京都はすでに冬の気配であった。冷たい雨が朝からしとしと降りつけていた。鴨川の川面を吹き抜ける風が橋をわたる人の頬を凍らせた。
今しがた、雨装束で四条大橋を渡って行く黒い一団があった。橋の途中まで来ると、何を思ったか、彼らは雨装束を川に投げ捨てた。皆一様に押し黙っているが、そこには鋭い殺気が漂っていた。
慶応3年11月15日(新暦12月10日)の夜、今の時刻でいえば八時過ぎのことである。四条通りにはまだ、雨中とはいえ人影が多く行き交っていた。
黒い一団は、橋をわたり終えると、四条通りを進み、河原町通りを北に歩いた。そして、蛸薬師下ルところにある醤油商近江屋の前でぴたりと止まった。
主立ちと思われる男がなにごとか指図すると、あらかじめ決めてあったのであろう、三つの黒い影が客を装う風にして店の中に押し入った。
店の中に押し入ると、ひとりが「十津川郷士の者でござる。才谷先生はご在宅か」と、下僕である相撲取り上がりの藤吉に名札を渡し、面会を求めた。
藤吉はその名札を受け取り二階に上がり、取り次ぎを済ませたあと、再びふたりの男を先導して階段を上って行った。
その時である。いきなり一刀が藤吉の背後から振り下ろされたのである。藤吉はもんどりうってその場に昏倒した。すると、二階の部屋の主が、叱りつけるような低い声で、「ほたえな」と叫んだ。それで二階の部屋に人がいることが確認された。
二人の男が階段を忍び上ってゆく。狭い廊下をすり足で進み、そのうちのひとりが一番奥の部屋の障子をそっと開けた。
男たちはぬっと部屋に押し入るや否や、「坂本さん」と声をかけた。薄暗い部屋の中には二人の男が火鉢を囲んで話し込んでいた。その声に応えるように、そのうちのひとりが、行灯を手にとって男たちに振り向けた。それで、その人物が坂本であることが知れた。
賊は部屋の中のどちらが坂本であるかを確かめようとしたのであった。あくまで坂本という人物が目的であることが知れる。
坂本は初対面のことでもあり、身元を確かめようとしたその時である。「こなくそ」という鋭い怒声を浴びせて、賊のひとりの小太刀が力強く横ざまに払われた。寸分の狂いもない太刀さばきだった。
「こなくそ」という言葉は、伊予(愛媛)松山地方の方言で「こん畜生」を意味した。のちにこの言葉が下手人探索の中でいろいろ憶測されることになった。しかし、この言葉を聞いたのは瀕死の状態であった中岡であるので、不確かな部分も感じられる。
不意の闖入であったために部屋にいた二人はたちまち斬り倒された。坂本は前頭部を左から右に深く斬りつけられ、中岡は後頭部を斬りつけられ昏倒した。
坂本は、いったんは前頭部を斬られたが、身を退けて、床の間に置いてあった太刀を取ろうと、後ろ向きになった。すると今度は後ろから袈裟懸けに二太刀目を浴びた。
坂本はそれにも屈せず、鞘のまま相手の刀を受け止めようとしたが、三太刀目を浴びた。今度は前額を右から左に、脳漿が飛び出るほどになで斬りにされたのである。坂本は苦痛に満ちた、奇妙な声を発して意識を失った。
部屋の中はまたもとの静かさにもどっていた。
坂本と中岡を沈黙させると、刺客のひとりは謡曲を謡いながら去っていった。これは虫の息の中での中岡の証言である。
賊が去ってからほどなくして、坂本と中岡の二人は意識を取り戻した。坂本は気丈にもよろめきながら行灯を提げ階下の人を呼んだ。が、家の中は静まりかえっていて、応答する者はいなかった。中岡は這いながら隣の家の屋根に逃げのびた。このあと坂本は絶命。中岡は深手ながら意識はあったが、二日後に命を落とした。
表通りをお陰まいりの群衆が「ええじゃないか」を唱えながら通り過ぎて行った。刺客たちの黒い影はその渦にまぎれて消えていった。大政が奉還されてから一カ月余りたった後の出来事だった。
こうして維新の立役者があっけなくこの世を去ったのである。坂本龍馬33歳、中岡慎太郎31歳。皮肉なことに龍馬はこの日が誕生日であった。
二人の暗殺はさまざまな憶測を呼んだ。
河原町の隠れ家に龍馬がいることをどうして刺客が知り得たのか、という疑問が取り沙汰された。内情を知る者の密通があったのではないか、とも噂された。
当時、龍馬は、市内に幾つかの隠れ家ともいうべき場所を確保していた。いずれも市中のど真ん中にあり、古巣の土佐藩邸にも近かった。時と場合に応じて龍馬は隠れ家を転々としていた。それだけ警戒をしていたのである。近江屋に移るまでは、三条下ル一筋目東入ル、材木商酢屋嘉兵衛宅に寄寓していた。が、そこも幕吏の手が伸びて危険だというので、近江屋に身を隠していた。
殺害されたその日は風邪気味で、近江屋の裏庭にある土蔵の一室で休んでいた。が、龍馬は土蔵の部屋は窮屈で嫌だといって、母屋の二階の八畳間に移り、真綿の綿入れを重ね着て、火鉢で暖をとっていた。
そんな中、幾人もの来客があった。中岡慎太郎もそのひとりだった。彼が龍馬とともに刺客の手にかかったのは偶然のことだろう。刺客はあくまで龍馬が狙いだった。中岡はそれに巻き込まれたのである。
疾風のごとく通りすぎていった暗殺団。彼らの正体は、その後、容易には知れなかった。
現場には黒鞘の刀が一本と二足の下駄が残されていた。下駄には焼印が入っていた。一つは下河原町にある料理屋のもので、もうひとつは祇園にある中村屋のものだった。二つとも、日頃土佐藩の者がよく出入りする店だった。
それにしてもこの事件には偽装工作とも思える遺留品が多い。これほどまでに目くらませの必要があった龍馬暗殺だったのだろうか。それが気になる。
黒鞘の刀については、龍馬暗殺直後、現場に駆けつけた元新撰組の幹部、伊東甲子太郎という者が、それは新撰組の原田左之助所有のものだと証言した。原田の出身は伊予松山藩で、刺客のひとりが、「こなくそ」と松山方言を使ったということで強く疑われた。 続く
タイトル写真:京都霊山護国神社内 坂本龍馬・中岡慎太郎の墓
今しがた、雨装束で四条大橋を渡って行く黒い一団があった。橋の途中まで来ると、何を思ったか、彼らは雨装束を川に投げ捨てた。皆一様に押し黙っているが、そこには鋭い殺気が漂っていた。
慶応3年11月15日(新暦12月10日)の夜、今の時刻でいえば八時過ぎのことである。四条通りにはまだ、雨中とはいえ人影が多く行き交っていた。
黒い一団は、橋をわたり終えると、四条通りを進み、河原町通りを北に歩いた。そして、蛸薬師下ルところにある醤油商近江屋の前でぴたりと止まった。
主立ちと思われる男がなにごとか指図すると、あらかじめ決めてあったのであろう、三つの黒い影が客を装う風にして店の中に押し入った。
店の中に押し入ると、ひとりが「十津川郷士の者でござる。才谷先生はご在宅か」と、下僕である相撲取り上がりの藤吉に名札を渡し、面会を求めた。
藤吉はその名札を受け取り二階に上がり、取り次ぎを済ませたあと、再びふたりの男を先導して階段を上って行った。
その時である。いきなり一刀が藤吉の背後から振り下ろされたのである。藤吉はもんどりうってその場に昏倒した。すると、二階の部屋の主が、叱りつけるような低い声で、「ほたえな」と叫んだ。それで二階の部屋に人がいることが確認された。
二人の男が階段を忍び上ってゆく。狭い廊下をすり足で進み、そのうちのひとりが一番奥の部屋の障子をそっと開けた。
男たちはぬっと部屋に押し入るや否や、「坂本さん」と声をかけた。薄暗い部屋の中には二人の男が火鉢を囲んで話し込んでいた。その声に応えるように、そのうちのひとりが、行灯を手にとって男たちに振り向けた。それで、その人物が坂本であることが知れた。
賊は部屋の中のどちらが坂本であるかを確かめようとしたのであった。あくまで坂本という人物が目的であることが知れる。
坂本は初対面のことでもあり、身元を確かめようとしたその時である。「こなくそ」という鋭い怒声を浴びせて、賊のひとりの小太刀が力強く横ざまに払われた。寸分の狂いもない太刀さばきだった。
「こなくそ」という言葉は、伊予(愛媛)松山地方の方言で「こん畜生」を意味した。のちにこの言葉が下手人探索の中でいろいろ憶測されることになった。しかし、この言葉を聞いたのは瀕死の状態であった中岡であるので、不確かな部分も感じられる。
不意の闖入であったために部屋にいた二人はたちまち斬り倒された。坂本は前頭部を左から右に深く斬りつけられ、中岡は後頭部を斬りつけられ昏倒した。
坂本は、いったんは前頭部を斬られたが、身を退けて、床の間に置いてあった太刀を取ろうと、後ろ向きになった。すると今度は後ろから袈裟懸けに二太刀目を浴びた。
坂本はそれにも屈せず、鞘のまま相手の刀を受け止めようとしたが、三太刀目を浴びた。今度は前額を右から左に、脳漿が飛び出るほどになで斬りにされたのである。坂本は苦痛に満ちた、奇妙な声を発して意識を失った。
部屋の中はまたもとの静かさにもどっていた。
坂本と中岡を沈黙させると、刺客のひとりは謡曲を謡いながら去っていった。これは虫の息の中での中岡の証言である。
賊が去ってからほどなくして、坂本と中岡の二人は意識を取り戻した。坂本は気丈にもよろめきながら行灯を提げ階下の人を呼んだ。が、家の中は静まりかえっていて、応答する者はいなかった。中岡は這いながら隣の家の屋根に逃げのびた。このあと坂本は絶命。中岡は深手ながら意識はあったが、二日後に命を落とした。
表通りをお陰まいりの群衆が「ええじゃないか」を唱えながら通り過ぎて行った。刺客たちの黒い影はその渦にまぎれて消えていった。大政が奉還されてから一カ月余りたった後の出来事だった。
こうして維新の立役者があっけなくこの世を去ったのである。坂本龍馬33歳、中岡慎太郎31歳。皮肉なことに龍馬はこの日が誕生日であった。
二人の暗殺はさまざまな憶測を呼んだ。
河原町の隠れ家に龍馬がいることをどうして刺客が知り得たのか、という疑問が取り沙汰された。内情を知る者の密通があったのではないか、とも噂された。
当時、龍馬は、市内に幾つかの隠れ家ともいうべき場所を確保していた。いずれも市中のど真ん中にあり、古巣の土佐藩邸にも近かった。時と場合に応じて龍馬は隠れ家を転々としていた。それだけ警戒をしていたのである。近江屋に移るまでは、三条下ル一筋目東入ル、材木商酢屋嘉兵衛宅に寄寓していた。が、そこも幕吏の手が伸びて危険だというので、近江屋に身を隠していた。
殺害されたその日は風邪気味で、近江屋の裏庭にある土蔵の一室で休んでいた。が、龍馬は土蔵の部屋は窮屈で嫌だといって、母屋の二階の八畳間に移り、真綿の綿入れを重ね着て、火鉢で暖をとっていた。
そんな中、幾人もの来客があった。中岡慎太郎もそのひとりだった。彼が龍馬とともに刺客の手にかかったのは偶然のことだろう。刺客はあくまで龍馬が狙いだった。中岡はそれに巻き込まれたのである。
疾風のごとく通りすぎていった暗殺団。彼らの正体は、その後、容易には知れなかった。
現場には黒鞘の刀が一本と二足の下駄が残されていた。下駄には焼印が入っていた。一つは下河原町にある料理屋のもので、もうひとつは祇園にある中村屋のものだった。二つとも、日頃土佐藩の者がよく出入りする店だった。
それにしてもこの事件には偽装工作とも思える遺留品が多い。これほどまでに目くらませの必要があった龍馬暗殺だったのだろうか。それが気になる。
黒鞘の刀については、龍馬暗殺直後、現場に駆けつけた元新撰組の幹部、伊東甲子太郎という者が、それは新撰組の原田左之助所有のものだと証言した。原田の出身は伊予松山藩で、刺客のひとりが、「こなくそ」と松山方言を使ったということで強く疑われた。 続く
タイトル写真:京都霊山護国神社内 坂本龍馬・中岡慎太郎の墓