Une petite esquisse

日々の雑事の中で考えたこと、感じたことを徒然に書き綴ります。

永仁の壺

2011年08月23日 | アート全般
 1943年、愛知県の道路改修工事現場で古瀬戸の壺が発見される、「永仁2年」の銘が入っていたので、陶磁史上の大発見として大きな話題となる。
 1946年、東京美術倶楽部で展示され、加藤唐九郎がこの壺の解説を行い、自ら出版した『陶器大辞典』にカラー図版で紹介する。
 1948年に文部技官の小山富士夫が重要文化財に指定するよう提案するが、銘文に疑問があるとして見送られる。
 1959年、小山は再び重文指定を求め、この時は何ら議論されることなく重文に指定される。しかし、名古屋のデパートで展示された頃から、地元では偽物ではないかと噂され、唐九郎が疑惑の人物とされる。彼は頑なに「偽物というのはデッチあげだ」と否定する。結局、唐九郎が自作であると表明し、重文指定を解除される。これが事件の概要である。
 唐九郎が言っているように本物があるからニセモノがある、永仁の壺は本物がないからニセモノではない。彼の言葉を借りれば、何か具体的な作品を真似たのではなく、存在しない永仁の壺をデッチ上げしたので、贋作と言うより捏造事件と言うべきだろう。
 唐九郎も口をつぐんだまま亡くなったので真相は謎のままである。
村松友視氏は彼の著作の中で、唐九郎はこのような事件を起こすことで、既存の陶芸界の権力構造に反撥した。陶芸を広く世間に示し、陶芸の価値を高めた、と彼の行為を擁護している。しかし、私はこの考えに反対である。1925年に松留窯と言う、瀬戸の古窯の発掘の嘘と、偽装工作らしき素振り、自分が発掘したと称し、その陶片を、根津美術館に持ち込み、金品を巻き上げている。自分が創作した作品であるにも関わらず、鎌倉時代末期の古陶と解説をおこない、『陶芸大辞典』に図版まで載せている。そして、唐九郎は一躍疑惑の人としてクローズアップされ有名になる。彼は永仁の壺をデッチ上げ、スキャンダルを起こす事で、名人扱いされ、陶芸界の権威者となった。
 松留窯の陶片が重要文化財に指定する決定的な判断材料になった事を考えると、実に綿密に計算され、長期的に計画された、大がかりな歴史の捏造事件と捉えることも出来る。
旧石器捏造事件を引き起こした、藤村新一の幼稚な手法と比較すれば、余りにも手の込んだ見事さである。唐九郎は本物が存在しないから、永仁の壺は自分が作った創作だと主張するが、歴史を歪曲する行為はただ単なる偽作を作るより、もっと罪が重い。