硯水亭歳時記

千年前の日本 千年後の日本 つなぐのはあなた

 風の野人 白洲次郎

2007年06月26日 | エッセイ

 

 

 

風の野人・白洲次郎

 

 

 

白洲次郎は テレビでも放送になったので 割合ご存知の方が多いだろう

我が主人が尊敬してやまなかった方で 白洲次郎とは最晩年に逢っている

堂々たる体格で 綺麗な白髪の紳士 風格とはこう言うことかと教えられた

白洲と逢った主人は数日の間 しばらく興奮を抑え切れなかった

 

無論『従順ならざる唯一の日本人』とGHQが評価したり

サンフランシスコ講和条約の際 当時の吉田茂が読み上げるステートメントを

初め英語の草案だったが 何を馬鹿なと一喝し ひと晩で長い巻紙の日本語に

書き改めた経緯も知っているし 吉田茂が戦争と同時に英国大使を辞職したのも

白洲次郎は知っていて 妻正子と共に 我は百姓なりと言って鶴川に引越し

あばら家を購入し そこで戦時中は農家を営んだ白洲も又 戦争を馬鹿なことを

はっきりと反対して 吉田茂などと徒党を組んでいた 戦後吉田に請われ

閣外での大活躍も主人は知っていた 憲法草案の火の出るような裂ぱくの交渉も

堕落の象徴のような商工省を 省横断的に新たに通商産業省に一人踏ん張って

立ち上げたのも よく知っている 影の男・ラスプーチンとか 散々悪口を書かれ

或る時ふぅっと風の如く政治の世界から身を引き 東北電力の会長になったことも

彼の生き様の殆どを主人は知っていた だが主人にはたった一つ白洲を

敬愛した理由がある それは豪放磊落な幾多の業績ではなかった

 

白洲次郎の生き方そのものを 主人は何時も凝視していた

それは白洲がケンブリッジ大学に留学していた頃の様々な事情や友人関係や

愛車ヴィンテージ・ベントレーに颯爽と乗って欧州各国への旅行のこともそうだが

所謂カントリー・ジェントルマンと言う生き方に啓蒙されることが多かったからだ

直訳すれば田舎紳士になるだろうが 決してそう言う意味ではない

都市の中心部に住まないで 山奥にもあらず ちょいと離れた里山に居を構え

いざ鎌倉と言う場面で出掛けたり 少々離れた位置から 魑魅魍魎の政治の

世界をじっと凝視し いつでもきちんと批判的にモノを言える紳士のことで

ケンブリッジ時代の親友ロビンの影響が極めて強かったからであった

ロビンはストラッドフォード伯爵の称号を持っていながら 派手な貴族ではなかった

地味なタイプで いつも控え目で 白洲は本当のスノビズムを彼に学んだ

そのスノビズムこそ 白洲が生涯通したことであり 

主人が敬愛した最も大きな理由でもあった

 

スノビズム=スノッブは直訳すれば 俗物と言うことだが 

当時ロビンや白洲達のケンブリッジ大学で流行していたスノッブと言う意味は 

「大学に関係なく大学に自由に出入りする」と言う意味で 靴屋と言う隠語で

貴賎を離れた中に 一本の筋金が通った教養と言うこと指している事でもあった

主人はカントリー・ジェントルマンと言う言葉と響きが大好きであった

人に目立つことは大嫌いで 密かにちゃんとしたことをやるタイプだった

 

白洲を卑近な例で譬えれば 小泉内閣当時の竹中平蔵のような立場で 

それをもっと巨大にして自由裁量で官僚を 各省を横断的に牛耳っていた白洲は 

汲々とした狭量な料簡などでは全くなかった ロビンと生涯に亘る友情関係は

カントリー・ジェントルマンの格好良さと気風の良さを自由に発揮し 国士であった

武士道にも通じる筋目の通ったダンディな男だったのだ

 

主人と白洲は軽井沢ゴルフ倶楽部で逢って 楽しく談笑している

理事長だった白洲は 口煩く様々な逸話を残しているが その口癖が

今日の日本人のゴルフ・マナーを創り上げたと言っても過言ではない

煙草の吸殻を捨てる者があれば 烈火の如く怒り 

誰が自分の大切な庭に吸殻を捨てるのかとガミガミ 

相手が例え誰であろうと 歴代総理は怒鳴られた口であったろう

 

更に白洲は政治・経済の世界を堂々と歩いた人だったにも関わらず

意外にそれらの世界には友人が少なく いつも楽しく談笑出来る方々は

文人墨客が多かったのも 驚きの一つであろう

肩書きなどに納まるような人物では決してなかった

 

現在鶴川の自宅跡は一般公開されている 

蔵と模の間に建てたと言う意味で

白洲の自宅は「無愛想」を引っ掛け『武相荘』と名付けられ 素敵な空間である

白洲次郎の妻は言わずもがな白洲正子で 韋駄天のお正とも呼ばれ

生前何を書くにも 実証を第一にモノ書きに徹した

白洲正子のことは 主人は余り口に出すことはなかったが 主人の趣味と

正子は殆ど近かった所為ではなかろうか そして白洲次郎は妻をこう言う

「ウチの婆さんは偉い 手を抜かずに現地取材をしてから書くから」と

そしていい夫婦でいられるコツはと聞かれ「それは一緒にいないことだよ」と

武相荘には 白洲次郎の遺言書が展示されてある

「葬式無用 戒名不用」 ただそれだけ

 

更に驚くことに 今回から 愛娘の桂子(かつらこ)さん選定によって

白洲賞を始められたことだ 第一回の受賞者は 京都・美山の屋根葺き職人・

中野誠氏である 今後の文化振興の一役になればと 桂子さん頑張れ!

 

 

http://www.buaiso.com/ 武相荘公式ホームページ

 



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11 コメント

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カッコイイひと (夕ひばり)
2007-06-26 17:29:42
こんにちは♪
朝は今にも雨が降りそうでしたが、こちらでは先程から薄日が差してきました。
「お母さん、白洲次郎って知ってる?」
半年くらい前だったでしょうか、次女が学校から帰るなり訊いてきました。
歴史の授業で彼に関するTV番組を見たのだそうです。
「カッコイイひとね!」ですって。もちろん、単にハンサムという意味ではありませんよ(笑) 高校生だった彼女なりに掴んだ白洲さんの生き方だと思います。

私もその番組を見たことがあり、白洲次郎さんについて知っていることといえばその程度ですが、風貌だけでもどんなに気骨があり素敵な方なのか感じられるような気がします。

奥様の正子さん。その著書『明恵上人』がなかったら、私は少し今とは違っていたかも・・・
間接的に白洲次郎さんの影響を受けているのかもしれませんね。

(硯水亭さんのレシピをアレンジして、梅酒仕込みましたよ!)
かくれ里に生命を。 (道草)
2007-06-26 17:56:31
三田市の心月寺にある白洲次郎の墓碑には、不動明王が彫られているそうです。妻の正子のデザインによるとのことで、正に火焔を背負い不動の使者としての生涯を貫いた当人のイメージはかくやと思われます。その彼女の墓碑は十一面観音とのこと。衆生からの苦悩を救う菩薩の象徴でしょうか。それにしても、「葬式無用、戒名不用」の遺言は生かされたのか、通夜は遺族だけが集まって酒盛をしたとのエピソードを聞きますが。
「白洲賞」が制定されたことを私は知りませんでした。その第一回受賞が美山町の茅葺き職人とは、何か象徴的な出来事と、主宰者の中々のユニークな視点に感服します。中野氏は高校卆業後の農協勤務を経て職人へ転向し、今では大卒(建築科履修者も)ばかり5人の弟子を抱えているとのこと。今から半世紀ばかり昔の美山には、1800棟にも及ぶ茅葺きの家がありました。京北町でもそれに劣らないだけの戸数がありました。それが、現在の京北では萱葺き屋根の家は壊滅状態になり、美山でも25棟ばかりが残っているに過ぎません。それでも日本一の茅葺き集落ではある、と云われています。茅葺き屋根は30年から50年に一度は葺き替えが必要で、その費用は数百万円にも達するとのことです。個人の住宅では恐らく維持は不可能でしょう。以前は「てんごり」と呼ぶ制度があって、これは、屋根葺きの際には近隣の人達がその付き合い度合いによって、材料を持ち寄り手伝う相互扶助の仕組みです。私も十数名の大人建ちが寄り合って屋根を葺いている光景をよく眼にしました。高齢化と人口減少でそんな制度は廃れてしまった今の時代に、中野氏のような若い人の集団(確か、有限会社のはずです)が生まれたのは心強いことなのは事実です。
萱葺き屋根の家は夏は涼しく冬は寒い住居でした。暖房は囲炉裏だけでしたから、薪の火熱は梁から天上裏の煙出しを通じて外へ逃げて行きます。夜は寒くて、布団へ潜って寝るしかありませんでした。現在の住まいは天井板が張られ保温もしっかりしているので、冬でも問題はありません。むしろ萱材の屋根は、断熱や防音効果に勝れ湿度を快適に調節してくれます。萱葺きの家は生花が長持ちする、などと聞いたことがあります。その屋根職人か今回の白洲賞を受賞したのは、「武相荘」の屋根を葺いた縁もあるのでしよう。しかしまた、「とかく人生は結果より、そこに着くまでの道中の方が魅力的である」(『かくれ里』白洲正子)と、山里のあくまで美しい自然、人知れぬままそれでも今に息づく伝承、ともすれば悲哀に満ちた過去の歴史、それでこそ現在になお残るの美の芳醇などに触れた、白洲正子の精神が生かされたのではないしょうか。
過疎に悩むかくれ里にあって、美山町はかろうじて命脈を保っています。片や、かつては同じ北桑田郡であった京北町は衰退の一途にあります。白洲正子が美山町を訪れたかどうかは知りません。しかし、一方の京北町を訪ねたのは紛れもない事実です。「山門を入った所が本堂で、ここに有名な「車返し」の名木がある。ひと重と八重の入り交った品種で、御水尾天皇が、あまりの美しさに車を戻してごらんになった所から「車返し」または「み車返し」とも呼ばれる。…略…庭前の、しだれ桜は満開であった。その隣にもう一本、昔京都の御所から移されたという「左近の桜」があり、…略…この三本の桜で、常照皇寺の庭は成り立っているのである。」(『かくれ里』同)。美山町の萱葺き屋根に並び立つ、桜山が京北町に生れればそれこそ望外の喜びとなるでしょう。
修正 (道草②)
2007-06-26 18:14:24
美山でも25棟←250棟の誤りです。訂正してください。
白洲賞 (ただ今カフェで読書中)
2007-06-27 11:35:50
白洲賞のことは全く知らず、その第一回の受賞者が 京都・美山の屋根葺き職人の方だということも初めて知りました。美山町でかやぶき屋根の保存に尽力された方(故人となってしまいましたが)は、縁戚関係にあり、受賞者の方の苗字も同じなので、もしかするとどこかでつながりのある方なのかも、と思い、大変嬉しく思いました。といっても、もう二世代も前のつながりなのですけれど。 
美山には、イギリスのかやぶき屋根の職人さんが葺きかえたという民家もあり、それはまた、とてもヨーロッパ的な風情です。文化の懐の深い土地なのでしょう。
素晴らしいお嬢様! (硯水亭)
2007-06-27 11:46:32
      夕ひばりさま

 なかなかしっかりされたお嬢様ですねぇ。感心致しました。お嬢様のような方からカックいいって言われたら、白洲次郎もよっぽど嬉しがるでしょうね。無骨な方ですが、一本筋目がしっかり通っていて、こんな方からなら、一度思い切り怒鳴られてみたいと思いますねぇ。

 今や日本国中、やわな紳士(?)が多くなって、気骨のある方はうんと少なくなっていますね。淋しいかぎりです。白洲次郎は、全員がオドオドしていたGHQに向かって堂々と自己主張したのですから驚きです。しかも「あなたの英語は上手だね」と言われると、「君ももっと勉強すれば上手になるよ」と反論するんですから痛快です。

 晩年には三宅一生のファッション・ショーに出たこともあって、大変なお洒落だったのですが、決して贅沢ではなかったですね。英国紳士はわざわざ新しい靴を新調して、靴屋に履かせるだけ履かせて、裏皮をもう一度張り替えてから、納品するとか。スウィードのジャケットなんか、着古してボロボロにほつれて来たのを平気で着るとか、もっともなめし皮で肘宛をして着るのですが、カントリー・ジェントルマンとしての誇りがあったのでしょう。最も親しい友人のロビンはそう言うタイプでしたから。成金を最も嫌っていたのでしょう。質実剛健を旨にしていたと思います。

 芯のある男、お嬢様がそう言う印象を持たれて御覧になられたら、大正解で、男にとって優しさとは本当の芯があり、その強さのある方を言うのでしょうね。正子との関係は決して喧嘩もしないような仲ではありませんでした。殆ど断りもなしに正子は購入するのですが、自分で家具をも作ってしまう為、正子は家具だけは断って一緒に購入に出掛けたそうです。店先で夫婦は英会話。さぁてどうすると言うことでしょうが、店のものに遠慮なく二人は議論をしたのでしょう。

 もし一緒になれなかったら死んでやるぅと激しい口調で両親を説得して白洲次郎と結婚した正子でした。正子の交友関係も白洲次郎と重なる部分があって、一見仲悪そうな二人でも、夫唱婦随だったのでしょう。

 正子の『明恵上人』は名作ですね。梅酒を私のレシピでお作りになられたとか、大変に痛み入ります。
武士道とカントリー・ジェントルマン (硯水亭)
2007-06-27 13:15:09
      道草先生

 ただ今帰りました。ちょっと伊勢まで出掛けていましたので、お返事が遅れて大変失礼を致しました。会社で一服しながらこれを書いています。御免なさい!

 三田藩主九鬼家の菩提寺である心月院は、白洲の父文平が三田藩の流れであり、幼少から海外に出す心根やブガッティやヴィンテージ・ベントレーを留学中の買い与えたり、文平も又相当な方でした。やはり武士の気骨だったのでしょう。元々藩校の儒学者の出で、しかも九鬼一族にも相当に気骨があって、よく『九鬼奔流』と言う言葉があるくらいで、儒学者には特に優遇をし、蘭学や様々な学問を、余所で習得させたようです。白洲退蔵まで儒学者の立場であったとか伺っております。エリート中のエリート一族の白洲家の伝統が白洲次郎をして、類稀な血脈が連綿として流れ、あのような大活躍をさせたのでしょう。他の三田藩の士族達も明治のご維新以降素晴らしい大活躍をされております。

 白洲は軽重はあるものの凡そ60社以上もの要職についていました。晩年自身が理事長として最も頑張ったのは軽井沢ゴルフ倶楽部でしたが、面倒なことは大嫌いな性格だったのでしょうし、白洲の生き方に沿ぐわないと本人が思い込み、葬式無用になったのでしょう。少人数で、ほのぼのとした別れの宴だったと聞いております。

 妻正子は正子で、自分の確たる生き方を選びました。海外で暮らした二人ですが、正子は海外生活で初めて日本の文化を知ったと何処かに記してあるくらいです。樺山伯爵の孫だったのですが、能に目覚め一所懸命に稽古をしたり、骨董の類に新しいイノチを吹き込んだり、正子の生き方は又別な折に書かせて戴きたいものですが、やはり相当な気骨があったようです。お互いに芯のある生活をし、邪魔せずされず、奇妙にもこれからの新しい夫婦の像を観じさせてくれます。更に二人とも現場主義だったことも我々に勇気を与えて下さっています。私達が晴れて夫婦になったなら、かくのごとくありたいものだと常々思っております。

 子供が三人恵まれたのですが、中でも桂子さんは白洲から特に可愛がられたようです。その結婚相手との遭遇で可笑しい逸話が残っています。「俺はあんたのようなタイプの男は大嫌いだ」と言ってその場からさっさと逃げてしまったとか。それはそれは大変だったようです。その桂子さんが現在の武相荘を運営していらっしゃいます。古くなったお宅の維持補修は大変なものがあり、萱葺き屋根の武相荘は、今回美山の中野さんが葺き替えをしたのでしたが、それ以前から正子が地方地方に『韋駄天お正』と呼ばれたように、必ず実証検分をしてから書いていたようで、そのご縁もあったのです。大勢の人々がこの賞の存在を知り、多くの憧れを持てるようになれば素晴らしいことではないかと存じております。

 美山は奥が深いですねぇ。隠れ里にも花が咲き鳥が歌うのでしょう。道草先生の美山に対する愛惜の念は益々深まることでしょうね。

 「てんごり」と言う制度はあの飛騨高山にもありますね。みんなで行って手伝う習慣は萱葺き屋根や藁葺き屋根の多いところでは自然発生的に出来ているのでしょうね。一度高山の屋根葺きにボランティアで行こうとしたことがありますが、多くの労力が大切な文化の担い手から維持され保存されるとなれば、私達も黙っていられないような気がして来ます。美山・花背は衰退の一方でしょうが、再び時代は確実に奥深き里に着目始めています。我々の櫻山もきっとそうなるはずだと確信しています。先生に是非お見せしたいです。だからきっときっと長生きして下さい。いいガソリンを補充しつつ!
隠れ里から花開き (硯水亭)
2007-06-27 13:41:58
     早川さま

 凄い!白洲賞受賞の中野さんと、多分どこかで繋がりがあるのでしょうね。素晴らしいことです。美山は隠れ里の印象ですが、東京にいる私たちにとってはちっとも隠れ里ではありません。憧れの土地です。私たちの櫻山計画では最も大切な場所の一つになっております。肥沃な土地柄で、五穀豊穣の土地です。寒くて大変で嫌になると土地の方々が言われますが、何々ちっとも嫌になる顔をしておりませぬ。

 そうそう常照皇寺は昔から、一切懇切丁寧な御寺ではありません。一度櫻の時季にお電話申し上げたところ、えらい叱られました。花は実際自分で観に来いと飽くまでもすげないのです。白洲正子も書いておりますが、凄い剣幕で叱られるのですから堪ったものではありませぬ。簡便に何事もするなよと仰られているような気がして来て、納得するようにしております。ですからそれ以来凡九重櫻や御車返しの櫻の検討を付ける場合は、仁和寺の御室櫻が満開かどうかで判断することにしておりますが、それはどうもほぼ当たっているように思われます。

 このBlogにいつも変わりなくおいで戴いている道草先生は幼少の頃周山に疎開していたこともあり、『冬の実』と言う随筆には、事細かく周辺のことが書かれてありまして、いつも勉強させて戴いております。又実際に美山の田舎暮らしをされているMfujinoさんも当Blogのカスタムリストに掲載して御座いますが、惜しみもなく美山の魅力をお伝え戴いております。

 私は早川さまに是非お伝えしたいお店が御座います。『登喜和』と言うお肉屋さんですが、店舗も御座いまして、そこのすき焼きは絶品で安いです。お薦めです。『三島亭』に決して負けていません。『つるや』と言い『登喜和』と言い、やはり奥深いですねぇ。それと料亭『菊乃井』さんでワインを頼みますと、必ず丹波ワインが出て来ます。余り美味しいので、ブルゴーニュ産ですかと、随分前に尋ねたことがありました。そしたら何と丹波ワインで、京都のコンビニでも売られているワインだったのです。凄く美味しいワインで、私は大いに気に入っています。
京北町と美山町。 (道草)
2007-06-27 15:11:22
地理的な輻輳が見られますので訂正させて戴きます。京北町と美山町とは行政区が異なる町です。かつては、京都府北桑田郡京北町ならびに同美山町として、同一の行政区内に2町が存在していました(村であった頃の説明は省きます)。
平成17年4月に京北町は京都市右京区へ、美山町は京都府南丹市へそれぞれ袂を分かって統合されました(その経緯は賛否両論あって未だに尾を引いている部分がありますが、これも省略します)。
それ以降全ての機関が別行政に別れ、その中で地理的観点或いは歴史的経緯から現在でも両町共通の存在物は、北桑田高校・京北病院・北桑時報(ほくそうじほう=大正7年創刊の郷土誌)・北桑人会(北桑出身の京都市内及び近郊在住者の親睦会)くらいなものです。
両町は地理的に隣接(深見峠が町境)していて気候風土も似通っており、風俗・風習なども共通点の多いのは当然ながら、また、若干ながら異質な点のあるのも事実です。京北町は大堰川~太平洋、美山町は由良川~日本海、の微妙な差異の齎す所以かも知れません。
双方に於いて過疎の進むのはご多分に漏れませんが、美山町は早くから「萱葺きの里」として伝統を維持し、加えて観光客誘致にも尽力して来ました。片や京北町には常照皇寺は存在するものの、その程度に負んぶして何らかの(!)生き延びる努力をもせず、今や衰退の一途にあります。その原因は多々ありますが現実的には、京北町と美山町はその活力度合に、ひいては、その将来性に於いても格段の落差があると申しても過言ではありません。
私がなぜ、硯水亭さんにかくの如き説明をするのかと申しますれば、私は京北町の出身ですから、やはり京北町に愛着があります。硯水亭さんが畢生のライフワークとされている「櫻山計画」の遂行に当たり、京都北山方面をも視野に有りと理解しております。しからば、京北町と美山町とを明確に峻別して戴くことにより、もし出来得ますればそのターゲットを京北町に定めて戴くことによって、我が古里を活性させるにご尽力を賜りたく、願うや切であるからこそなのです。
よく分かりました (硯水亭)
2007-06-27 18:18:52
      道草先生

 言え、実は私もモヤモヤした状態だったのです。先生のご説明ですっかり理解出来ました。確かに仰っておられることがよ~~く理解出来ましたのです。そろそろ本格的に調べたいなぁと思っていた矢先でしたから、大変な参考になりました。有難う御座いました。現在軸足は間違いなく美山の方ですが、調査員から上がって来ているものの中に京北町のも御座います。但し京北町は行政自身で凄い取り組みなので、我々がお邪魔する隙間はないのかなぁと、左様なことを案じていたのです。更に未だに現地の方々と話し合いの場を一度も設けておりません。京都と聞くだけで畏れ多いからです。但し主人の家系はすべて京都ですし、お身内も圧倒的に京都に在住なさっていらっしゃいますから、少しは入れて戴けるのかなと安易に考えております。名を名乗れば直ぐご理解戴けると信じていますが、主人はそう言う過去の遺物にはアテにするなとのお教えでしたから、彼自身の出自や歴代の最初の御方の名前も伏せてあります。

 私達は大型スーパーや量販店ではありません。自然破壊をしに行くのでもありません。既存の樹木には一切手を掛けないことが条件です。更に地元の方々と共存が原則です。この基本原則のプリンシパルは今後どのようなことがあっても変えないでしょう。自然破壊と対照的に進む計画ですから、きっとご理解戴けるものと確信しております。

 どこでもコア採取が欠かせません。ゴルフ場は眞に不具合で、除草剤の影響が心配で、それこそワンサカある売り物件には目が行きません。土壌検査も重要な要素です。アルカリ性か酸性か、それによっても選べる櫻が決まって来ます。その程度もありますから。

 先生にお伺いしたいのですが、例えば津軽と南部のように感情的な反目はないのでしょうか。歴史的に永い感情的な反目は少々辛いかも知れません。でもあのエリアでしたら、そう広くはないので全部纏めて提案させて戴くことも可能なのですが、やはり具体的に動かないと分からないことなのでしょうね。

 Mfujinoさまや先生からもっと具体的にお話をお伺いしたいですね。私達は緒についたばかりですから、逆に慎重に行きたいのです。貴重なご意見を本当に有難う御座いました。先生は顧問職です!
広範囲な視点で。 (道草)
2007-06-27 18:33:44
京都市への合併は時の京北町長がかなり独断専行で推進した経緯があり、美山町の為政者にあっては少しは凝(しこり)が残っているやも知れません。ただ、「櫻山計画」は誰が何と言いましても、実に見事な快挙として、住民には大歓迎されることと確信致します。従いまして、旧北桑田郡(京北町と美山町)を跨って展開することに於いては、何ら問題はないと思います。是非、視点をその方向へ向けて戴きますことを、切望して止みません。

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