縄文人の反乱 日本を大事に

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「黒豚もおだてりゃ海で泳ぐ」は無理

2013年09月16日 23時17分27秒 | 色んな情報
「黒豚もおだてりゃ海で泳ぐ」は無理、大陸国家(陸軍国家)中国=黒豚の海洋進出は、日米英が許さない     板垣英憲 2013年09月16日

◆「豚もおだてりゃ木に登る」と言われているけれど、「黒豚もおだてりゃ海で泳ぐ」とは、未だかつて聞いたことがない。
中国共産党1党独裁北京政府は9月15日、南アジア諸国連合(ASEAN)との南シナ海における紛争防止のための「行動規範」策定に向け、中国江蘇省蘇州で行った2日間の協議を終え、中国が南シナ海をめぐる問題で、米国に対して「牽制力」を発揮した。けれども、大陸国家(陸軍国家)=黒豚が、海洋国家(海軍国家)=日米英に対抗し、海洋覇権を横取りしようとは、小賢しい。思い上がりにも、程がある。基本的に勝てるはずはない。いい加減にしろ、絶対に許さないという声が、海洋国家(海軍国家)=日米英から出ている。
中国明代の武将で宦官の鄭和(1371年~1434年)は、永楽帝に仕えて軍功をあげて重用され、南海への七度の大航海の指揮を委ねられた。鄭和は、最大の船・宝船(全長120メートルを超える大型船)はじめ船団を率いて、東南アジア、インドからアラビア半島、アフリカにまで航海し、最も遠い地点ではアフリカ東海岸のマリンディ(現ケニアのマリンディ)まで到達した。しかし、鄭和死後の明は再び鎖国的になり、航海は行われなくなった。成化帝の時代に「再び大航海を」という声が上がったものの、航海にかかる莫大な費用と儒教的モラルから官僚の反対にあい沙汰止みとなったと言われている。
 清朝末期の海軍軍人・丁汝昌(1836年11月18日~1895年2月12日)は太平天国の乱に反乱側として参加したが清朝に帰順し、宰相・李鴻章の下で働き、後に北洋艦隊の提督になり、日清戦争中、大日本帝国海軍との艦隊戦に敗北の責任をとって毒を仰ぎ自決、北洋艦隊は壊滅した。「北洋艦隊消滅」の知らせを聞いた光緒帝は丁汝昌の「財産没収」を言い渡し、葬儀を出すことも許さなかった。名誉回復がなされたのは1910年、当時の海軍大臣の愛新覚羅載洵(光緒帝の実弟)や南北洋水師兼広東水師提督の薩鎮氷らが嘆願したのであった。
 大陸国家(陸軍国家)が、海洋国家(海軍国家)と海戦により勝利した例は、極めて少ない。大陸国家(陸軍国家)であるフランスの皇帝になったナポレオン(陸軍砲兵から大出世)は、トラファルガー海戦で大英帝国のネルソン提督に敗れた。すなわち、フランス・スペイン連合艦隊は1805年、トラファルガー岬沖でネルソン提督に捕捉された。二列の縦陣で敵艦隊に接近戦を挑んだいわゆる「ネルソン・タッチ」によって、フランス艦隊27隻が撃滅され、敗れたのである。
◆大日本帝国海軍は、パールハーバーで大勝利したものの、ミッドウェー海戦(世界大戦中の1942年6月5日から7日にかけてミッドウェー島をめぐって行われた米海軍との海戦)で、双方の空母機動部隊同士の航空戦の結果、日本海軍は機動部隊の中核をなしていた航空母艦4隻とその艦載機を一挙に喪失する損害を被り、ミッドウェー島の攻略は失敗し、この戦争における主導権を失った。敗戦直前には、潜水艦隊をパナマ運河攻撃に向かわせて、大半の潜水艦は、米海軍の待ち伏せ攻撃に遭い、水中で壊滅している。
 しかし、海上自衛隊は、これらの敗北を教訓にして、営々として「海上、海中、さらに空中」の防衛力と防衛データを蓄積してきており、中国共産党人民解放軍の「海軍力」をはるかに凌駕している。海洋国家(海軍国家)の実力を忘れるべきではない。そもそも大陸棚が長く、水深が浅いため、中国は潜水艦戦力を維持できない国である。
◆この意味で、日米同盟により日本を守りきれなくなっている米国を信頼できなくなっている現在、日本は、いよいよ本気になって、「海軍力」をこれまで以上に強化する必要がある。言い換えれば、「自主防衛」である。
 いまや平和憲法が、日本国民を守れなくなっていることを国民すべてが、冷静に認識しなくてはならない。他力本願がまったく通用しないのである。

笑い話で御座います。 (@^▽^@)

2013年09月16日 23時17分27秒 | 色んな情報
笑い話で御座います。 (@^▽^@)

(2010/11/10のブログ「どうなっちゃうの?日本の将来」より)

戸野本優子とのダブル不倫騒動

週刊文春によると1998年11月、全日空ホテル23階にて、キャスターの戸野本優子とともにいるところを週刊誌の記者に撮影された。
これに対し菅は男女関係を否定。
その際の「一夜は共にしたが男女関係はない」
「(妻から)脇が甘いと言われた」という表現が、世間の流行語となった。
本件については、日本テレビ系の「ザ・ワイド」において、有田芳生が詳細な調査を行い、連日、報道していた。
その後、戸野本が手記を暴露本「瓦解」として出版。
2002年5月の週刊新潮によると一連の騒動について、菅は出版社を提訴したが、
そのときの顧問弁護士は仙谷由人であった。

また、同時期に週刊新潮により伸子夫人と自身の秘書山本譲司との間の不倫騒動も報じられた。

有田芳生氏は現在、民主参議院議員。

公職選挙法第146条違反の疑い

やまと新聞によると、2010年6月25日の参議院選挙において、有田芳生候補は自ら堂々とキャッチコピーの入ったのぼりを持ち、スタッフにも「とことん現場主義」というコピーをプリントしたポロシャツを着させての選挙運動を行っており、これが明らかな公職選挙法146条違反という指摘された。

やまと新聞
http://www.yamatopress.com/c/1/1/2722/

顧問弁護士は仙谷由人?

これでは、総理大臣より偉いかも~~~!

秘書「山本譲司」元衆議院議員

2000年9月に秘書給与流用の詐欺容疑で東京地検特捜部に逮捕された。
2001年2月に懲役1年6ヶ月の実刑判決を受け、控訴を取り下げ栃木県黒羽刑務所に服役する。
民主党初の除名処分者となる。

ちなみに早稲田大学時代の同ゼミ生に、同じ様に秘書給与流用をした「辻元清美」がいた。

早稲田のゼミでは何を教えていたんだ?

戸野本優子が菅直人との不倫スキャンダルの後、すぐ結婚した理由!

鳩山総理は「政治とカネ」だし、菅直人は「政治と性」。
戸野本優子さんは、菅直人を『あれほど薄汚い男だとは思わなかった』と断じたという!!!

http://hotnews.infoseek.co.jp/article/200549/

西山事件の時も同じ。
国会で追及した「横路議員」
女性問題に摩り替えた「故佐藤議員」
後に2人共、仲良く「民主党」に入った。

韓国人女性との不倫・隠し子騒動

週刊文春2010/6/24号に「菅直人「オンナ」の噂を追う」として韓国人ホステスとの間に隠し子がいるとの記事が掲載された。
情報の真偽の程は不明であるが、韓国人ホステスは実は国家情報院に通じている(スパイの疑いあり)ともされ、自民党は調査に乗り出した、と報道している。

同様の報道は
シンガポールの「星洲日報」や
台湾の新聞ネット版「自由電子報」
香港の「shina.com.hk」でもニュースとして報道されている。

民団は民主党議員を接待づけにしているらしい。
「路チュー」の中井議員は宿舎のカギを韓国クラブの女性ホステスに与えていた。
小沢一郎は都内の隠しマンションに韓国人の美人秘書を住まわせていた。
反日団体のメンバーで韓国政府のスパイとの噂も。

民主党議員は韓国からのハニートラップにはまっているかも・・・。

週刊新潮 2010年7月8日号(2010/07/01発売)

「市民派の仮面をつけた独裁者「菅直人」総理が目指す「小沢一郎」前幹事長以上の強権」によれば、初代内閣安全保障室長の佐々淳行は「菅さんは東工大の学生時代、ノンセクト・ラジカルのグループに所属し、学園紛争を煽っていた。私は当時、警視庁警備課長として機動隊を連れ、3回ほど東工大に行ったので、菅さんを知っていました。彼は我々の間で“4列目の男”と呼ばれていた。アジ演説が巧く、聴衆を集めるが、検挙を覚悟の上でゲバ棒で逆らってくるようなデモ隊の3列目には決して加わらなかった。巧妙なリーダーでしたよ」と述べている。

小説『複合汚染』

作家の有吉佐和子は1974年の参院選の際に市川房枝さんを応援するために選挙事務所に入って小説『複合汚染』にその模様を記し、菅も実名で登場している。
有吉は菅が自分を市川の代わりとして勝手に候補者にかつぎあげようとも考えていたと聞いてゾッとし、「ハンサムだけど嫌われなければならない」と思いつめてことさらにガミガミ怒鳴りつけたと記している。

おまけ
「もう沖縄は独立した方がいい」発言及び国防政策

菅直人首相が副総理・国家戦略担当相だった2009年9月の政権交代直後、民主党の参院議員である喜納昌吉(党沖縄県連代表)に対し、
「基地問題はどうにもならない。もうタッチしたくない」
「沖縄問題は重くてどうしようもない。もう沖縄は独立した方がいいよ」
などと語っていたことが2010年6月15日に判明した。

参考文献・ウキペディア

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」より

2013年09月16日 23時03分41秒 | 色んな情報
さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」より
作成者: 京免 史朗さん


『唱歌を消す日本』
かつて「文部省唱歌」を子供たちは学校で歌っていました。
今では「唱歌」と言っても「何それ?」と言われます。
これはかつて教科書にあった歌です。

戦後、
『教育勅語』が消され、
『修身』の教科書が消され、
『唱歌』も一部は歌詞を変えられ、また歌詞そのものを消された唱歌もあります。中には唱歌そのものを二度と歌わせないように抹消してしまったものもあります。
なぜ消すのかというと、大東亜戦争で日本の恐ろしいほどの強さを嫌と言うほど知ったアメリカは、占領政策で二度とアメリカの脅威とならないように日本弱体化をあらゆるところで行ってきました。その一つが唱歌の歌詞を変えたり消すということでした。


唱歌の中には日本人の心や精神がたくさん詰まっています。
『教育勅語』、『修身』、そして『唱歌』を復活させれば本来の日本人が取り戻せることでしょう。
特に情操教育が必要であるとよく言われていますが、唱歌をきちんと歌うことはその効果に大きく貢献することであります。

たとえば四季の草花を愛でる心、特に日本には春夏秋冬それぞれほどよい長さの四季があり、国土の自然には山と海と川があるのです。しかし、世界を見渡してもこのような風土を持つ国は少ないのです。
日本人は植物の葉の色にしても多彩な色を知っています。春になって芽吹き、若葉の色、やがて深緑に変化して、涼しい風が吹き出すと黄味を帯び赤みを帯びてくる。この四季の変化は国土の大部分が砂漠の国や一年中雪の中で過ごす地では理解できないのです。
「季節を語らずして自然を語ることなかれ」という不文律が日本の文化の中にあります。俳句には五・七・五の中に必ず季語を入れることは日本人ならば誰もが知っていることです。それは日本に四季折々の季節があるからなのです。そう感じるだけでも日本は本当に素晴らしい国なのです。

小さな虫や小動物を愛する気持ち、故郷の山や河を想い、親を想い、友だちを大切にする心。祭や花火、田植えや稲刈り、四季の行事を感じ、自然に感謝する。また歴史に残る立派なお話や正義と勇気ある志、そういうことを知らず知らず唱歌から学んでいたのです。
もちろん歌っているだけでこうした心は養えるものではないでしょうが、このような歌をいつも歌っていることいで、親は大切なもの、友は大切なもの、という価値観が知らないうちにしみ込んでいくのです。

戦後、『村祭』が教科書から外された時、市町村合併で村のない所があったからだという。この歌の3番「治まる御代に神様の めぐみあおぐや村祭り」を「みのりの秋に神様の めぐみたたえる村祭り」と変えてしまったのです。なぜか。神様を讃えてはいけないというのです。
『広瀬中佐』という唱歌があります。これは現在“軍歌”に分類されていますが、小学校で教えていた唱歌です。広瀬中佐とは日露戦争でロシアの太平洋艦隊をバルチック艦隊が来るまでに叩こうとしましたが旅順港の中から出てこないので出入り口の狭い旅順港を閉塞して閉じ込めてしまう作戦を指揮した軍人です。

交戦中に敵の攻撃を受けて船が沈み全員退避命令とともに広瀬中佐も退避しようとしたとき部下の杉野上等兵の姿がなく、「杉野はいるか」と大声で叫びながら単身、水が満ち始めた船内を探しましたがついに見つからず、「もはやこれまで」と断念してボートの乗り移ろうとした時に敵の弾丸に命中してしまったのです。
部下を大切に思うのは指揮官として当然の心得です。しかし極限の状態で、自分の命をかけてまで実行できるかといえば大変難しいことです。こういう実話をかつては歌にして語り継いでいたのであります。

しかし、戦後「戦争のエピソードは軍国主義につながるから」という理由で消されてしまいました。
この歌の本質は何か。一命を顧みず他者を救おうとする尊い精神ではないでしょうか。東日本大震災でもそのような行動をとって亡くなられた方がいました。これこそ尊い精神でなくて何でしょう。

単純に「戦争の歌だから消す」というのはあまりにも安易過ぎであります。
今、集団的自衛権の行使をするとかしないとか議論をしています。これに反対している政治家などは仲間がピンチの時に逃げるという、今の日本を象徴する道徳観のなさを表わしています。こんな薄情な考えしかできない政治家は日本人の恥と言えるでしょう。


可愛い奥様[sage] 投稿日:2009/04/21(火)

2013年09月16日 21時57分21秒 | 色んな情報
可愛い奥様[sage] 投稿日:2009/04/21(火)

京免 史朗


ガッツが全米映画俳優協会最優秀外国人俳優賞を受賞したとき
受賞のお礼にと、受賞式の前に本当に貧乏な地区の孤児院とかジムを訪ねて麻薬の売人を兄貴がやっているとか、母親がアル中だとか言う子供たちにボクシングを指導してたんだと。
strong>で、ガッツは受賞式の挨拶の中で彼らのことに触れて
「俺はとんでもなく貧乏なうまれで、本当に 彼らと全く変わらない育ちだった。ただ一つ違うのは、母が俺を信じてくれたこと。

お前は馬鹿だし、私も貧乏でなにもしてやれない。ただ、お前を信じて やることだけはできる、っていつも言ってくれていた。
母さんはもう死んでしまったが、母親が子供を信じてくれるという、 母親でなくても誰かが信じてくれている、それだけで、子供は自分を信じて努力して行けるんだ。
だから、君たちが まけそうになったら、友達や家族を思い出してほしい。
そして友達や家族が負けそうに なっていたら、彼のことを信じて励ましていてほしい。それだけで、何でも できるようになるんだ。そういうことを彼らに伝えてあげたかった」

当然カタカナで書かれたカンニングペーパーを見ながらの英語の挨拶。
最初は笑い声も起こった会場がだんだん静まり返り、最後は観客全員立ち上がってのスタンディングオベイションとなった。
•奥村 弘潤 一生懸命に生きている人は真剣であれば有るほど喜劇役者に思えてくる。喜劇ほど泣ける芝居はない。

Hokari Mariko 逆境を経験し、そしていつか世間で認められた人々の裏には、必ずといっていいほど、裏に素敵なお話があるんですね。そして、そこには揺るがない信念が彼らを支えている。ただ単に恵まれた状態で育った人間には、得ることが難しい、そしてそれは本当の財産なんだと思う。ガッツさんのシンプルな挨拶の中に強烈なエネルギーを感じました。
•岩田 憲明 いつものガッツ石松黄金伝説とは一味違ったいい話しです。
シェアさせていただきます。

■ 中国&ソフトバンクコンビの米通信網乗っ取りを阻止したアップル

2013年09月16日 21時45分11秒 | 色んな情報
■ 中国&ソフトバンクコンビの米通信網乗っ取りを阻止したアップル
京免 史朗

htp://www.nikaidou.com/archives/40155

 今月20日に売り出される最新版のiPhoneは最上位機種・低価格版ともドコモ・KDDIの800メガヘルツ帯と、ソフトバンクが既に3G回線で使用している900メガヘルツ帯に対応しており、
SBがウィルコムから奪った次世代電波を中国発のTD-LTEと互換性を持たせたAXGPはボツとなりました。
これまでKDDI向けには2.1ギガヘルツ帯しか使えない仕様にするようアップルに働きかけてきたソフトバンクは、一昨年あたりから世界の移動体通信見本市などでTD-LTEの優位性なるものを喧伝したり、
最新版iPhoneをTD-LTEしか使えないようにしようとまるでバ韓国の日本に対するネガキャン並みのロビー活動を展開してきましたが、
ふたを開けてみればアップルからすっかり嫌われる結果となったのでしたw

 全米で唯一TD-LTEを採用しているクリアワイヤをめぐる争奪戦で、ライバルのディッシュ・ネットワークの社長を口汚くののしったり、ディッシュに味方する金融機関にはアリババIPOに参加させぬと脅したりしたあげく、
買い取り価格をさんざん吊り上げてやっとのことで手に入れたのに、TD-LTEでの全米通信網乗っ取り計画がとん挫したら後に残るのは8兆円近い借金の山だけです。
来月のSB中間決算説明会は、孫社長によるライバル他社の壮絶な悪口大会になること必定ですね

■パラオ共和国で1986年(昭和61年)年11月23日に「天皇陛下御在位六十年」の奉祝式典と提灯行列が

2013年09月16日 17時59分22秒 | 色んな情報
■パラオ共和国で1986年(昭和61年)年11月23日に「天皇陛下御在位六十年」の奉祝式典と提灯行列が

京免 史朗
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■パラオ人が昭和天皇の御在位60年を祝った理由とは……
名越二荒之助編著「昭和の戦争記念館」第4巻“大東亜戦争その後”より
パラオで昭和天皇の御在位60年の奉祝パレードについての記述

 パラオ共和国では、昭和六十一(1986)年十一月二十三日に、「天皇陛下御在位六十年」の奉祝式典を行い、提灯行列に移った。
 その話を最初に聞いた時には信じられなかった。その写真を貰っても、何だか半信半疑の気持ちが残った。私が現地に出かけて尋ねたら「私たちがやりました」と、写真にうつっている人々が名乗り出てきた。そして紹介されたのが、日本名で、沖山豊美(父が日本人)という人であった。

 彼女は戦前の日本の高等女学校を卒業した唯一人のパラオ人である。女学校をトップで卒業し、五カ国語に通じ、アメリカでは「バロン・オキヤマ」と呼ばれて尊敬されている、と聞く。私の質問に対して彼女は、「天皇陛下は世界で最も尊い方」と前置きしてゆっくり、しかし正確な戦前の日本語で答える。彼女が挙げた、御在位六十年を祝う理由は、次のようなものであった。

(1) 世界で一番古い家柄の方である。他のどの王室も遠く及ばない。
(2) 日本の軍人はペリリューやアンガウルだけでなく、他の戦場でもあれだけ立派に戦った。それは天皇の力であって、アメリカ人もペリリュー島を「天皇の島」と呼ぶようになった。
(3) 日本人があれだけ真剣に戦った戦争だが、それを一ぺんにやめさせられたのも、天皇の力だった。天皇の命がけの決断で我々も救われた。
(4) 日本は戦争に負けたのに天皇は相変わらず天皇であられる。こんな例は世界史上例がない。
(5) その天皇が六十年も在位された。順風の時代に在位されたのではなく、興隆と敗戦の激動を通じてずっと天皇であられた。この僥倖を思うと日本人でなくてもお祝いしたい気持ちになる。

〈中略〉天皇に親愛感を持っているのは、沖山さんだけではない。政府顧問をしているイナボさんもそうだ。彼は戦争中ペリリュー島で戦車に対する肉迫攻撃の訓練を受けていた。日本の兵隊さんといっしょにペリリュー島を守りたかったが中川守備隊長は、パラオ人全員を本島に移し、日本軍人だけで戦った。そのために英霊に対して申し訳ないという気持ちが強い。そして今生きているのは、昭和天皇が終戦の御聖断をくだされたから、と思っている。

 忘れもしない、昭和六十三年四月二十六日のことである。彼は娘と姪を連れて日本にやってきた。天皇陛下が御病気なのでお見舞いに来た、と言う。二十九日の「天皇誕生日」には、私たちも彼らを皇居参賀に案内して、日の丸とパラオの国旗を振って「天皇陛下万歳」を何度も唱えた。彼は「陛下のお元気な声を聞けて、安心して帰れる」という。帰途楠公さんの銅像に参り、靖国神社に参拝した。道すがら彼は言っていた。
 「日本で大切なものが四つある。御皇室と靖国神社と桜と富士山だ。これを忘れたら日本は日本ではなくなる」と。

☆番外編:あの周恩来が靖国を拝観していた頃の神田と中国共産党の関係

2013年09月16日 01時14分25秒 | 色んな情報
☆番外編:あの周恩来が靖国を拝観していた頃の神田と中国共産党の関係『正論9月号』2005(平成17)年9月1日初版発行


http://plaza.rakuten.co.jp/paradise55/4005/


■あの周恩来が靖国を拝観していた頃の神田と中国共産党の関係
 --水間 政憲(転載フリー)『正論9月号』2005(平成17)年9月1日初版発行

 「水を飲むとき、井戸を掘った人を忘れてはならない」

 日中復交にさいしての周恩来首相の有名な言葉である。

 20世紀初頭の1917年9月、内乱状態の中国から、一人の青年が日本に留学して来た。天津の南開学校を卒業した若き日の周恩来であった。

 中国人留学生は、日清戦争が終結した一八九六年、講和条約(下関条約)が結ばれて13人の留学生が来日したのが始まりであった。その時、清国との間で留学生の来日に尽力したのは西園寺公望文部大臣であった。

 ちなみに1972年の日中共同声明に尽力したのは、西園寺公望の孫で、戦中ゾルゲ事件に連座した西園寺公一だった。

 中国は、近代国家の実態を日清戦争によってまざまざと見せつけられた。そこで、我が国を通しての近代化を選択した。漢字を使用する我が国が、西洋近代文化を取捨選択して活用している現状を見て、西洋諸国から新たに学ぶより有益と判断したのである。

 その後、中国人留学生は増加の一途を辿り、日露戦争を境にしてピークに達している。その人数は、1905年に8600余人、1906年には約2万人とも言われている。

 我が国が過去千年以上にわたって送り出した留学生の数を、中国は1~2年で上回ったことになる。

 当時、我が国で中国人教育の為に設立された学校には、成城学校(陸軍士官学校の予備校)、日華学堂(専門各科を学ぶ為の言語を中心)、振武学校(陸軍士官学校、陸軍戸山学校に入る為の予備校)、東亜商業学校、東京同文書院、弘文学院、東斌学堂、法政速成科、経緯学堂、早稲田大学留学生部などがあった。

 蒋介石は陸軍士官学校卒となっているが、実際は振武学校に通っていた。また、中国政府官費留学生は、我が国の国立大学に入学したものだけが認められていた。日清戦争後は、中国が日本に学べとの流れの中で、両国の国民感情がよくなり、一気に「清国熱」が高まり、教育、軍事、外交、法政、農業顧問など様々なジャンルの日本人が中国へ渡った。その人数は、1899年の1725人から、1906年には1万6910人(東亜同文会編『支那年鑑』)となっていた。

「中国人の風気を開発」するとの信念を持った教育熱心な日本人の中からは、中国に学校を設立するものも現れた。
 その主な学校は、北京の東文学社(1901年)、上海の留学高等予備学堂(1905年)、南京の本願寺東文学堂(1901年)、天津の東文学堂(1899年)、杭州の日文学堂(1898年)、厦門の東亜学院(1900年)、泉州の彰化学堂(1899年)などである。

「歴史はくり返す」とよく言われるが、1972年の日中共同声明以降と同じ様な状況だったのである。

 当時、中国が文化交流の中で日本語から取り入れた言語は、王立達の論文「現代漢語中従日本借来的詞彙」(実藤恵秀著『中国人日本留学史』)によれば、「現在よく使用されている外国語の84%となり、また『新名詞辞典』『新知識辞典』などに収められている語彙のほとんど半分は日本語から借用したもの」だという。

 そこで、高名凱、劉正タン(土ヘンに炎:タン)共著『現代漢語外来詞研究』(前掲書)を活用して、「中華人民共和国憲法」を見ると、「中華」以外の「人民」「共和国」「憲法」は日本人が創造した言語である。

 その本文も、日本語を削除すると憲法として成り立たないのである。

 その意味で、現代の中国国家及び国民の概念は、日本語なくして存在できないのである。

 しかし、中国はあまりにも拙速に日本語を取り入れたので、未だに日本人が創造した意味を理解していない。

●神田は革命運動に走る中国人留学生たちの拠点

 日本に留学した周恩来は、中国政府が認める官費留学生を目指して1918年3月、東京高等師範学校を受験した。しかし、失敗している。

 周恩来は同年7月、背水の陣で第一高等学校(現・東大教養学部)の受験に挑むが、また失敗した。

 周恩来は、その時の心境を友人に手紙で次のように告白している。

「日本にやって来たのに日本語をうまく話せず、どうして大いに恥じずにいられよう! これを自暴自棄というのだ。いかなる国を救うのか! いかなる家を愛するのか! 官立学校に合格できない、この恥は生涯拭い去ることができない!」(『周恩来十九歳の東京日記』小学館文庫)

 周恩来は中国政府の官費留学生の待遇を得ることは出来なかったが、共産党の指導者になるための社会主義思想に出合った。

 河上肇京都帝国大学教授の雑誌『社会問題研究』を手にしたことが、周恩来における共産主義思想の原点なのであった。

 周恩来は、河上肇に心酔して帰国までの半年間、友人の呉達閣に誘われて京都大学の聴講生になっている。

 当時、中国人留学生は、神田神保町周辺に数多く住んでいた。神田には、中国人留学生の約三分の二を集めていた東亜高等予備学校(現在の神保町二丁目の愛全公園付近)と中華青年会館があった。周恩来も東亜高等予備学校に通っていた。

 当時、中国国内は内乱状態で、愛国心の強い周恩来がとても勉学に専念できるような状況ではなかったのであろう。

 1911年、中国15省で革命政府が成立し、翌12年に孫文を臨時大統領とする中華民国が南京に成立した。翌13年、袁世凱が大統領に就任すると、独裁政権にもどってしまった。袁世凱は翌14年国会を解散して、わずか2年で清朝時代へ逆行して行った。我が国で学んだ孫文たちの近代国家建国の理想は形骸化した。

 第一次大戦(1914~18)に乗じて、我が国は、対華21ヶ条要求を袁世凱に受諾させた。袁世凱は、1916年に病死して、翌17年、清朝復活クーデターが暴発した。それを収拾した段祺瑞国務総理は、ドイツに宣戦布告している。周恩来は、この様な激動の中で革命運動に参加して行った。

 東京は、「中国革命同盟会」が発足したところで、孫文の革命家生活40年の3分の1を過ごした、中国近代国家建国の拠点都市であった。

 孫文の父親、達成は中国広東省最大の暴力団といわれた「三合会」の会長だった。父親が死ぬと、孫文は22歳で会長に就任している。

 孫文は、我が国の政財界(犬養毅元首相、頭山満玄洋社代表など)から、物心両面の絶大な支援を受けていた。その都度、革命が成就した暁には、満州の統治を日本に委ねるなどの甘言を弄していた。

 1912年、中華民国臨時政府大統領として、南北妥協を策し袁世凱に大統領を譲り渡したことで、孫文には人道的使命もなく、政治理念もなにもない。あるのは、独善的な中華思想だけだったと覚醒した黒龍会代表、内田良平は以後支援を打ち切っている。

 それにもかかわらず、1913年の第二次革命にまた日本から孫文を支援している。

●靖国神社に親しみを感じていた周恩来

 当時、中国人留学生の革命への熱い想いを発散できる場所は、サロンの役割と革命運動の拠点になっていた神田神保町にあった中華青年会館であった。

 周恩来は、読書と散歩をこよなく愛し、神田神保町周辺を徘徊していた。

 神保町は、当時も今と同じ様に書店が軒を連ねていた。東京堂書店などに入り浸っていた周恩来にとって大学の授業を受けることより有意義だったであろう。

 おそらく周恩来は、神保町からすぐ近くにある靖国神社に行っているのではないかと、頁を捲ると、靖国の文言が眼に飛び込んできた。


1918年4月30日(火曜日)気候・夜・雨。
【治事】
「午前、授業のあと、青年会(著者注・中華青年会館)に行き、帰ってきて読書。午後、授業のあと、急いで帰ってきて、また読書。夜、九段に靖国神社の大祭を見に行くが、雨に降られたのでやめて、青年会に行って新聞を読み、伯鳴の部屋に行き、しばらく話す」


 靖国神社は、神保町から4~5分。目と鼻の先にあり、公園がわりに散歩コースとして利用していたのであろう。この日は、靖国神社で春季例大祭が開催されることを事前に承知した上で、見に行っている。


同5月1日(水曜日)気候・雨のち晴れ。
【治事】
「朝、読書。昼飯のあと、半時間、昼寝。夜、九段をぶらぶらしていると、靖国神社の大祭に出会い、それを見てはなはだ大きな感慨を催す」


 周恩来は、昨夜見ることが出来なかった「大祭に出会い、それを見て…」とあるが、それは神官が隊列を組み、神門を通り拝殿、昇殿へと進む姿を拝観しての感想なのであろう。日記には、「九段をぶらぶらしていると…」とあるが、神官の隊列は靖国神社境内にいなければ、見ることはできない。

 中国人留学生用の留学案内書には、『日本遊学指南』(章宗祥著)などがあった。その中の「東京の遊覧地」には、〈靖国神社「麹町九段坂の上にある。国家のために忠死した人を祀ってある」〉と記載されている。

 周恩来は、青年会などで様々な留学案内書を手にして、「大祭」の行事がいかなるものか認識していて感動したのであろう。

 当時、中国では戦死しても家族に通知されることもなく、まして恩給などの保証もなく、国家が殉国者を手厚く慰霊することなど夢のような出来ごとだった。現在でも中国に於いては、政府や軍の幹部でなければ八宝山(中国の慰霊場)に祀られることはない。

 胡錦濤主席などの中国共産党第四世代は、社会主義の中で育ったのであり、宗教に基づく慰霊とはいかなるものか理解できないのであろう。しかし、中共第一世代は、宗教とはいかなるものかを認識した上で社会主義国家を創った。それは、周恩来の日記の中にも見ることができる。


1918年2月15日(金曜日)気候・晴れ。温度6.2度。
【通信】
「釈迦が『世界には成仏しない者が一人いる。私こそその一人だ』というほど大きくはなれないけれども、有縁の者と一人一人断絶させられており、私にできなければ、誰が達磨の面壁に学ぶことができよう。……私の心を依然として『自然』に用い、進化の軌道に従いながら、もっとも大同の理想にちかい最新のことをしなければならない…」



 周恩来の南開学校時代の友人、厳智開は東京芸術大学に留学していて、台東区谷中の霊梅院(禅宗)に下宿していた。周恩来は、その友人との交流の中で禅宗にふれたと思われる。

 日記の中で「達磨の面壁」と書いた周恩来が、一時禅宗に興味を示していたのは明らかである。

 菩提達磨は、インドから中国に渡って来て禅宗の開祖になった。しかし、禅宗は中国で根付かなかった。周恩来が惹かれたのは、「進化」「大同の理想」(無差別自由のユートピア世界)、「最新」といったことか。その文言の意味する先にある社会主義思想に光明を見出したのであろう。周恩来が靖国神社に親しみを感じていたことは、その後の日記にも現れている。


六月二日(日曜日)気候・小雨。
【治事】
「朝、『新中』に行って集会に参加し、ついで夢九を訪ね、昼まで話し、いっしょに出かけて会元楼で食事。飯のあと『游就館』に遊び、私の寓居に帰り、しばらく話してからやっと別れる。夜、輪扉が来る」


 この日は、小雨にもかかわらず靖国神社遊就館(当時は「游」と書いた)に行ったとあり、一月一日から六月三日までで三回靖国神社に行ったことが書かれている。

 周恩来が、散歩がてらに靖国神社に行った回数はけっこう多かったと思われる。
 その頃、周恩来をインタビューした東京日日新聞記者神近市子によれば、「下宿で新聞や本を読み、外へ出る時はかすりの着物に兵児帯をしめ、ロシア風の帽子をかぶったりしてなかなかおしゃれだった」(『日本人の中の周恩来』)と。日本の風俗を受け入れていたようである。

 周恩来は、近代国家日本の殉国者にたいする慰霊の実態を見て、日本の伝統と文化の神髄をそこそこ理解していたのではあるまいか。

 いずれにしろ中華人民共和国「建国の母」と称される周恩来が、日清、日露戦争の戦死者を祀っている靖国神社の「大祭」を拝観していた事実は注目してよかろう。

 現在、中国は、日清戦争以降を日本が中国を侵略したと喧伝している。胡主席は、「宗教」の神髄を知る為にも、靖国神社の「大祭」を拝観した周恩来の真情を理解してほしい。

 1921年7月の中国共産党創立者12名中、初代総書記陳独秀、李大ショウ(金ヘンにりっとう:ショウ)、李達、董必武、李漢俊、周仏海は日本留学組であった(早稲田大学で学んでいた李大ショウも靖国神社遊就館を拝観している)。中国共産党創立者である陳総書記以下主な指導者は、現中国共産党が批判する「軍国主義国家時代の日本」で社会主義を学んでいたことになるのだ。

 中国サイドは、その辺の事情に気付いたがゆえに、靖国問題の論点をいわゆる「A級」戦犯にすり替えたのであろうが、ここにも大きな矛盾が生じる。

「A級」戦犯として処刑された七人は、各連合国側の自国民にも知らされていた有名人であった。中国の場合は、南京攻略戦の総司令官、松井石根大将である。しかし、松井大将は陸軍を代表する親中国派の聖将でもあった。 松井大将は、南京攻略に於いて「中国文化保持のための厳命」を発し、和平の「投降勧告文」を撒布したり、「南京城攻略要領」で国際法を厳守させていた。松井大将は、国際法をより徹底する為に、国際法と慣習法の権威斉藤良衛博士に同行してもらっていた。

 東京裁判は、「A級戦犯」を裁くために、事後法の「平和に対する罪」を主に活用した。

 「A級戦犯」で処刑された七人の「平和に対する罪」の訴因の有罪、無罪の数を見ると松井大将以外は、2~7つの有罪となっている。しかし、松井大将は、「平和に対する罪」に関する訴因のすべてが無罪であった。

 松井大将は、B・C級を裁くための「通例の戦争犯罪及び人道に対する罪」の訴因の中の一つだけの有罪で処刑になった。松井大将を「A級戦犯」とすることが、できないのである。

 A、B、Cの区分けをするのであれば、松井大将は「B・C」級戦犯となる。となれば、直接中国と関係のある「A級戦犯」が存在していないことになり、中国が声高に批判する「A級戦犯」の根拠がないことになる。

●中国は政治用語の基本概念を理解していない

 1972年、中国はソ連との対立から開戦まで準備していた中で「資本主義帝国」と批判していた日本に接近して国交を結んだ。疲弊した国家経済をたて直すことが、最重要政策だった。

 日中間の戦時中の諸問題は、1978年の日中平和条約の締結ですべて終結している。それが国際的な常識である。

 にもかかわらず、中国がくり返し問題にしてくるのは、日本から取り入れた近代国家に於ける政治用語の基本概念を理解していないことに原因がある。

 王毅駐日大使は今春、早稲田大学での講演などで、「日本が国際国家になりたければ、小泉首相は靖国参拝をするべきでない」「国際的な常識、コンセンサスでやることが利益になる」と述べていた。王大使がいう「国際」「国際的」は、日本が創造した言語である。

 王大使は「国際」「国際的」を「中国中心」「中国中心的」と解釈している。王大使は、未だ世界の中心は中国との中華思想の幻想の中にいるのであろう。

 国際的常識をもっている世界の主要国の政府関係者は、靖国神社に参拝している。参拝していないのは中国だけなのである。2002年3月には、韓国の大使館付武官の柳海軍大佐、徐陸軍大佐も靖国神社に参拝している。

 中国が好んで使用する「歴史を鑑として」の「歴史」は、日本が創造した言語で日本語を取り入れた弊害が今頃になって現れて来たのであろう。未だ中国は、「歴史」を客観的に見ることなどまったく必要ないとの判断で解釈しているようだ。

 一般的に日本が、西洋近代文化を学び始めたのは、幕末の西周や津田真道などのヨーロッパ留学以降といわれている。しかし、実際には西洋近代文化を取り入れ始めたのは、それより100年以上前の1720年(享保5)年からである。

 将軍吉宗は、1720年、宗教書以外の洋書の翻訳を解禁したことで、一気に洋書熱に火が付いた(『中国人日本留学史』)。

 中国は、同じ1720年、キリスト教を禁止して、以後100年間宣教師は中国でほとんどの活動が封じられた。中国では中華思想の高慢な態度で、外国人が漢訳した本には見向きもしなかった。それが、日本と中国の近代文化の吸収の差となって現代にも影響をあたえているのである。

 本年4月の北京で開催された日中外相会談の席上、李肇星外相は、町村信孝外相にたいして「日本には人権問題がある」と意味不明な発言をした。

 日本がいかに人権問題にかかわって来たのかを実例で示すと、1872(明治5)年、横浜に停泊中の奴隷船マリア・ルーズ号の船長を裁判にかけ、監禁されていた中国人苦力230名を解放して、中国に送り返しているのである(『明治維新と東洋の解放』)。

 日本は、中国が人権の意味を知らない時、すでに現在にも通用する人権意識をもっていたのである。ちなみに「人権問題」は日本語である。

 1919(大正8)年ベルサイユ講和会議において、日本は「人種差別撤廃決議案」を上提した。19人の委員の内11人が賛成し、2人は欠席して反対投票はなかった。

 しかし、英国代表のロバート・セシル卿が強固に反対し、日本の提案を強く拒否した結果、議長の米国大統領ウィルソンは否決したのである。

 この時、人間平等の精神が踏みにじられたことが、我が国における第二次大戦の淵源にもなっている。

●かつて中国の要人は度量が広かった

 人治主義の中国に於いて、表面的であっても友交関係が維持できたのは、日本留学組の郭沫若副総理(九大医卒)、周恩来首相の参謀役だった廖承志(早大で学ぶ)などが存命中の1983年頃まで。そのころは歴史認識問題など起きていなかった。

 周恩来のあとを引き継いだ華国鋒首相の存在も見過ごすことはできない。1980年5月、中国人民外交学会(日中友好協会の上部機構)の招待で、国策研究会常任理事矢次一夫、三菱重工業相談役河野文彦、評論家細川隆元の三人は、準国賓の待遇で華国鋒首相、トウ小平(登ヘンにおおざと:トウ)副首相と会談している。度量の広い会談が交わされている。(『北京会談〈全記録〉』)

 河野 西太平洋においてお国と日本と米国が協力していくことが世界の平和・安定を維持していく上にきわめて重要であるという点で、私はそのことだけ申し上げたいと思います。

 華国鋒 すべての問題が完全に一致するのは大変難しいことです。それぞれの国が置かれている環境・条件が異なる。…問題を認識する場合、それを見る角度によって認識も異なってくるわけです。…私たちが自分の意見と異なる意見を耳にした場合、それはむしろよいことで、悪いことではないと思います。…相当な相違点をもっているというのはごく正常なことだと思います。

 トウ小平 私たちの間には、多くの問題について、見方や見解に相違のあることを、私は承知しております。しかし、それは構わないことで、重要なことは、私たちの間の理解を促進していくことです。


 天安門事件を武力弾圧したトウ小平のことばは、額面通り受けとれないにしても、現中共指導者の硬直した姿勢とは大きな違いである。そして、トウ小平は矢次氏に対して唐突に次のことを申し入れたのである。

 「きょうここで、岸(信介)先生に対し正式に招待の意を表明いたします」

 今、中国は、靖国神社に合祀された「A級戦犯」のことを大問題にしているが、岸元首相は戦前から満州の妖怪と畏れられ、戦後は、GHQに「A級戦犯」として逮捕された人物である。

 中国は、利用価値がある国家や個人には遜り「A級戦犯」でも招待する価値があると判断する。

 「白いねこでも黒いねこでもねずみを取るねこは良いねこだ」は、トウ小平のことばとして有名だが、これはトウ小平個人のことばというよりも、「中国四千年」の歴史の中で中国人の遺伝子に組み込まれ、変化することのない基本的意識なのである。

ある軍関係者の嘆きから転載。

2013年09月16日 00時52分50秒 | 色んな情報
ある軍関係者の嘆きから転載。
手登根 安則
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ある軍関係者の嘆きから転載。
 
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昨日(9月14日、土曜日、1055分ごろ)、キャンプキンザの南側のゲート(ゲート5)の前で、OTVの車と数名の関係者が極めて怪しくふざけていた行動をしていた。
たまたま私は通ったので、写真をとりました。
海兵隊の服(90年代)をある日本人の男に着させ、外国人であるということを強調するようなデカイ鼻の仮装を用い、海兵隊のフェンス(土地)で運動させる場面でした。
良心のないメディアの本質をみて悲しかった。
質が低い。人権問題も。拡散・シェアしていい。
 
※この風体は、先だって天皇皇后両陛下のコスプレを纏い、両陛下を辱めるコントをかました、「お笑い米軍基地」のメンバーだと思います。
また、米兵の格好をして、反基地を煽る番組でも撮影していたのでしょう。
 
両陛下を辱めたこと、愛子様を侮辱したことについて、この連中は今だ正式な謝罪をしておりません。
そんな連中を持てはやす沖縄メディア、残念すぎます。
 
   


長田  敦希 この番組は「ゆがふぅふぅ」の撮影ですね!



新垣喜成 OTVのゆがふぅふぅって番組で米兵の格好をしてコントをしてますよ。キングジョーだったかな?
  

太田 勉 沖縄には「お笑い米軍基地」ではなくて「お笑いOTV」や「お笑い新報」のグループが必要です。



瀬底正治 FEC所属コンビ名ハンサムの金城さんです。しもしも建設のCMの人です



栗秋 琢磨 マスコミに媚びて仕事を貰うFCP。お前らで笑ったことは一度も無い。



仲村 功太 テレビで有名な自称脳科学者 茂木健一郎氏は彼らを絶賛しているようです。
やれやれです…
http://www.fec.asia/owaraibeigunkichi/
お笑い米軍基地|沖縄お笑い芸人サイトFEC
www.fec.asia
注目を浴びているパフォーマンス集団の舞台を完全記録したDVD『基地を笑え!お笑い米軍基地』Vol.1~Vol.8まで好評販売中!



栗秋 琢磨 でも、主宰のまーちゃんとやらは『基地が無くなったら困る、仕事が無くなる』って本音を吐いてましたね。ゴリmeets復帰っ子で。ま、本心はそうでしょうね。



南川 純一 下劣という言葉以外見当たりません。



仲村 功太 対象を侮辱しながら無くなったら困る、正に朝鮮思考じゃありませんかw 日本人じゃないですね、どうやら。



手登根 安則 この方ですかね?

http://kyushu.yomiuri.co.jp/・・・/shagan/1301/sh_130118.htm
“米兵”ニッキー お笑いミッション : 写眼 : 九州発 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
kyushu.yomiuri.co.jp
読売新聞西部本社のニュースサイト、教育、文化、歴史、写真、ドキュメント、コラムのコーナー



山口 藤明 九州発ってのが、正直、不愉快。ちょっとそこに抗議します。



栗秋 琢磨 こいつです。『お笑い県産品』にてクッソツマンネエオスプレイDisりネタやってた奴は。



手登根 安則 この連中が両陛下を侮辱したコントをやったことを、地元紙がこう報道していました。
WEB版は、とうの昔に削除しています。
手登根 安則さんの写真
https://fbcdn-sphotos-b-a.akamaihd.net/hphotos-ak-ash4/1175213_512085412204866_197751272_n.jpg

手登根 安則 WEB版ではカラーでした。
手登根 安則さんの写真

https://fbcdn-sphotos-h-a.akamaihd.net/hphotos-ak-ash3/557119_512086722204735_1995104266_n.jpg


我如古 優太 この人のネタって 微妙なゾーンですけど

90年風ってのは もう少し配慮していたと ずっとテレビ見ながら思ってたんですが

彼はあまり 侮辱はしていませんよ ですが、前に日本人の事を悪く言ってたのは
違うと思います



山口 藤明 こいつら前もなんかやらかしてますよおね。抗議されてたような。



仲村 功太 彼らがもし日本人なら皇室についてもう少し勉強した方が良い。勉強した上でやってるならアホに付ける薬は無いので人生を諦めた方がいい。勉強し直して素直に面前で謝罪すれば天は許してくれるんじゃないかな…



手登根 安則 優太さん、皇室をネタにすることはタブーですよ。
やっていいことと、悪いことがあります。
芸のためなら、何をしてもいいと言う訳ではありません。
以前、別なヤツがこれを仕出かして大問題になりました。

http://www.youtube.com/watch?v=WwY4pxSuEaE
問題の殿方充
www.youtube.com
これはダメでしょ?



井形 淳 これは芸とは呼ばないでしょう。



井形 淳 洗脳は解けないのデスね。無理‼



手登根 安則 「基地が無くなったら困る」、というフレーズは、「基地は要らないが、軍用地を返されると困るので借りて欲しい」という、名護市長と共通した思考です。



井形 淳 金くれ…だけ



謝花 賢 巨悪に笑いで立ち向かうというのであれば、「お笑い人民解放軍」を天安門でやってもらいたいですね。



廣橋 正一 手登根さんのおっしゃるとおり、日本人なら皇室をネタにするのには抵抗があって当たり前かと思います!

僕も、先日それとは知らず、松元某という左翼芸人のライブに行ってしまい、昭和天皇を侮辱する場面に遭遇しましたが、非常に腹立たしく感じました‼( *`ω´)

しかも、その芸人が僕と同郷ということにさらに腹が立ちました‼・・・もっと見る



我如古 優太 お得意の憲法9条は守ろう守ろうって言うのに 前文は守らないんですかね?



神宮司煕 高貴を蔑み下劣を愛するに至った人間たちの無秩序な集まりを衆愚と申します。



井形 淳 日本人ではないでしょう



手登根 安則 沖縄では、メディアに擦り寄らないと芸人としての仕事がないのです。
結果的に、メディアを喜ばせる芸風を醸し出すしかない。
それは反米、反オスプレイ、反日そのもの。
マトモなアーティスト、ミューゾシャンって、ゲンちゃんくらいなものです。



手登根 安則 優太さん、彼らはいつも矛盾だらけです。
よって、論戦になると、
1.論点ずらし
2.ダンマリ
3.逆切れ・・・もっと見る
  4.新聞を読め
  に至るのです。


諸見里 太一 ゆがふうふうですね。情けないし、笑えない。見てるこっちが恥ずかしい。

少し話をそらしますが、この番組の東風平愛郎さんと、後にその兄とメールで、基地関連で揉めた経験があります。

おかげで私はFBで軍職員であることを伏せるハメになりました。堂々といけないのです。

沖縄で、基地賛成はタブーみたいです!

私でさえ、もの凄いバッシングを喰らいました。



Kaya Tamashiro これゆがふーふのやつで、そんな面白いとゎ思ってなくて悪いようにゎ思わなかったんですけど。。。(´・_・`)こんなのも嫌なんですか?(・・;)



前原 カニメガ てどこんさあん

許せない(怒)

しかもキンザーで(怒)



我如古 優太 彼らのお得意の新聞って
広告でFCPとか無理ですかね?(笑)

新聞読んで 頭が良いじらーしてますけど

タイムスは航空機の名称ミス
新報は インタビューの書き換えから私は信じていないんですが

彼らは新聞の狭い価値観の中で人生を過ごすとなると

可哀想にしか見えません



真栄里 隼人 お笑いなのに
してる事は全然笑えない....
新報なのに"進歩"は
見られず、タイムスなのに
止まったままで...

それを承知でしてるなら
尚更質が悪いですね。



井形 淳 考査で掲載されないかも



井形 淳 情けない新聞デスねっ…助成事業ですか?



上村 貴世史 小波津 正光
NHKで見たときから、名前と顔は、インプットしてます。
みかけたら…

漢字が表す二つの世界   日本語の恩返し

2013年09月16日 00時24分53秒 | 色んな情報
漢字が表す二つの世界   日本語の恩返し


京免 史朗
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漢字が表す二つの世界   日本語の恩返し
                 文 中国社会科学院文学院 李兆忠

 四角い小さな漢字の中に、二つの異なる世界が存在している。

 一つはもともと中国で造られた中国製、もう一つは日本で改造された日本製である。
この二つの世界は、「あなたの中に私がいて、私の中にあなたがいる」ようなもので、コミュニケーションにはとても便利だ。しかし多くの場合、この両者は、うわべは親しそうに見えて実は心が通わず、似て非なるものなのである。

 日本語の中の多くの語彙は、見た目では中国語とまったく同じだが、実は意味が非常に違う。中国から来たある代表団が日本の工場を見学したとき、工場内に掲げられている「油断一秒、怪我一生」というスローガンを見て、その文字面だけから「これは油が大切だと言っているのだな」と憶測した。中国語では「一秒でも油が切れれば、生涯自分が悪いと思う」という意味になるからである。

 しかし実は日本語では、これは安全生産のスローガンなのだ。「油断」は「不注意」、「怪我」は「傷を負う」という意味だとわかって大笑いになった、という。

(中略)

 日本語の中で使われる漢字の語彙には、中国人の想像を超えるものがほかにもたくさんある。
たとえば、中国語での「無理やり」を意味する「勉強」は、日本語では「学習」の意味で使われる。中国語で「夫」を意味する「丈夫」は、日本語では「頑丈」の意味だ。
このように、表面の「毛皮」を傷つけることなく、中身の「肉」をすっかり「すり替え」てしまう日本人の知恵と想像力に、感心せざるを得ない。

 しかし、われわれ中国人は、これに驚く必要はない。率直に言えば、現在の中国で使われている中国語の語彙の多くは、20世紀初めに日本から導入されたものだからだ。
たとえば、「金融」「投資」「抽象」など、現代中国語の中の社会科学に関する語彙の60~70%は、日本語から来たものだという統計がある。

 
 漢字文化圏に属する多くの国家や民族を見回して見ると、漢字をこのように創造的に「すり替え」、もう一つの漢字王国を樹立し、かつまた中国語へ「恩返し」しているのは、日本だけだ。

 日本のすごいところは、中国の漢字に対して、受動的にそのまま受け入れるのでもなく、愚かにも高慢にそれを拒否するのでもない、自発的にそれを手に入れ、徹底的にそれを消化した後、自分の必要に応じて大胆な改造を行い、自分の言語にしてしまうところだ。
だからこそ漢字は、日本にしっかりと根を下ろし、西洋文化の猛烈な襲来に耐えることができたのである。

 客観的に見れば、この奇跡は、かなりの程度、日本が島国であるという特殊な地理的環境によっている。広大な太平洋が天然の要害となり、異民族の鉄騎兵の侵入を阻止したばかりでなく、文化的に異民族に同化される運命から逃れることができた。
大陸とも適当に離れているため、日本は必要に応じて、自分より先進的な中国の文化を摂取し、ゆっくりとそれを咀嚼し、消化して改造することができた。異文化をどう受け入れるか、その主動権は完全に自らの手中にあったのである。

 これと同時に、1200百年前、日本は漢字を大規模に導入するとともに、「ひらがな」を発明した。ここで日本は自分の文字言語を持った。
「ひらがな」は完全に漢字の草書体に啓発されて造られたものではあるが、大和民族の魂の深いところにある必要性から発したものでもある。

 日本人から見るとおそらく、基本的に一つの漢字に一つの音がちゃんと対応している四角い漢字は、柔らかくて滑らかな日本語の感覚や、長さにこだわらない語彙とは多少隔たりがあり、曲線が美しく、簡潔な「ひらがな」こそが、日本人の発想や言語感覚により合致すると映るのだろう。

 「ひらがな」は日本語の形を完成させた。それを用いて発音を表記することができ、漢字の発音を日本化させた。また、直接、日本固有の語彙を書き表すこともでき、助詞として用いてセンテンスを構造することもできる。まさに一石三鳥とも言うことができる。

 「ひらがな」の創造は、日本語が自分の「形」と「心」を探し当てたことを意味する。これによって漢字は第一線から退き、一つの重要な材料として日本語の構造の中に組み入れられた。
この時、漢字の固有の意味は、時間の流れとともにひっくり返されたり、「すり替え」られたりすることが必然的に発生した。全体からいえば、漢字の語彙の意味が厳格で重厚な歴史の含蓄を持っているのに比べ、日本語の漢字の語彙は明らかに軽く、生き生きとしている。
使い方もそれほど厳格ではなく、通常、いくつかの異なる漢字を使って一つの日本固有の語彙に表している。それによって人々はさらに、一種の遊びの味を感じるのである。

 漢字に対する違った考え方が、二つの異なる漢字の世界をもたらした。その優劣は、一概に論じられない。しかし、西洋文明が東側に浸透してきた「近代化」の歴史背景の中で見れば、その優劣ははっきりと示されている。当時、激しく湧き起ってきた近代化の流れと西洋の科学文化に直面した中日両国の学者たちは、まったく異なる姿勢と反応を示したのである。

 たとえば、西洋の科学に関する著作を翻訳する際、清朝末期の中国の学者は「中学為体、西学為用」(中国の学問を「体」とし、西洋の学問を「用」とする)という文化的な信念を堅持し、中国の古典を引用して西洋科学の概念を既存の語彙に置き換えようとした。
例えば現在の「経済学」を、「計学」あるいは「資生学」と翻訳したり、
「社会学」を「群学」と訳したりしたのである。しかし結局は、どうにもならなくなってしまった。

 しかし日本の学者は、実用的で柔軟なやり方で、「文字本位制」の制限を受けずに、意訳の方法によって、数多くの多音節の語彙を作り出し、みごとに西洋の概念を置き換えることに成功した。これによって、日本が西洋に学び、「近代化」の道を歩んでいくうえで、言語の面で道路が舗装されたのだった。

 もし日本が、漢字を借用して西洋の概念を置き換えることをしなかったら、現代の中国語はいったいどのようになっていただろうか。おそらく今よりも寂しいものになっていたのではないだろうか。多分、強い刺激や栄養に欠けているため、すばやく「近代化」することが難しくなったに違いない。

 こうした角度から見れば、日本語の中国語への「恩返し」の功績を、
われわれは決して忘れてはならないのである。



コメント




我喜屋 良明 皆が一緒ではない訳で、もうひとつの彼の国にも、訳の判った人が多いと信じたい。



森 照夫 共産主義と資本主義とはなかなか難しい者が有る、早く自由な中国に成って欲しいです、国民に選べて居ない者が国民を納得させることは無理がある、選挙で選ばれて居ても日本国でも与野党が上手くいかない。



大寺 一弘 そもそも「共産」「資本」が日本仁が作った漢語だから、中国共産等は自分たちの思想を表現するのに日本ぢ道を排除できなくなってるわけですね。幕末・明治の日本人に感謝。