることとなりました。




そこで現在、堺市は周辺の古墳と南河内の古市古墳群を合わして申請されていますが、さてさてどうなるか?
今頃になって俄かに騒がれています。
これはお役人サイドで市民はあんまりわかっていないのでは・・・?
前回の利晶の杜も大金をかけて設立されましたが、バックアップをしっかり市民、府民にPRしないと心配です。