場所と人にまつわる物語

時間と空間のはざまに浮き沈みする場所の記憶をたどる旅

龍馬遭難の地の記憶ーその2

2022-11-15 19:15:37 | 場所の記憶
不思議な因縁だが、この伊東は、龍馬が暗殺された数日前に、龍馬を訪ね(伊東は龍馬の隠れ家を知っていたのである)新撰組が狙っているので身辺を警戒するように忠告している。
 その伊東が、龍馬暗殺の三日後、こともあろう、新撰組の手に掛かって惨殺されたのである。その日は奇しくも坂本、中岡の葬儀が行われた日であった。
 葬儀は坂本、中岡、下僕の藤吉等3名の合同葬としてとり行われた。夕刻、近江屋から三つの棺が出て、それらを海援隊や陸援隊士がかつぎ、その後を、土佐、薩摩の藩士が列をなし、葬列は二町ほど続く盛大なものだった。
 葬列を幕吏が襲うかも知れないという情報があり、拳銃を懐に刀の鯉口を切って行く者などがいて、悲壮の感が漲っていたという。
 そして、遺骸は、東山の高台寺の裏山墓地に手厚く葬られたのである。墓標の文字は桂小五郎の揮毫によった。

 いずれにしても、この伊東の証言で、その後、久しく新撰組が疑われることになった。 
 坂本、中岡の出身母体である土佐藩は新撰組に嫌疑をかけて、時の幕閣永井尚志に事件の真相解明を迫っていた。永井は新撰組局長、近藤勇を呼び寄せて、この一件を糾した。が、近藤は関与を否定した。
 実は、永井は以前から将軍慶喜より、大政奉還の立役者である坂本には手をつけぬようにと忠告されていた。永井自身、坂本と面識があった。この件について、下役に伝えようとしていた矢先の龍馬暗殺だった。
 新撰組にかけられていた嫌疑は、翌年の慶応四年の近藤勇の処刑にまでつながるのだが、事実は、新撰組はこの一件にはかかわりがなかったのである。
 実行者の名が具体的にあがったのは幕府崩壊後のことだった。
 これも元新撰組の幹部、大石鍬次郎という者が、自分は事件直後、局長の近藤から、坂本を仕留めたのは、京都見廻組の今井信郎、高橋某らであると耳にしたことがあると証言したのである。 
 この証言をもとに新政府は二人の行方を探索した。 
 すると、今井については、函館の五稜郭で降伏した、旧幕軍の将校のなかにいることが判明した。ただちに再逮捕され、厳しい尋問のすえ真相が明らかになった。
 今井の供述によると、坂本、中岡を殺害したのは、京都見廻組の者たちであり、実行者は、指揮者の佐々木唯三郎はじめ、渡辺吉太郎、桂隼之助、高橋安次郎、土肥仲蔵、桜井大三郎、それに自分の計七名である、と告白した。
 今井の証言によれば、実際に手を下したのは自分ではなく、自分は見張り役をしただけだという。この当時、今井のほかは佐々木をはじめ、すべて鳥羽伏見の戦いで戦死していたのである。今井の供述しか頼るものがなかった。のちに、今井には軽い禁固刑が下されて、この件は一件落着を見たのであった。
 この件に関して、平成六年十月、桂隼之助の子孫の家で新発見があった。家の箪笥から錆び付いた一振りの小刀が出てきたのである。血痕を調べてみた結果、龍馬の血痕と一致した。これで直接龍馬らを襲った刺客のうちの一人が桂であることが確定した。桂は特殊な二刀流の免許皆伝の持ち主で、右手に小太刀を使う名手だった。
 ここで幕末の河原町界隈を幻視してみることにする。 
 一帯は下京に属する町人の多く住む地域で、市内いちばんの繁華な場所であった。これは現在も同じで、四条通りと河原町通りが交差する四条河原町は京都随一の繁華街になっている。
 北に三条通りが東西に、南に四条通りが同じく東西に走り、この間を西から河原町、木屋町、先斗町通りが並行して南北に連なっている。
 これら通りにはそれぞれ特徴があった。
 三条通りには、池田屋をはじめ大小の旅籠が建ち並んでいた。一方、四条通りには道具屋や小間物屋が店舗を並べていた。
 また、河原町通りの西側には土塀をめぐらせた社寺の堂宇が、東側には各藩の藩邸がいかめしく建ち並んでいた。
 通りに沿って商家も点在していたが、四条通りのような賑わいはなく、昼間でもひっそりとしていて、夜になれば実に寂しい通りと化した。近江屋のあった場所もそのようなところで、建物のすぐ裏は誓願寺という寺の境内につながっていた。いざというときには、この寺に逃げ込む梯子が龍馬のために用意されていたといわれている。
 現在、この寺の敷地は往時と比べてずっと狭くなっているが、この界隈、裏寺町と呼ばれるように、幾つもの寺社が建ち並んでいたのである。
 これとは対照的に高瀬川に沿う木屋町通りや先斗町通りはお茶屋や料亭の密集する紅灯の巷だった。今も先斗町通りは京情緒がただよう希少な一角になっている。市中のほとんどの店が、夜の八時頃になると店を閉めるというのに、ここだけは例外だった。
 そのような繁華な場所で幕末、殺傷事件が頻発したのである。文久年間からはじまった血で血を洗う尊王攘夷派の過激浪士たちによる天誅と評するテロ行為の現場になったのも、この界隈であった。また、三条河原では天誅で倒れた人間の生首が晒されたりした。
 龍馬が京に足を踏み入れたのは、血なまぐさい事件が起きていたそんな時だった。その後、ふとしたことから知り合うことになる、のちに龍馬の妻となる、おりょうとはじめて出会ったのもこの場所であった。おりょうの実家(医者)は三条下ル柳馬場にあった。さらに、隠れ家として使っていた酢屋も近江屋も、さらに土佐藩邸もみな河原町界隈にあった。
 このことから、龍馬に馴染みのあった京の町は、河原町界隈というごく限られた場所であったことが知れる。
 時代が変わるなか、古都京都の町のたたずまいも大いに変化した。特に、町の中心部の変貌は急激である。かつての瓦屋根の家はほとんど消えて、今はどこにでもあるようなビルが櫛比している。夜ともなればきらびやかなネオンが瞬く町になる。
 とはいえ、幕末期の歴史的事跡を町の中に探し歩くと、今でも町角や川沿いに当時を記録した石碑を発見する。
 河原町通り沿いの近江屋のあった場所には、現在「坂本龍馬遭難碑」が立っているし、木屋町通り沿いには、中岡慎太郎の寓居跡、また、高瀬川のほとりには土佐藩邸があったことなどが印されている。
 ひっそりと立つそれら碑は、そこが過ぐる日、激動の地であったことを告げていて、あらためて場所の記憶というものに思いをいたすことになるのである。
 
タイトル写真:霊山神社内の坂本龍馬・中岡慎太郎像