ヨミドクター
2015年11月5日
闘病記
(1)「生存率」の衝撃
自分の生存率は、自分が思ったほど高くはありませんでした。
「5年間の長期生存の確率は、40~50%くらい。
このデータは骨髄移植、さい帯血移植、いずれの移植でもほとんど変わりません」
縦軸が生存率、横軸が移植日からの年数のグラフを示しながら、
担当医師が説明をしてくれました。
2015年2月5日、神奈川県にある虎の門病院分院の一室。
血液のがんといわれる急性骨髄性白血病を再発した私に
、医師がこれからの診療内容を説明して同意を得る
「インフォームド・コンセント」が行われていました。
私の妻も同席していました。
紙に手書きで書かれたグラフは、急性骨髄性白血病で移植治療を
受けた患者の5年間の生存率を示すものでした。
ひらがなの「し」の字を平たくしたような曲線は、
移植後3年間は右肩下がりを続け、
3年目以後は、縦軸の「40~50%」
のあたりでほぼ横ばいとなっていました。
「3年間生きれば何とかなるのか。しかし、長いな」。
私は心の中でため息をつきました。
インフォームド・コンセントは、患者にとっては質問や
要望を医師に伝える貴重な機会のはずですが、
私は、医師が説明する内容を頭に入れるのがやっとで、
質問もろくにできませんでした。
さい帯血移植を勧める医師に「もう少し考えさせて下さい」
と答えるのが精いっぱいでした。
私は13年6月末に急性骨髄性白血病を発病。
4か月以上にわたって抗がん剤治療(化学療法)を受け、
同年11月に退院しました。移植は行わずに済みました。
しかし、約1年2か月を経て白血病は再発。
インフォームド・コンセントは、再発を告知された翌日で、
私はまだそのショックをかなり引きずっていました。
そのうえ、死亡する確率が生き続ける確率よりも高いという
厳しい現実をグラフで示され、意気消沈し、
正直に言えば動揺もしていました。
白血病が再発し、移植治療を受けるしか助かる道はない。
理屈では分かっていても、簡単に受け入れることはできませんでした。
逆に、「移植といっても、生きるか死ぬかの一種の『賭け』
のようなものじゃないか」
「生存率をいきなり示すなんてショックが強すぎる。
病気と闘う気力が失うせる」など、
いら立ちを何かにぶつけたい心境でした。
妻が帰り、一人になった私は病室に戻って目をつぶり、
冷静に考えるよう努めました。
「自然の摂理に任せていれば早々に死ぬ身だ。
それに、『あなたの命はあと何か月』と余命宣告を受けるよりは、
ずっとましだろう」と考え直すと、少し心が落ち着いてきました。
「勝算ある」友人の言葉に励まされ…決意固める
実際、私には、感傷に浸っている時間があまりありませんでした。
私の病気は「急性」とある通り、病状が急速に進行します。
骨髄移植、さい帯血移植のいずれにするか、
自分で選択して医師に伝え、造血幹細胞
(白血球、赤血球など全ての血液細胞のもとになる細胞)
を提供してくれるドナー(提供者)
を早急に確保しなければならなかったのです。
納得して決断するには、もっと情報が必要だと感じた私は、
高校時代の友人にO君という血液内科医が福岡にいることを思い出し、
電話して自分の病状を伝え、アドバイスを求めました。
O君は突然でしかも久しぶりの連絡にもかかわらず、
長い時間、私の質問に丁寧に答えてくれました。
私も高校の同窓仲間ということで、遠慮なく疑問をぶつけることができました。
「本当に移植しかもう手段はないのか」と私は尋ねました。
「移植はハイリスク・ハイリターンの治療だ。
僕たちは40歳代も終盤。定年までのあと10年余をしっかり働くためには、
これまで君が経験したこともない、
本当につらい治療になるが、移植は避けて通れない」
O君は、私の入院先がさい帯血移植について、
(本院と分院あわせて)日本有数の移植件数と実績を誇る病院
であることを指摘した上で、「医療スタッフも移植治療に精通しているはずだ。
気休めを言うつもりはないが、勝算は十分にあると思う」と言ってくれました。
O君の説明に強く励まされ、私はさい帯血移植治療を受ける決
意を固めました(さい帯血を選んださらに詳しい理由は後述します)。
O君はその後も、メールで私の質問に答えたり、
アドバイスをしてくれたり、友人として、医師として私を強力に
支えてくれました。専門医の友人にいつでもメールで相談ができる。
こんなに恵まれた患者はそうはいないはずです。
幸運に感謝しながらも、死の不安と恐怖は、何度も私の心を暗く覆いました。
必ず生き抜いてみせる……。
当時は、とてもそんな勇ましい気持ちにはなれませんでした。
「何とか死なないように、がんばるしかない」
そう自分に言い聞かせながら、私の闘病生活が始まりました。
◇
闘病体験、伝えるべきだ…一記者として
ほぼ毎日つけていた日記
私は2013年と15年、急性骨髄性白血病を患い、
いずれも長期の入院生活を余儀なくされました。
新聞記者として政治取材の現場を離れてデスクとなり、
記事を最終チェックする責任者としての紙面作り、
コラムの執筆など、現場とはまた違った仕事の醍醐だいご味を
感じていた時期でした。
その貴重な時間が一度ならず二度も、病魔によって奪われました。
入院と治療の過程は原稿で詳しく説明しますが、思
い出すだけで気持ちが重く、暗くなります。
個人的な感情論でいえば、一日も早く、きれいさっぱり、
跡形もなく忘れてしまいたい。そんなつらい記憶です。
ただ、私は入院中、同じ急性骨髄性白血病の闘病記、
加納朋子さん(作家)の「無菌病棟より愛をこめて」(
文春文庫)を読み、大いに参考にさせていただきました。
抗がん剤でどんな反応が出るのか、苦しい時、
どんな食べ物なら口に入るのか、
カテーテルを首の静脈に入れる時、痛くないのか、
移植後、どのくらいで退院できるのか、などなど。
患者が同じ病気を経験した人から学ぶことはたくさんあると実感しました。
全国の医療現場では、がんを経験した人が、
闘病中のがん患者に体験談を伝えたり、
悩みを聞いたりする「ピアサポート」
(仲間による支援)活動が広がっていると聞いています。
私も記憶を消し去るのではなく、記者の端くれとして、
病苦を肌で知る移植経験者として、
闘病体験を記録し、伝えるべきだと考えるようになりました。
幸い、日記は入院中、ほぼ毎日つけていました。
記者の性さがなのかもしれません。
私なりの「ピアサポート」活動として書いたこの闘病記が、
病気と闘う患者や家族、関係者の一助になればと願っています。
元の記事を読む
https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20151105-
OYTEW55414/#csidxb746cdc247e7b4d9fe4c556f1050c34
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