硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

   これから五年目の春

2015年03月08日 | 時事問題

我が絵本・「大海嘯(おおつなみ)」より  流された妻の亡霊が出てくる場面

 

 

             これから五年目の春

 

 未曽有の大震災から早くも満4年が過ぎようとしているが、各地の仮設住宅での闘いはまだまだ道半ばである。とりわけ仮説住宅の、高齢者が亡くなられ、その空室が気になって仕方がない。多分どこの仮説住宅でも、30%が空き家に相違ない。福島の仮設住宅では空き家が90%を超える場所もあるといわれている。瓦礫が或る程度片付いて、ガランドウな被災地をみると、一見復旧・復興が進んだかに見えるが、でも隈なく歩いてみると、そう簡単ではなさそうである。

 それだけではない。現在でも数多くいらっしゃる各地への人的応援のなかで、2013/1/5の日経に出ていた記事は痛ましいものであった。東日本大震災の被災自治体支援で岩手県大槌町に派遣されていた兵庫県宝塚市の男性派遣職員(45)が、何と復興の最中、自ら自死したのである。

 岩手県大槌町に派遣された兵庫県宝塚市の職員は、宿泊していた宮古市の仮設住宅で首をつった状態で死亡していたことが5日分かった。カレンダーの裏に遺書のようなメモがあり、自殺とみられる。大槌町などによると、遺体が見つかったのは3日。2日から連絡が取れなくなったことを心配した男性の妻が、宮城県南三陸町に派遣されている宝塚市の同僚職員に確認を依頼。様子を見に行った同僚が発見した。カレンダーの裏には、周囲への感謝と「大槌は素晴らしい町です。大槌頑張れ」と記されていたという。大槌町によると、男性は昨年(2012)10月1日に派遣され、任期は今年(2013)3月31日までだった。都市整備課で土地区画整理事業の用地交渉などを担当していた。仕事納め後の昨年12月29、30両日も復興計画に関する住民の聞き取り調査のため出勤していたという。碇川豊大槌町長は「ご家族や派遣元自治体の関係者には申し訳ない気持ちでいっぱいだ。職員の心のケアをさらに強化しないといけない」と話した。被災地派遣の職員死亡に方々から「やりきれない」と聞かれ、宝塚市長中川智子市長は5日に記者会見し「誠実な人柄で、被災者に寄り添って頑張ってくれていた。無念でならない」と話した。[共同 日本経済新聞 2013/1/5}

 この方は、大みそかまで、被災者と直談判をしたが、結論を引き出せなかったようである。高台移転と、ひと口で言われるが、地主や不動産屋がただ同然であった山林を高値にしてしまったことがあったり、様々な要因が考えられる。ただ彼は一人悶々とし、よくよく疲労した結果であったのだろう。移転そのものとは被災者にとって、なかなか大変なことであり、役所の方の説得をそう簡単に聞き入れてもらえなかったようでもある。返す返すも無念でならない。改めて追悼の誠を捧げたく、本ブログに記載した次第。

 福島のことは格別に悲惨である。帰宅困難エリアで、大きなスーパーを営んでいた方が、その場に帰って、首吊り自殺をされた方もいらっしゃれた。同じような場所で暮らしていた老女が、自身のご先祖が眠る墓場で、「私の帰る場所はここです」と言い残し自死して果てられた。何ということだろう。無論他にも痛ましい話題は幾らでもあり、ここに書ききれるものではない。

 

岩手県三陸地方の惨状

 

     遠野物語 99話(大海嘯)

     (柳田國男著 『遠野物語』 全119話のうち)

 土淵村の助役北川清といふ人の家は字火尻にあり。代々の山臥(やまぶし)にて祖父は正福院といひ、学者にて著作多く、村のために尽くしたる人なり。清の弟 に福二といふ人は海岸の田の浜へ婿に行きたるが、先年の大海嘯(おおつなみ)に遭ひて妻と子を失ひ、生き残りたる二人の子と共に元の屋敷の地に小屋を掛けて一年ばかりありき。

 夏の初めの月夜に便所に起き出しが、遠く離れた所にありて行く道も浪の打つ渚なり。霧の布(し)きたる夜なりしが、その霧の中より男女二人の者の近寄るを見れば、女はまさしく亡くなりしわが妻なり。思はずその跡をつけて、はるばる船越村の方へ行く崎の洞(ほこら)ある所まで追ひ行き、名を呼びたるに、振り返りてにこと笑ひたり。

 男はと見ればこれも同じ里の者にて海嘯の難に死せし者なり。自分が婿に入りし以前に互ひに深く心を通はせたりと聞きし男なり。今はこの人と夫婦になりてありといふに、子供は可愛くないのかといへば、女は少しく顔の色を変へて泣きたり。

 死したる人と物言ふとは思われずして、悲しく情けなくなりたれば足元を見てありし間に、男女は再び足早にそこを立ち退きて、小浦(おうら)へ行く道の山陰を廻(めぐ)り見えずなりたり。追ひかけて見たりしがふと死したる者なりと心付き、夜明まで道中に立ちて考へ、朝になりて帰りたり。その後、久しく煩(わずら)ひたりといへり。



【田の浜(山田町船越)の被災状況】(明治29年6月15日) 

全戸270戸流失、死者763人。火災発生し、役場職員全員死亡。津波の高さ9・11メートル。

 

 

 私は、柳田先生の「遠野物語」(明治43年刊)に、遠野以外唯一収録されている「大海嘯」の、海辺の上記のお話を絵本にして描き、手作り絵本にしてみた。被災者の或る方に、恐る恐るそれをお見せしたところ、残酷だとか、これで吹っ切れるかもとか、様々にご丁寧なご批判を戴いたものである。でもこのお話は、明治時代のものだからと言われ、少々受け入れてもらったようでもある。柳田先生が聞き書きをした佐々木喜善さんは、後日といっても昭和5年、ご自身の著書(縁女綺聞)に、あっさり書かれた先生の記事に異論を唱えるかのように、妻たきのが本当は生きていたのではないかとして、たきのに向かって、福二から、子供に対する存念はないのかとか、罵詈雑言を浴びせている。実話であったので、そう簡単に片づけられなかったのではなかろうか。佐々木氏の縁者である福二へのオマージュでもあったのだろうが、実は福二の孫にあたるお婆ちゃんが80歳を過ぎてから、今回の大海嘯によって飲み込まれたまま、未だに行方不明なのである。海人というは凝り性もなく(失礼ですが)、忘れたころに再び海辺に家を構えてしまうようである。海に生きるためにはそうならざるをえないようだが、どうかどうかご自重願いたいものだと心底願ってやみませぬ。当日は再び三陸の被災地に行き、流し灯籠祭りにでも、是非参加させて戴きたいものである。御供養しても、し切れるものではないことを知っていながら。

 又その日の、24時間内に誕生されたお子たちは、被災地全部で、凡そ110人いらっしゃるという。死者・行方不明者の総数は18,483人で、全壊・もしくは半壊家屋は40万以上の未曽有の災害のなか、たったそれだけの赤ちゃんかも知れない誕生なのだが、奇跡の誕生は、縦の時間軸にとって大きな存在となるであろう。皆さまとともに、こころから、満4歳の誕生日を寿ぎたいものである。